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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
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聖女様の不幸吸引(アンラッキー・ドレイン)~私が不幸になるほど、世界は平和になりました~

作者: マグロサメ

 序章:転生とスキルの発覚


「おめでとうございます! 佐藤幸子(さとうさちこ)さん! あなたは選ばれました! 異世界にて、聖女として新たな生を謳歌するのです!」


 目の前で、後光と見紛うばかりの柔らかな光を背負った絶世の美女が、鈴を転がすような声でそう宣った。女神様、と名乗るのがしっくりくる。私はといえば、先ほどまで横断歩道でスマホの通知を確認していて……そうだ、青信号だったはずなのに、猛スピードのトラックが。


「あの……私、死んだんですよね?」


「はい、誠に残念ながら。ですが、それは新たな始まりの合図! あなたの魂は清らかで、強い慈愛に満ちている。まさに聖女にふさわしい資質の持ち主ですわ!」


 女神様は、私の問いにあっけらかんと頷き、それからパチンと指を鳴らした。周囲の風景が、先ほどまでの無機質な白い空間から、花咲き乱れる美しい庭園へと変わる。


「ここは神域の一端。あなたが転生する世界の名は『エルドラシア』。剣と魔法が息づき、様々な種族が暮らす豊かな世界です。しかし……近年、そのエルドラシアには暗い影が差し始めていますの」


 女神様の表情が、わずかに曇る。


「邪悪な気配、原因不明の厄災、人々の心に芽生える負の感情……それらが世界を少しずつ蝕んでいるのです」


「それで、私に聖女として何とかしろと?」


「ご明察! あなたに与えるスキルは『不幸吸引アンラッキー・ドレイン』! これは、他者の不幸、苦痛、負の感情などを吸い取り、自らの内に封じ込めることで無効化する、非常に稀有で強力な力です!」


 女神様は胸を張って、自信満々に言い切った。


「不幸を……吸い取る?」


 私は思わず眉をひそめた。言葉の響きからして、あまり穏やかではない。


「それって、吸い取った不幸はどこへ行くんですか? 私の中に溜まるってことですか?」


「うふふ、細かいことは気にしない! あなたの深い慈愛があれば、きっとどんな困難も乗り越えられますわ! それに、人々を救えば救うほど、あなたは崇められ、敬われ、愛される存在になるのですよ? 素晴らしいでしょう?」


 女神様は私の疑問を笑顔で受け流し、きらきらとした瞳で私を見つめる。そのあまりのポジティブさと美貌の圧に、私はそれ以上何も言えなかった。


「大丈夫、大丈夫! きっとうまくいきます! それでは、いってらっしゃい、聖女サチコ!」


 有無を言わさぬその言葉と共に、私の意識は再び薄れていった。最後に聞こえたのは、「あ、言い忘れてたけど、そのスキル、結構リターンが大きいから覚悟しておいてね! でも愛があれば大丈夫!」という、どこか無責任な女神様の声だった。


 リターンが大きい……? いい意味でのリターンであってほしい。そう願いながら、私は深い眠りに落ちるように、新たな世界へと送り出された。


 第一章:最初の「奉仕」と代償の自覚


 エルドラシア王国の王都、エルドラード。その壮麗な王城の一室で、私は目を覚ました。


 絹のような手触りの寝台、豪奢な調度品。窓の外には、絵本で見たような中世ヨーロッパ風の街並みが広がっている。


「聖女様、お目覚めでございますか」


 穏やかな声と共に、初老の侍女が部屋に入ってきた。彼女はアイリスと名乗り、私の身の回りの世話をしてくれるらしい。


「ここは……」


「はい、ここはアークライト王国の王城。あなたは、神託によりこの世界にお越しになった聖女サチコ様でございます」


 アイリスは恭しく頭を下げる。どうやら、女神様の話は本当だったらしい。


「あの、スキルについてなのですが……『不幸吸引』という……」


「おお、それこそ聖女様の奇跡の力! 古の文献にも記されております。民の苦しみをその身に引き受け、癒しを与える神聖なる御業と」


 アイリスは目を輝かせて語る。彼女の言葉には一点の曇りもない。この世界では、このスキルは本当に素晴らしいものとして認識されているようだ。


 数日後、国王陛下に謁見し、正式に聖女として迎え入れられた私は、早速最初の「お仕事」を依頼された。


「聖女サチコ殿、早速で恐縮だが、力を貸してほしい場所がある」


 玉座に座る壮年の国王、アルフォンス陛下は、威厳がありながらもどこか疲れた表情をしていた。


「王都より西に位置するカルム村が、もう半年以上も日照りに苦しんでいる。雨乞いの儀式も効果がなく、民は飢え、水も枯渇寸前だ。聖女殿の力で、彼らを救ってはくれまいか」


