後編
「なんですか……これ……」
亞輝斗から亞輝那、雷月、獅子丸、そして安曇と交代で運転し、予定より少し早めに辿り着いたものの、車から降りた途端、唖然と安曇が口を開く。
早朝にも関わらず、行方不明になった十河を探すため、既に山狩りを開始しているのか、周囲はやや騒然としていた。
しかし、安曇のリアクションの原因は、そこではない。
「なんだろ……変に反響して、十河の気配が増幅してるような、ハウリングしてるような……どっちにしろ、正確な位置がわかりゃぁしない」
亞輝那も、妙な気配に眉間に皺を寄せた。
そんな中、雷月が目を細め、隣の獅子丸に声をかける。
「獅子丸。さっき車で言っていた、楊貴妃の伝説に関する詳しい詳細を、皆に教えてやってくれ」
慌てる様子もなく冷静な雷月に、獅子丸は一瞬「今ですか?」と眉を顰め不思議そうな顔をしたが、頷く雷月に「わかりました」と口を開く。
「話を要約するなら、安史の乱を生き延びた楊貴妃様が、お付きの侍女と一緒にこの地に流れ着かれましたものの、村人方の看病むなしく、弱ってそのまま亡くなられた……と」
雷月は表情を変えることなく、獅子丸の言葉に耳を傾けた。
「けれど正直申しまして……どうして、ただの村人と唐の後宮で暮らしてきた侍女の言葉が通じたのか等、疑念が残る部分もありますので、あくまでも「伝承」として受け止めるべきかと。全く別の内容ですが、楊貴妃様の伝承は、熊本の方にもありますしね」
「ライ……でも何か、気になることがあるんでしょう?」
不安そうな表情で、安曇が雷月を見上げた。先程の亞輝斗もそうだが、彼らは人の感情に敏感で、それでいて、良い意味でおせっかいだ。
あぁ、少々一人で気負いすぎていた。と自覚し、思いなおした雷月は、安曇の言葉に甘えることにした。
「こんな話がある。乱が落ち着き、長安に帰った玄宗が、楊貴妃の墓を動かそうと、宦官に楊貴妃の墓を確認させたところ、中は遺体を包んでいた布と香袋のみが残されており、遺体は忽然と消えていた……」
「それって……表向きは死んだことにして、実際は本当に逃げて、山口に漂着したって事かしら?」
亞輝那の言葉に、雷月は静かに首を横に振る。
「彼女は貴妃になる前に、便宜上とはいえ、太真という名の道士だった。また、彼女の侍女には張雲容という名の後に仙女となった者がいたと言われている」
そして、明確に創作とされてはいるが、楊貴妃の死後五十年ほどして作られた、長恨歌と長恨歌伝。
皇帝玄宗の命令を受けたある道士が、楊貴妃の魂を探し、海に囲まれた仙人の住まう山へと向かい、彼女と出会うという物語。
荒唐無稽な話ではあるのだが、火のない所に煙は立たない。
「蓬莱、方丈、瀛州……後の時代に大陸にも、同じ地名ができたようだが……古来、彼の国の定義する東方三神山は、日本だ」
「と、いうことは……ライは、今回の黒幕が仙人になった楊貴妃だって、考えてるワケだね」
納得する安曇に、「いいや」と、あっさり雷月は首を横に振った。
思わず安曇は、これまでの話の流れは一体何だったのかと、前のめりにずっこける。
「事は、そう単純な話じゃない。もっとも、楊貴妃がどこかで絡んでいる可能性も、決して零とは言い切れないけれど」
雷月は目を細め、左手を前に伸ばした。
長い袖口から覗く手が淡く輝いて、人間とは違う、刺々しい形状へ変化する。
「安曇、オレは、なんだ?」
「何って、五指の……あッ!」
安曇は息を飲んだ。
秩序の安定を持った皇帝を選ぶ、五指の龍──。
「もしかして……居たの? 安史の乱の混乱期に!」
「……ああ」
雷月は肯定したが、彼の表情が少し曇る。
しかし、首を横に振って、雷月は続けた。
「楊貴妃と五指の龍に接点はない。彼女が十河に執着する動機もない……ただし」
獅子丸の言っていた、海の向こうからの来訪者。
そう、海を超えて漂着したのは、楊貴妃一人ではない。
「姜若溪。歴史に名を残さなかった、楊貴妃に仕えるもう一人の仙女。彼女は泰然の……五指の龍の、最後の金龍の……恋人だったんだ……」
◆◇◆
