第5話 「王都行きと、華やかな匂いの迷宮」
王都の馬車は、夜明けの薄い光の中を滑るように進んだ。
車輪が軋むたびに、私の胸も少し揺れる。隣にはライナスが座り、彼の剣は鞘に収まったままだ。彼の表情はいつもより険しく、そしてどこか誇らしげに見えた。
「気をつけろ。王都は辺境とは違う。お前の噂は、ここでは“力”として扱われる。利用価値がある者を見抜く目がある」
ライナスは低く囁く。外套の襟に残る焦げ跡が、まだ彼が戦った証を語っていた。
私は小さな瓶を掌に転がす。ラベンダーの香りが、揺れる馬車の隙間からふわりと鼻をくすぐった。
(香りが、ここでも私を守ってくれるならいいけれど……)
馬車が王都レヴィナールの門に近づくと、空気が変わった。舗装された大通り、石造りの建物、そして何より人の匂い。香辛料、革、燻された肉の香りが混ざり合い、辺境では決して嗅げない複雑な“都市の匂い”が鼻を打つ。
「これが王都か」
ライナスの声には、幼い頃の憧憬の残滓が混じっていた。
馬車は王都の正門で止められ、黒衣の使者に案内されて馬車の扉が開かれた。彼は一枚の羊皮紙を取り出し、厳かな声で読み上げる。
「レヴィナール王宮、内務官・セルジュより。ミレイユ・アルシェ女史に対し、王命により王宮内での力の検証および事情聴取を行う。同行者一名まで許可される。女史は直ちに謁見の間へ参ること」
羊皮紙の紋章には、王冠を囲む三本の百合が刻まれている。読むだけで、重みが伝わってくる。
「同行者一名」――ライナスが私の目を見て小さく頷いた。私はそれに安心しながらも、胸に冷たいものが落ちた。
王宮への道は、豪奢そのものだった。両脇には衛兵が整列し、道行く人々は王都の紋章を敬って頭を垂れる。建物の壁面には浮彫りの紋章や彫像が施され、噴水が太陽を跳ね返している。だがその華やかさの陰に、鋭い視線が潜んでいるのを私は感じた。
「目立つな」
ライナスが囁く。私は頷き、外套を深く被った。
謁見の間は想像していたよりも静かだった。天井は高く、壁には王家の歴史を描いたタペストリーが掛かる。中央には広い玉座があり、その前に王宮の重臣たちが控えていた。顔を上げると、黒い衣の中年の男が私たちを見下ろしていた。彼が内務官セルジュだ。
「ミレイユ・アルシェ。香りの治癒で辺境を救ったと報告を受けた。王は直接お前の力を見たいという。異能は国家の資産となりうる。ゆえに、まずは形式的な質問と、力のデモンストレーションを求める」
セルジュの口調は機械的で、感情がない。
私は胸を落ち着け、小さく会釈した。
「承知しました。私のやれることを見ていただければ幸いです」
重臣の一人が書記を取り出し、質問を始める。だがその内容は、単なる“能力の確認”に留まらなかった。どこから原料を得ているのか、誰に使っているのか、王都に対してどのような利益をもたらせるのか――商業的な側面や軍事的応用まで列挙される。
(能力が国家の歯車に組み込まれようとしている……)
私の心臓が早鐘を打つ。ライナスの手が、さりげなく私の腕を握る。彼の目が「大丈夫だ」と語ってくれた。
「力は、傷を癒すだけではありません。人の心を穏やかにする。民の不安を解き、疲れをとる。戦場での怪我を直すだけでなく、国の疲弊を和らげる――私はそのために使いたいと考えています」
私は言葉を選び、真摯に告げる。だが重臣たちの顔には計算の色が見えるだけだ。
デモンストレーションのために、王宮は特別に用意した治療室へと私を案内した。そこには傷病兵が一人だけ、静かに横たわっている。彼は戦で片腕を失い、夜な夜な悪夢にうなされると説明された。
部屋の扉が閉まると、私の目に薄暗い光が落ちる。瓶を取り出し、香気を慎重に調合する。ラベンダーを基調に、サンダルウッドとベルノートを微量混ぜる。香りが空間を満たすと、奇妙な静けさが訪れ、兵の顔の表情が和らぐのが見えた。
「眠ってください。ゆっくりと、呼吸を……」
私は指先で小さな円を描く。香気の膜が兵を包み、彼の眠りは穏やかに深くなっていった。
王宮の顧問らの視線は鋭く、それと同時にどこか安堵が混ざるようだった。だがセルジュは冷たく問いを投げる。
「お前の力は永久に続くものか? 特定の素材が切れた場合、どのくらいの代替が見つかるのか?」
質問は現実的で、資源管理の視点を含んでいる。私は正直に答えた。香料の一部は辺境でしか採れないものがあり、また作成には時間と熟練が必要だと。ライナスが補足して、私の技術が“即席製造”に向かないことも説明する。
沈黙が落ちた。重臣たちは互いに視線を交わし、何かを決めかねているようだった。その時、玉座の陰から静かな声が響いた。
「よかろう。まずは王都の医療部門と協力し、一定の条件下でアトリエの試験的供給を認める」
低く、しかし確固たる声。王の代理である摂政とも言える存在の一言で、場の空気が一変した。
セルジュは敬礼し、私に王命書を差し出す。文字は冷たく、だが逃れられない重みを持っている。
「同行者一名までの許可は、この王命書のもとに限定される。違反すれば重罪だ」
セルジュの言葉は最後まで柔らかくはならなかった。
私は王命書を受け取り、紙の感触を掌の中で確かめた。言葉にならない感情が胸に渦巻く。けれど一つだけ、確かなことがある。――私には帰るべき村があり、守るべき人がいる。王都に居続けるつもりはない。だが、今この力を見せることで、村を守る手段を、より多くの人に提供できるかもしれない。
ライナスがそっと近づき、私の手を握った。その温もりが、私を現実に戻す。
「行きましょう。条件を決めて、私たちの形で進めればいい」
彼の声は静かだが揺るがない。
私たちは王命書とともに、一時的な許可を得て王都に留まることになった。夜、王宮の窓から見下ろす街の光は、まるで宝石のように瞬いている。だがその輝きは、どこか冷たく遠い。
――香りは人を救う。だが、力はいつだって二つの顔を持っている。
私はそのことを、胸に刻んだ。
窓の外で、誰かが夜風に乗せて笛を吹く。音色は甘く、それでいて寂しい。ライナスが肩をすくめて笑う。
「……あの笛には、辺境の匂いがするな」
私は小さく笑い返し、ラベンダーの小瓶を掌に握りしめた。
明日から始まる、私と王都の“交渉”。香りと私の未来が、ゆっくりと動き出した。