「……わかりました。私にできることなら」


 まだスキルの実感が湧かないまま、私は頷いた。


 カルム村は、想像以上に悲惨な状況だった。


「聖女様、よくぞお越しくださいました!」


 痩せこけた村長が、涙ながらに私を迎える。周囲には、力なく地面に座り込む村人たち。干上がり、ひび割れた大地。枯れ果てた作物。空気は乾燥しきっており、喉がひりつくようだ。


「どうか、どうか我らを……この村をお救いください!」


 村人たちの必死の眼差しが、私に突き刺さる。


「皆さん、顔を上げてください。私が、皆さんの苦しみを和らげましょう」


 私は覚悟を決め、村の中央に設けられた質素な祭壇の前に立った。目を閉じ、意識を集中する。スキルを発動するイメージを頭の中で描く。


不幸吸引アンラッキー・ドレイン』──!


 瞬間、まるで乾いたスポンジが水を吸うように、村全体を覆っていた「渇き」と「絶望」の気配が、私の中に流れ込んでくるのを感じた。それは物理的な感覚ではなかったが、確かに何かが私の内を満たしていく。


「おお……!」


「雨だ! 雨が降ってきたぞ!」


 村人たちの歓声が聞こえる。目を開けると、乾ききっていた空から、ぽつり、ぽつりと雨粒が落ち始め、やがてそれは本降りの雨となった。大地が潤い、村人たちは抱き合って喜んでいる。


「ありがとうございます、聖女様! これで村は救われます!」


 村長が私の手を取り、何度も感謝の言葉を口にする。その顔は、先ほどまでの絶望が嘘のように晴れやかだった。


(よかった……本当に役に立てたんだ)


 安堵と達成感が胸に広がる。しかし、それと同時に、私の体に異変が起きていた。


 喉が焼けるように渇き、全身から水分が奪われたような強烈な倦怠感が襲ってきたのだ。立っているのも辛く、めまいがする。


「聖女様? 顔色が優れませんが……」


 心配そうに声をかけてきたアイリスに支えられ、私はなんとか用意された馬車に戻った。


 その夜、私は原因不明の高熱と悪寒にうなされた。まるで、村全体が感じていた渇きと苦しみが、凝縮されて私一人のものになったかのようだった。骨がきしみ、皮膚が乾燥してひび割れるような錯覚さえ覚える。


「これが……『不幸吸引』の代償……」


 朦朧とする意識の中、私は女神様の「リターンが大きい」という言葉を思い出していた。これは、そういう意味での「リターン」だったのか。


 数日間、私は寝込むことになった。王城の医師や神官たちが懸命に治療を施してくれたが、症状はなかなか改善しなかった。私が吸い取った「不幸」は、薬や魔法では簡単に癒せないもののようだった。


 ようやく体調が回復した頃、アイリスが心配そうに声をかけてきた。


「聖女様、お加減はいかがですか? あの村はすっかり元気を取り戻し、聖女様の噂で持ちきりでございますよ」


「そう……それは良かったわ」


 私の声は掠れていた。


「しかし、聖女様ご自身がこれほどお苦しみになるとは……」


 アイリスは心底同情しているようだった。


「大丈夫よ、アイリス。これが聖女の役目なのでしょうから」


 私は無理に微笑んでみせた。この時、私はまだ、このスキルの本当の恐ろしさを理解していなかった。


 第二章:戦場での「奇跡」と心の摩耗


 カルム村の一件から数週間後、今度は隣国との紛争が勃発したという報せが王城にもたらされた。国境付近で小競り合いが続いていたが、ついに大規模な戦闘が始まってしまったらしい。