「いょっしゃぁッ! もういっちょッ!」
景気の良い亞輝斗の声と同時、パチパチドカーンッ! と、雷の爆ぜる爆音と、パリーンッという甲高い音が周囲に響き、結界が破られる。
元来、厄災の侵入を防ぐための結界を、魔に属するモノが正当な手順を踏むことなく、物理的に破壊して侵入するとか出鱈目にも程がある。しかし、当の亞輝斗も楽しそうだし、何だかもう、どうでもいいや──と、呆気にとられながらも、三人は後ろに続いた。
その、ドカーンッ! パリーンッ! を幾度か繰り返し、獣道も無い山の斜面を登った後──。
「見つけたッ!」
「十河!」
一番前を行く亞輝斗の声にふと顔を上げ、十河の姿を見つけるなり、雷月が叫ぶ。
それは、ある意味、異様な光景だった。
ぐったりと横たわる十河。しかし、その肉体の下半分以上は龍のように長く伸びて、金の鱗がぼんやりと淡く輝く。
また、その大きさは現時点で既に雷月の龍形態よりさらに大きく、十メートルを軽く超えていた。
そんな意識の無い十河を、頬擦りするように、一人の女性が愛おしそうに抱きしめていた。
しかし──。
「僵尸……いえ、動く死体ですか」
「ゾン……いや、お前の言いたいことは、そりゃ解るけど……たぶん尸解仙ってヤツ……かなぁ?」
サングラスをクイっとあげながら空気を読むことなく淡々と口を開く獅子丸に、一瞬言葉を詰まらせて亞輝斗が訂正した。
尸解仙とは仙人の一種で、肉体の死を経て、仙人となった者である。余談ではあるが前述の楊貴妃も、件の香袋を肉体の代わりに棺に残し、尸解仙となった──と言われている。
そこに至る細やかな経緯や状況は尸解仙とは異なるものの、遥か昔、人間から一度死んで鬼となった亞輝斗としては、そんなゾンビとは一緒にされたくない気分だ。
亞輝斗は内心ため息を吐きながら、十河に寄り添う女──若溪に、声をかけた。
「あんだけ派手に結界破って入ってきたんだから、こっちの用件は解ってるよな。……そいつはお前さんの、想い人じゃない。返してくれ」
痩せた身体に、美白を通り越して青白い肌──見える範囲に明確に腐ったようなところは無いが、死臭というか、どう見ても死の気配が纏わりついた女。
若溪はキッと、鋭い視線を四人に向ける。
「違うものか! こんなにも美しい黄金の龍は、あのお方……泰然様の他にはおられまい!」
あぁ、泰然様……と、意識の無い十河に、若溪は寄り掛かる。
「泰然……本当に……」
「ライ?」
金の鱗を前に目を細める雷月だったが、亞輝斗に声をかけられハッと我に返ったように、雷月は自分で両頬を叩き、首を横に振った。
──うん、しっかりしろ。自分は、江藤雷月。オレは──今の自分は、かつて龍泰然と接した──泰然を心から慕っていた、銀の龍ではない。
雷月はしっかり前を見据えて、一歩ずつ、若溪に近づいた。
「……たしかに、五指の龍は、過去の同種の龍の記憶を継承している。十河が金龍なら、泰然の記憶も十河の中に眠っているだろう」
でも──だから──。
「だからこそ、泰然を起こすな!」
雷月の言葉と共に、俗世と隔絶された結界の中に、ぶわりと一瞬、強風が荒れ狂う。
「うわッ!」
「きゃッ!」
至近距離に居た小柄な亞輝斗が勢いよく吹き飛ばされて、獅子丸にぶつかった。後ろで亞輝那もスカートを押さえながら、小さく悲鳴をあげた。
風の中心から大きな銀色の龍が飛び出して、若溪に向かって飛びかかる。
が。
不意に金色の巨大な尾が動いて、雷月を弾き飛ばした。
「十河!」
背中をしこたま太い幹にぶつけて、呻きながら雷月は声を上げる。
その声に反応してか、うっすらと、十河の目が開かれた。
ただし。
潤むその目の色は、元の十河の色ではなく、赤。それも亞輝斗のような鮮やかな真紅ではなく、深く、濃く、例えるなら乾きかけた血のような、どす黒い赤だった。
「……」
「泰然様ッ!」
微かに小さく口を動かす十河に、嬉しそうに若溪が叫んで手を伸ばす。
──しかし。
伸ばされた彼女の手を、十河が握ることはなく。
「な……」
若溪の細い体を、龍の左腕が、軽々と貫いた。
(指が、三本……?)
