移り気な妹に嘲笑されてきましたが、この国の歴史がわたくしを幸せにしましたわ
「あ~ら、ディアナお姉さま。また読書ですの? 飽きもせず、同じような本ばかり読んで……そんなことで楽しいのかしら? だからエドウィンにも愛想をつかされるのよ」
妹のジェシカが、嘲るように言葉を投げかけてきた。エドウィンは、もとはディアナの婚約者だった侯爵家の令息。しかし今では、その婚約も解消されている。ジェシカが彼に取り入り、ディアナとの関係を壊したのだった。
「わたくし、これからジョアン様とデートですの。お姉さまも、たまには殿方とお過ごしになっては? ま、根暗なお姉さまには無理かもしれませんわね。うふふ……」
ディアナは小さく目を見開いた。ジェシカはエドウィンと恋人のはずだった。それなのに、今は別の男性とデートに行くという。
「ジェシカ……あなた、エドウィンのことはどうしたの?」
「ああ、あのつまらない男? 気の利いた詩のひとつも作れない、凡庸な男だったわ。あんな人に婚約破棄されたお姉さまって、ほんっとうに……お気の毒ですこと」
ジェシカは嘲笑を浮かべたまま、優雅な足取りで部屋を後にした。
妹のジェシカ・クライスラー伯爵令嬢は、社交界の華だった。美しい容姿に恵まれ、幼い頃から両親にも兄にも溺愛されて育った彼女は、世の中のすべてが自分の思い通りになると信じて疑わなかった。
一方、姉のディアナ・クライスラーは、そんな妹を特に気に留めてはいなかった。婚約者に捨てられても、社交界で目立たなくても、それは彼女にとって些細なことだった。なぜなら、彼女の心を占めるのは、ただ一人──この国の礎を築いた人物だけだったから。
「エミリア様……。わたくしは、あなたが造り上げたこの国に生まれて、本当に幸せでございます」
エミリア・ドランデ。かつて「悪役令嬢」と断罪され、一度は表舞台を追われながらも、腐敗した王政を打ち倒し、革命を成し遂げ、このフォルディナ公国の始まりを導いた伝説の人物。
ディアナは幼い頃から、エミリアの存在に強く心を惹かれていた。革命の記録や初代執政官時代の政策文書を読み耽り、国立図書館では、時に見知らぬ人と歴史談義に花を咲かせるほどだった。
「わたくしも、エミリア様のように、この国と民のために道を拓きたい」
ディアナが願っていたのは、美しい恋愛でも幸せな結婚でもなかった。彼女は、エミリアのように、高い志を抱いて生きることを望んでいた。
◇
ある日。
クライスラー伯爵家に一人の使者が訪れた。差し向けたのは、国でも屈指の名門、ハーディン公爵家だった。
ハーディン公爵家──かつてエミリアと共に革命を成し遂げ、その後は長らく政治の中心にあった名家。エミリアが嫁ぎ、その血を受け継ぐ一族でもある。その嫡男であるリンガードは、若き宰相として、国の中枢を担う存在であった。
「リンガード様からの縁談をお持ちしました」
ハーディン家の使者がその旨を告げると、両親も兄も、そしてジェシカも色めき立った。皆、当然のように、それはジェシカへの縁談だと思い込んでいた。ディアナもまた、同じように受け止めていた。
ディアナの胸は高鳴っていた。ジェシカがリンガードと結婚すれば、自分もハーディン家と親戚になれる。憧れ続けてきたエミリアの血筋と縁が結ばれる──その事実に、これまでに味わったことのないほどの高揚感を覚えていた。
だが、そのとき──ハーディン家の使者が口にしたのは、予想外の言葉だった。
「リンガード様より、ディアナ様への婚約の申し込みでございます」
その瞬間、両親も兄も顔を見合わせて狼狽した。
「な、何かの間違いでは……?」
父が戸惑いながら尋ねた。
「ディアナではなく、ジェシカのことでは?」
兄も信じがたいというように声を重ねた。
「いいえ。間違いなく、ディアナ様です」
使者が静かにそう答えると、ジェシカの顔色が一変した。
「どうして!? どうして、なんの取り柄もないお姉さまなの!? 公爵夫人にふさわしいのは、社交界の華たるこのわたくしでしょう!」
怒りに満ちたジェシカの剣幕にも、使者は微塵も動じず、淡々と答えた。
「国立図書館にて、この国の歴史について熱く語り合えたディアナ様こそ、国の宰相の伴侶にふさわしいと、リンガード様はお考えです」
(えっ……? あのとき、図書館でこの国の歴史を語り合った、あの方が……リンガード様?)