「聖女サチコ殿、君の力を借りたい」


 軍議の席で、騎士団長であるギルバート辺境伯が私に鋭い視線を向けた。彼は歴戦の勇士であり、国王からの信頼も厚い人物だが、どこか冷徹な雰囲気を漂わせている。


「我が軍は勇猛果敢に戦っているが、敵も然り。多くの負傷者が出ている。君の力で、兵士たちの苦痛を取り除き、士気を高めてほしいのだ」


「戦場へ、ですか……?」


「無論だ。聖女の癒しの力は、何よりの戦力となる。君の存在が、勝利への鍵となるやもしれん」


 ギルバート団長の言葉に、私は反論できなかった。国王も、期待のこもった目で私を見ている。


 前線に設けられた野戦病院は、地獄のような場所だった。


 テントの中には、所狭しと負傷兵たちが横たえられ、呻き声と血の匂い、そして死の気配が充満していた。腕を失った兵士、腹を槍で貫かれた兵士、魔法で焼かれた兵士……。彼らの目には、痛みと絶望、そして死への恐怖が色濃く浮かんでいる。


「聖女様が来てくださったぞ!」


「これで助かるかもしれない……」


 兵士たちの間に、わずかな希望の光が灯る。


 私は覚悟を決め、一人一人の兵士に手を当てていった。スキルを発動するたびに、彼らの「痛み」「苦しみ」「絶望」「恐怖」「憎しみ」といった強烈な負の感情が、濁流のように私の中に流れ込んでくる。


「うっ……ああ……楽になった……」


「傷が……痛くない……!」


 兵士たちの顔からは苦悶の表情が消え、安堵の色が浮かぶ。みるみるうちに顔色も良くなり、中には起き上がれる者さえいた。まさに奇跡のような光景だった。


 医師や看護兵たちは、驚嘆の声を上げながら私の働きを補助する。


「素晴らしい! これぞ聖女様の御力!」


「彼女がいれば、我々は不死身の軍団になれるかもしれんぞ!」


 だが、その代償はあまりにも大きかった。


 兵士一人を癒すたびに、私の体には見えない刃で切り刻まれるような激痛が走った。彼らが感じていた恐怖や絶望は、私の心に直接突き刺さり、悪夢となって夜ごと私を苛んだ。食事は喉を通らず、眠りも浅い。私の顔からは血の気が失せ、目の下には深い隈が刻まれていった。


 何十人、何百人と兵士を癒していくうちに、私の精神はすり減り、感情が希薄になっていくのを感じた。まるで、分厚いガラス越しに世界を見ているような感覚。


「聖女殿、君のおかげで多くの兵士が戦線に復帰できた。感謝する」


 ギルバート団長は、満足げにそう言った。しかし、その目は私の消耗ぶりなど全く意に介していないように見えた。彼にとって、私は兵士の命を補充するための「便利な道具」でしかないのだろう。


「団長閣下……聖女様は、もう限界でございます。少しお休みさせなければ……」


 私の側についていたアイリスが、勇気を出して進言する。


「何を言うか。戦はまだ終わっておらん。聖女殿には、最後までその役目を果たしてもらう。それが彼女の使命であり、栄誉であろう」


 ギルバート団長は冷ややかに言い放った。


「それに、聖女殿自身も、人々を救うことに喜びを感じているはずだ。そうだろう? 聖女殿」


 彼は私に同意を求めるように視線を向ける。私は、ただ力なく頷くことしかできなかった。


(喜び……? もはや、そんな感情はどこかに消え失せてしまったというのに)