若溪の背中から突き出た鋭い爪の数を亞輝斗が訝しむが、直感的に亞輝斗は妹に叫んだ。
「亞輝那! 結界の上書き、今すぐ頼む!」
「まーかせて!」
深い山の中とはいえ、外からこの様子が見えないよう、また、荒ぶる十河の能力が外に漏れ出ないように、亞輝那はボロボロに崩れかけた若溪の結界を、補強するように上から別の結界を被せる。
それとほぼ同時、不老不死のはずの若溪の肉体がザラザラと砂に還り、地面が小刻みに震えはじめた。
十河の肉体が、完全に龍のそれとなる。しかし、元来爬虫類のように縦に伸びている瞳孔が、完全に開き切って、まるで意思の読み取れない巨大な魚の目のように爛々と輝き、金色の巨大な身体から、黒い瘴気が噴き出した。
あぁ、これは──めちゃくちゃ美味そうじゃないか──。と、亞輝斗は思わず唾をごくりと呑み込む。
しかし今はそれどころではない、喰っちゃダメだと、他者の感情を味覚で判断してしまう鬼の本能を、頭をぶんぶんと振って思考の中から追い出した。
一方、雷月は何度も十河の名を叫ぶ。しかし、当の金龍は咆哮一つあげることなく、静かに──ただ静かに──何も認識しようとせず、何も捉えようとしない、無機質で爛々と輝く赤黒い瞳で、そこに佇んでいた。
相反するかのように、瘴気と小刻みな地震だけが、徐々に強くなってゆく。
「かつて……龍泰然は、選んだんだ」
何? 訝しむ亞輝斗に、唐突に雷月は淡々と口にした。
否、その銀の龍の表情は、苦悶に歪み、目の縁から細い雫が流れた。
「歴史は、勝者の物だ。楊国忠は、歴史に語られる、暗愚な人物ではなかった……」
楊国忠は、当時の宰相にて楊貴妃の又従兄。
有能ではあったものの、素行に問題のある人物であったとされ、皇帝による楊貴妃の寵愛に便乗することによって宰相となるが、安禄山と対立の末『安史の乱』の原因となり、『馬嵬駅の悲劇』に於いて、楊貴妃とともに、処刑された人物──と、されている。
しかし「それは違う」と、雷月は言った。
「堕落の末、王としての資質に欠けた玄宗に代わり、泰然は楊国忠を『王』に選んだ。けれど、どこかでその事実を聞き付けた皇太子の李璵が、先手を打って、国忠と一緒に泰然の首を落とした」
そして彼らの死後、楊国忠は貶められ、龍泰然は存在を抹消された。
『馬嵬駅の悲劇』の後──『安史の乱』自体はすぐには鎮まらず、その混乱を収めるためとはいえ皇太子の李璵を王として選んだのは、雷月と同一存在である銀龍だ。その時の彼が、雷月の中で、泰然の命と名誉を守れなかった自責と後悔の念とともに、雷月に警鐘を鳴らす。
「天命に従って選んだ王を殺され、自身の首をも刎ねられて……泰然を最後に千三百年以上、五指の龍の一族に土を司る龍は誕生していない」
雷月はその長い胴で金の龍に絡みついた。
「何故なら、龍として完全に目覚めきる前に、自らの心臓を握りつぶして、命を絶っているのだから……」
身動きがとれないよう──主に両腕を塞ぐために相手を締め付けるが、そもそも相手の方が大きいため、あまり長時間は持たないだろう。
大きく暴れる気配はないが、地面の揺れは強くなり、濃い瘴気に雷月が咳き込んだ。
「なぁるほど。コレは、人間に対する、憤怒と憎悪と拒絶の味……ってところか」
人間に首を落とされたのは亞輝斗も一緒で──無意識に、亞輝斗は自分の首の後ろに触れた。
黒い瘴気から臭い出る『祟る』なんて言葉が生易く軽々しい程の、そんな言葉では言い表せない強烈な感情。
それは、かつての自分も抱いていたモノ。
しかし──同時に何か、亞輝斗は違和感を感じた。
それはまるで、喉の奥にひっかかった小骨のような──。
(亞輝斗! 代わって! 今すぐ!)
不意に安曇の声が、亞輝斗の頭の中に響いた。
(なんだよ安曇。目星、ついてるのか?)