「信じられない! この国の宰相も、見る目がないようね!」
怒りを抑えきれず、ジェシカはそのまま部屋を飛び出していった。
◇
その後、リンガードは何度かクライスラー伯爵家を訪れ、ついにディアナとの婚約が正式に成立した。
その陰で、ジェシカは密かに動き出していた。
彼女には取り巻きの男性たちがいたため、彼らを使ってディアナの悪い噂を流し始めた。そして、自らは「姉に虐げられている可哀想な妹」として、周囲に涙ながらに吹聴したのだった。
(見ていなさい、お姉さま! 公爵夫人の座は、この可憐なわたくしがいただきますわ! お姉さまには、ふさわしい殿方をあてがって差し上げます)
ジェシカの策謀によって、周囲のディアナを見る目は次第に冷ややかになっていった。
──数日後。
ディアナのもとを、一人の男が訪ねてきた。かつての婚約者、エドウィンだった。
「久しぶりだね、ディアナ。最近、君の悪い噂ばかり耳にして……心配になったんだ」
「悪い噂……?」
「そう。公爵との婚約は、君が何か弱みを握っているからだとか……複数の男と関係があるとか……さらには、家では妹のジェシカを虐げてばかりいるとか……。まるで、『悪役令嬢』みたいじゃないか」
「……悪役令嬢」
ディアナの胸が、ときめいた。
それは、かつてエミリアが揶揄された言葉。自分も、同じ境遇に立つことができた──そう思った瞬間、嬉しさが胸に込み上げてきたのだ。
彼女は思わず、微笑んでいた。
エドウィンはその様子に戸惑いながらも、話を続けた。
「僕は……君と婚約を解消したことを、心から後悔している。本当にすまなかった。今さらだけど、君のことを愛していたと気づいたんだ。優しい君なら、きっと許してくれるだろう? ディアナ……お願いだ。もう一度、僕とやり直してくれないか?」
エドウィンは、臆面もなくそう告げた。
だが、ディアナは耳を傾けていなかった。
『悪役令嬢』──エミリアと同じ境遇に立っている。それがたまらなく嬉しくて、彼の言葉はまるで上の空だった。
そこへ、もう一人の男性が姿を現した。
「なんとも身勝手な告白だ。ですが……遅すぎましたね。周囲から冷たい目で見られている彼女を、今なら手に入れられるとでも思われたのでしょう……」
「……誰だ、お前は!」
「リンガード・ハーディン。ディアナの婚約者です」
そう言って、リンガードは迷いなくディアナの肩を引き寄せた。
それを見て、エドウィンは二人の前に跪き、深く頭を下げた。
「ディアナ、お願いだ! もう一度だけ、チャンスをくれ! 君の心を取り戻したいんだ。僕は、今でも君を……ずっと君を愛している!」
彼は涙ながらに、必死に想いを訴えた。
リンガードが何か言おうとしたとき、ディアナが静かに手を上げ、それを制した。
「……わたくしの心は、一度たりとも、あなたのものになったことなどありません」
ディアナの声は穏やかだったが、芯のある確かな響きがあった。
「今も、そして婚約していたあの頃も。わたくしの心は、この国の歴史にのみ奪われております。だから、これからも、あなたを愛することはありません。どうか、お引き取りくださいませ」
その言葉を受け、エドウィンは顔を覆いながら、涙をこぼしつつ、静かにその場をあとにした。
「……やれやれ。彼は、どうやら君の妹に言われて来たようですね」
「ジェシカに……?」
「ええ。君が彼の申し出を受ければ、それでよし。断ったとしても、彼と会っていたという既成事実を作れる。──噂を流すための、材料を仕込みに来たというわけです」
「でも……どうしてエドウィンは、そんなことに素直に従ったのですか?」
「おそらく、『わたくしを愛しているなら、それを証明して』とでも囁かれたのでしょう。愛情を、巧みに利用されたのです」
ディアナはそれを聞き、悲しみとも怒りともつかぬ、複雑な想いが胸に広がるのを感じた。
◇
その日、ハーディン公爵邸では盛大なパーティーが開かれていた。
貴族たちが一堂に会するこの場で、リンガードとディアナの婚約が正式に発表される予定だった。
ディアナの家族も招待されており、もちろんジェシカの姿もあった。エドウィンの姿はなかったが、代わりに、彼女に付き従う子息たちが数人、周囲を取り巻いていた。
いよいよ、リンガードとディアナが登壇し、婚約の発表がなされようとしたその瞬間──
「リンガード様、お待ちください」
声を上げたのは、ディアナの父だった。
「話をうかがいました。リンガード様が本当に想いを寄せておられるのは、ディアナではなく、妹のジェシカだと。何度も我が家を訪ねてくださり、ディアナとの正式な婚約も済んでいます。リンガード様としても、お立場上、言い出しづらかったのでしょう。ですが、私も妻も、できることなら、お互いを愛し合う者同士に結ばれてほしいと願っております」
静まり返るパーティー会場。
