第1話 「婚約破棄、そして香りのはじまり」
王都レヴィナールの大広間には、紅茶の香りと、ざわめく貴族たちの声が満ちていた。
その中心で、私は静かに立っていた。
「ミレイユ・アルシェ侯爵令嬢。君との婚約を、ここで破棄する」
金糸の髪を揺らしながらそう告げたのは、王太子ジルヴァン殿下。
彼の声はよく通る。だからこそ、その言葉が私の胸を鋭く刺した。
「……理由を、お聞きしても?」
「君には“温かみ”がない。民の心を知らぬ冷たい令嬢とは、未来を共にできぬ」
――なるほど。
王太子の隣にいる、紅の髪をした伯爵令嬢が小さく笑った。彼女の名はリリアナ。社交界では“光の聖女”と呼ばれる人気者だ。
観衆の視線が私に突き刺さる。
誰かが笑い、誰かがひそひそと囁いた。
(ああ、こうなるのね……)
私は静かにカップを置いた。
香り立つ紅茶の湯気が、かすかに鼻をくすぐる。
その香りを、私はどこか懐かしく感じていた。
前世の記憶――私はかつて、日本で調香師として働いていた。
香りで人を癒し、香りで誰かの人生を支えた。
でも、最後の最後で職場の裏切りに遭い、疲れ果てて眠るように命を落としたのだ。
そして気づけば、この世界の侯爵家の娘として生まれていた。
(温かみがない、ね。……たしかに、私はそうかもしれない)
でも、もう涙は出なかった。
失うものなど、もう何もない。
「殿下。婚約破棄、承知いたしました。どうか末永くお幸せに」
微笑みながらそう告げ、私は静かに踵を返した。
背中に浴びせられる視線を、紅茶の香りがそっと包み隠してくれる気がした。
──それから数日後。
辺境の村・カーヴェに、ひとりの元令嬢が馬車を降り立った。
白い外套、黒髪を風になびかせて。
彼女――ミレイユ・アルシェは、手の中の小瓶をぎゅっと握りしめていた。
「……さあ、ここからね」
瓶の中には、淡いラベンダー色の液体。
前世で作った、たった一滴の“心を癒す香水”のレシピを、思い出して再現したものだ。
村の空気は乾いていて、どこか寂しかった。
けれどその空に、ラベンダーの香りをそっと流してみる。
風が運び、子どもが顔を上げる。
泣いていた少年の頬が、香りとともに少しだけゆるんだ。
「ねえ、お姉ちゃん。なんか、いいにおい」
「ふふっ。気に入ってくれた?」
ミレイユはしゃがみ込み、少年の髪をそっと撫でる。
その瞬間――彼女の中に、柔らかい光が灯った。
それは魔力だった。香りに反応して、彼女自身の魔力が目覚めたのだ。
(……香りに魔力が宿る? それなら――)
心の奥に、熱が走る。
失ったものの代わりに、今ここで何かを作れるかもしれない。
香りで癒し、香りで笑顔を取り戻す世界を。
「ようし、アトリエを作りましょう。名前は……“アトリエ・ミレイユ”。悪くないわね」
新しい人生のはじまりに、ラベンダーの香りがやさしく揺れた。
──辺境の小さな香り屋は、やがて王都を揺るがす“奇跡の香り”として知られることになる。
けれどこの時のミレイユは、まだそれを知らなかった。