(……うん、多分ね。おおよそは)
そう放つ言葉に反して、きっぱり断言する安曇の口調に、亞輝斗はニヤリと笑う。
(そういうことなら、よっしゃ。お前に任せた)
亞輝斗が赤い目を瞑る。鮮やかに輝く金の髪は、根元から次第に暗い色に変わった。
そして彼が再び目を開いたとき、同じ顔ではあるが、先ほどまでとは違い、柔和で穏やかな表情が、そこにある。
金の龍と、それに絡みつく銀の龍を見上げ、安曇は声を張り上げて、金の龍に叫ぶ。
「龍泰然!」
しかし、矮小な人間の姿など、ハナから目に入っていないのか──それとも、単純計算で千三百年経ち、かつての自分の名すら、忘れているのか──金の龍の焦点は、安曇を捕らえることはない。
それでも、安曇は言葉を続けた。
「この御世において、貴方は、もう王を選ぶ必要はないんだ」
否、正しくは、現在の世は龍が選んだ王を必要とする世界ではないということだ。
微かに、金の龍が反応した。開き切って丸かった瞳孔が、ほんの僅かではあるが楕円になり、小刻みに揺れていた地面が、一瞬、突き上げるように強く揺れる。
安曇はそっと、左手の三本の爪のうちの一本に触れた。雷月に締め付けられて身動きがとれないとはいえ、払おうと思えば可能だっただろうが、金龍は大人しく、安曇を視認した。
「貴方のその根底にあるのは、自分を殺した人間に対する怒り以上に、選んだ王を守れなかった、自分に対する嫌悪感。……そうでしょう?」
故に、本来五本あるはずのその指は、全ての手足で三本にまで欠け、命を奪うほどの怒りの矛先は、人間ではなく、金龍へと向いた。
あぁ、大丈夫。触れた爪から伝わる龍の感情に、安曇は安堵し、にっこりと金龍に笑いかけた。
祟り神と呼ばれるモノの中で一番厄介なのは、無感動──長い年月の中で、主観的な喜怒哀楽全ての感情を喪失させた状態で、害悪のみを振り撒くモノたちだ。
しかし、それに比べてこの龍は、外的反応の少ない見た目や、祟る年月に比較して、まだ、感情豊かで、救いようがある。
なにより──その身体は、十河の──親友の物だ。
不意に、ポツポツと雨が降り出した。振り返ると「上手くやりなさいな」とでも言いたげな亞輝那が、ニンマリと笑っている。
亞輝那──妙童鬼の操る水は、『理水』または『命の水』と言われ、回復や浄化の力を持つ。金龍の身体から噴き出す瘴気が、水を受けて、一層濃くなった。
「雷月。無理しないで、離れていいよ」
濃い瘴気に当てられ荒い息の雷月に、「大丈夫だから」と、安曇は目配せする。
ずるずると長く重たい身体を、言葉通り引きずって雷月が離れた。
元々動きの悪い金龍は、雷月が離れても暴れることはなかったが、次第にゴホゴホと咳き込みだして、黒い霧のような塊を吐き出す。
安曇はそれに手を伸ばしてすくい、口に含んだ。
大切な人を守れなかった絶望と、正しい輪廻に還す為とはいえ、手にかけてしまった恋人への悔恨の念と、金龍に対する、明確なる殺意と──。
それらが、ドロドロに混ざり合った、ぐちゃぐちゃな感情。
「龍泰然……」
安曇は金龍の大きな頭を、抱きしめるように抱えた。
「どうか、全て、吐き出して」
貴方の怨念は、自分と亞輝斗が、全て、食べてあげるから──。
◆◇◆
ぼんやりとした視界の向こう、揺れる銀色の、長い髪を見た気がした。
「風ちゃんッ!」
「きゃッ!」
飛び起きた十河は、そのままの勢いで、ぼやけた視界の中、銀髪の少女を抱きしめた。
途端、十河の顔面に衝撃が走り、彼はあえなくベッドに再度、撃沈する。
「なんだ亞輝那か……ちぇッ……」
「勝手に風月と間違えておいて、その台詞は何だって感じだし、露骨に残念がられると、それはそれで、なーんか腹立つわね」
亞輝那が指をバキベキと鳴らし、ひぃッ! と、十河がベッドの端まで後ずさり──周囲をきょろきょろと見回した。
「えっと……何が一体、どうなったんだっけ?」
眼鏡が無いのでハッキリ見えないのだが、なんとなく見覚えがあるような部屋。思いめぐらし、『|天国の門《Heaven’s Gate》』お抱えの、個人病院の個室だと十河は思い至る。
と、いう事は……。
「東京に、帰ってきたのか……オレ……」
「あら、意外と冷静」