その場にいる誰もが、予期せぬ展開に息を呑み、事の行く末を見守っていた。
ディアナは父の突然の発言に驚き、言葉を失い、戸惑いの色を隠せなかった。
だが、リンガードは表情一つ変えず、冷静に問い返した。
「……なぜ、そのようにお考えなのですか?」
「ジェシカが、そのように申しておりました。それに、申し上げにくいのですが……ディアナが、元婚約者のエドウィン殿と密かに逢瀬を重ねていると。目撃された方もおられるそうで……」
父がそう口にすると、すかさずジェシカが前に出て声を上げた。
「その通りですわ、リンガード様。それに、わたくしに愛を綴った詩も贈ってくださいましたでしょう?」
会場にどよめきが走る。
「国の顔となるべき、公爵夫人たる者。美しく華やかなこのわたくしこそが、ふさわしいのですわ。ねえ、皆さま?」
ジェシカは貴族たちに向き直り、誇らしげに胸を張った。
「そうだ! 国の象徴となるなら、華やかさこそ必要だ。ジェシカ嬢こそ、リンガード様の妻にふさわしい!」
ジェシカの取り巻きの一人──ジョアンが、勢い込んで声を上げる。
その空気を断ち切るように、リンガードが一歩前に出て、毅然とした声で言った。
「ならば、この場にいる諸卿に問おう。美しさと華やかさを誇るジェシカ嬢か、国の歴史と歩みを熟知したディアナ嬢か。私の妻としてふさわしく、民を幸福へと導けるのは、どちらだと思うか?」
騒がしかった会場が、再び静寂に包まれる。誰もが言葉を失い、口をつぐんだ。
「どうして……! どうして誰も何も言わないのよ! 歴史なんてただの過去の出来事じゃない! そんなもの、何の役にも立たないわ!」
ジェシカが感情を露わにして叫んだそのとき、リンガードが静かに口を開いた。
「歴史を知るということは、過去の過ちから学び、文化や社会の仕組みを理解し、未来を築くための道しるべを得ることだ。それすらも理解できない君に、この国と、その民を託すことはできない」
一拍おいて、リンガードは視線をジェシカに向け、冷ややかに言い放った。
「……それに、あの詩は君に宛てたものではない。留守にしていたディアナに渡してほしいと、頼んだはずだが?」
「でも、わたくしの方が──」
ジェシカが何かを言いかけた、そのとき──
「もうやめなさい!」
鋭く響いた父の声が、彼女の言葉を遮った。
「リンガード様……本当に申し訳ありません。すべて、我々の教育の至らなさゆえです。娘を可愛がるあまり、ジェシカの言うことを疑いもせず、盲目的に信じてしまっておりました……」
「お父様、何を言って──」
ジェシカが言い返そうとしたが、その声は最後まで続かなかった。母と兄に引きずられるようにして、彼女は会場の外へと連れ出されていった。
父はリンガードとディアナに向き直ると、深く頭を下げた。
「リンガード様、そしてディアナ……。せっかくのお二人の晴れの日に、水を差すような真似をしてしまい、心からお詫び申し上げます。ディアナは、私たちにとってかけがえのない娘です。どうか……どうか、彼女を幸せにしてやってください」
そう言い残すと、父は静かに会場を後にした。
ディアナは、父の言葉に込められた深い愛情に胸を打たれていた。
そして、リンガードが自分の知識や在り方を否定せず、真っすぐに受け入れてくれたこと──それが嬉しかった。
ふと横を向くと、彼の横顔が目に入る。誰よりも頼もしくて、誰よりも優しく映った。
父の言葉で感じたあたたかさとは異なる、もうひとつのぬくもりが、胸の奥に静かに広がっていく。
それは尊敬でも、感謝でもない。もっと特別で、もっと甘やかな想い──
いつの間にか、彼の隣にいることが当たり前になってほしいと、心から願っていた。
「……ありがとう、リンガード様」
胸に芽吹いた想いを感謝の言葉に込めて、ディアナはそっと呟いた。
◇
その後。
クライスラー伯爵家は、兄が家督を継いだ。
ディアナの両親は、ジェシカを連れて、知り合いが誰もいない静かな土地へと移り住んだ。
もう一度、家族として向き合いたい──そんな強い思いが、両親をその決断へと導いたのだった。
そして──
リンガードとディアナは結ばれ、夫婦となった。二人は手を取り合いながら、フォルディナ公国の様々な問題に立ち向ち向かい、ひとつひとつ解決していった。
「どうだい? エミリア様には近づけたと思うかい?」
リンガードが、いたずらっぽい笑みを浮かべながら尋ねる。
ディアナは柔らかく微笑み、静かに答えた。
「どうでしょう。でも、たとえエミリア様に届かなくとも──わたくしはわたくしとして、あなたを、そしてこの国を支えてまいります」
その言葉は、過去に学び、未来へとつながる、新たな歴史の第一歩となった。
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