亞輝那が答える前に、勝手に一人で状況を把握する十河。思わず亞輝那は感心して、ヒュゥッと、口笛を鳴らした。
そんな中、廊下がやや騒々しくなり、次第にその声は近づいて、ガラリと入り口の引き戸が開く。
「お、起きた?」
「大丈夫か! 十河!」
最初に室内に入ってきたのは亞輝斗だったが、後ろからそんな彼を押しのけるように、雷月が駆け込んできて、十河の手を握る。
冷静沈着な彼にしては珍しく、相当狼狽えているようで、それでいて、涙で潤む瞳の色が、精神状態を表すかの様に、やや金色がかっていた。
「おう。大丈夫大丈夫。オレは平気。そんなことより学校の連中、山口に置いてきちまったけど大丈夫かな……」
「僭越ながら、その件についてなのですが……」
最後に室内に入ってきた獅子丸が、申し訳なさそうに、口を開いた。
「実は今回の件、十河様のご学友の行動力もあり、山狩りの規模が大きく、完全に誤魔化すには収拾が尽きませんでして……やや強引ではありますが、とりあえず『Heaven’s Gate』と警視庁の協力の元、架空の『誘拐事件』を設定いたしました。犯人グループは逮捕され、事件は解決したものの拉致監禁から救出された十河様は薬を投与されており、今の今まで昏睡状態。という事にしておりますので、今回の件につきましては今後、関係者以外には「何も憶えていない」で通していただけましたら幸いでございます」
「お、おう……」
若溪に、誘拐されたと言われれば、確かにそんな気はするが──警視庁の協力となれば、間違いなく母である慧羅も関わっているのだろう。申し訳なさ二割、説教の予感八割で、頭が痛くなってきたと、十河はため息を吐いた。
(……ていうか、待って。若溪って誰だっけ? 何でオレ、そんなこと知ってるんだろ)
パチパチと目を瞬かせる十河に、雷月は十河の手を握ったまま、口を開いた。
「本当に、大丈夫か? その……」
言いにくそうに、言葉を濁らせる。いつもの彼らしからぬ様子に、十河は目を細めて苦笑した。
(あぁ、そうか。皓然だな……)
雷月の姿に、十河には見覚えのない──けれど、どこか懐かしい、小さな少年の姿が被る。
同時に、自らの手で貫かれ、正しい輪廻に還ったあの女性の姿が、頭の中にちらついた。
十河は納得しつつ、従兄の両頬を、両手で挟むようにぺちッと叩いた。
「大丈夫! なんつーか……うーん、上手くいえないけど、知らない人間の日記とアルバムが、たくさん、頭の中に入ってる感じ。ライみたいに、今までの十河の記憶が吹っ飛んだワケじゃないし、……うん、意図して触れようとしなければ、なんてことはないな」
本当は、なんてことはない──ワケはない。泰然の悲惨な人生ももちろんそうだが、泰然から十河までの間に生まれた金龍の幼体全員が、本人達も訳の分からないまま唐突に「自死」を選び、その一生を終えているのだから。
そう思いながら沈黙していた雷月の鼻の頭を、十河の指がはじいた。
「……大丈夫だって、言ってるだろ?」
そんなことよりも。と、十河は大きくため息を吐いた。
「やーだなぁ……これでオレも、本格的に、人外の仲間入りかぁ……」
五指の龍の末裔とはいえ、今までは、明らかにヒトから外れた龍や鬼に比べて、人間寄りだと自負していた。
けれど──と、目を伏せる十河の肩を、誰かが雷月とは反対側から、ツンツンとつつく。
思わず振り返ると「おいでませ人外魔境!」とでも言いたげに、亞輝斗、亞輝那、獅子丸が、満面の笑顔で両手を広げていた。
「オレは! 人間だ──あ……」
思わずムッときて、いつものように叫んでしまった十河に、「してやったり」と、鬼が三匹、にんまりと笑う。
微かに苦笑を浮かべた従兄が、ポンっと十河の頭に手をあてて、くしゃくしゃとその髪を撫でた。
「いいんだ。……十河はそれで」
「……うん」
目を瞑ると、ほんの少し、誰かに引きずられそうになる。けれど。
──うん、そう、大丈夫。十河は、大丈夫だから。
心の中でそう呟くと、誰かの気配が、十河から距離をとるように薄くなった。
それでも、大丈夫。と、十河は彼に繰り返す。
貴方が選んだ楊国忠も、姜若溪も。
形を変えて、姿を変えて──。
きっと──何日、君再来。