 数日後、戦況は我が国の有利に傾き、敵国は和平を申し入れてきた。多くの犠牲者を出したが、一応の勝利と言えるだろう。


 王都に戻ると、人々は「救国の聖女」として私を熱狂的に歓迎した。凱旋パレードでは、花吹雪が舞い、私の名を呼ぶ歓声が響き渡った。


 しかし、その喧騒の中で、私は言いようのない孤独感と虚無感に苛まれていた。


 吸い取った無数の「不幸」は、私の魂に重くのしかかり、消えることなく蓄積されていく。私の体は常に鉛のように重く、心は荒野のように乾ききっていた。


 それでも、私は笑顔を貼り付け、人々の期待に応えなければならなかった。聖女としての「役割」を演じ続けなければならなかった。


 第三章:日常に潜む「小さな不幸」と人々の無自覚な残酷さ


 戦場から戻ってしばらくは、比較的穏やかな日々が続いた。しかし、私が「奇跡の聖女」として国内に広く知れ渡るにつれ、新たな種類の「依頼」が舞い込むようになった。それは、戦場のような大きな不幸ではなく、もっと日常的で、個人的な「不幸」の処理だった。


「聖女様、お願いがございます! うちの亭主、最近どうもよそに女を作ったみたいで……この女の影という不幸を、どうか吸い取ってくださいまし!」


 ふくよかな商家の奥様が、ハンカチで目元を押さえながら訴えてくる。


「聖女様、隣の店の奴が、うちより繁盛しているのが許せないんです! あの店の『幸運』を吸い取って、代わりに『不運』を与えてはいただけませんか?」


 どう見ても強欲そうな商人が、真顔でそんなことを頼んでくる。


「聖女様、うちの子が夜泣きがひどくて、私が眠れないんです。この子の『不快』を吸い取って、ぐっすり眠らせてくださいな」


 疲れた表情の若い母親は、赤ん坊を抱きながら懇願する。


 最初は戸惑った。こんな些細な、あるいは身勝手な願いまで、私が引き受けなければならないのだろうか。


「あの……それは、私がどうこうできる問題では……」


 私がやんわりと断ろうとすると、彼らは途端に不満そうな顔をする。


「まあ、聖女様のくせに、そんな小さな願いも聞いてくださらないの?」


「聖女様だって、選り好みされるんですなあ」


「私たちの不幸は、聖女様にとっては取るに足らないものなのですか!」


 そんな囁き声が、あちこちから聞こえてくるようになった。


 人々の期待は、いつしか「聖女なら何でもできる」「聖女は私たちのどんな不幸も取り除くべき」という、一方的な要求へと変わっていった。


 私は、次第に断ることができなくなっていった。


 彼らの「イライラ」「嫉妬」「不満」「自己中心的な苦痛」を吸い取るたびに、私の心はささくれ立ち、じわじわと蝕まれていく。それは戦場で吸い取った激しい感情とはまた違う、粘りつくような不快感を伴うものだった。


 特に、他者への悪意や呪詛に近い感情を吸い取った日は、一日中吐き気に苦しめられ、精神的な疲労困憊は極度に達した。


「聖女様、また顔色が悪うございますね。最近、ろくに食事も召し上がっていないとか」


 アイリスは、日に日にやつれていく私を心から心配してくれた。


「大丈夫よ、アイリス。少し疲れているだけ」


 私は力なく微笑むが、その笑顔がひどくぎこちないことを自分でも感じていた。


「ですが……皆様、聖女様に頼りすぎているのでは……。聖女様ご自身のお幸せは、一体どこにあるというのでしょう」


 アイリスの言葉は、私の心の奥底にしまっていた疑問を的確に突いていた。


(私の幸せ……そんなもの、この世界に来てから一度も考えたことがなかった)


 王や側近たちは、私が民衆の「小さな不幸」を処理していることを知ると、むしろそれを奨励した。


「うむ、聖女殿のおかげで、民の不満が解消され、治安も向上していると聞く。素晴らしいことだ」


 アルフォンス陛下は満足げに頷く。


「聖女様の慈愛は、まさに海よりも深い。我々も、もっと聖女様のお力を活用し、より良き国づくりを目指さねばなりますまい」


 宰相の言葉には、私への配慮など微塵も感じられない。彼らにとって、私は国の安定と発展に貢献する、都合の良い「装置」でしかないのだ。


 ある日、私は王城の庭園で、侍女たちが噂話をしているのを耳にした。


「ねえ、聞いた? 聖女様、最近またやつれたみたいよ」


「まあ、あれだけ人の不幸を吸い取っていればねえ。私なら一日で気が狂うわ」


「でも、おかげで私たちは平和に暮らせるんだから、感謝しないとね」


「そうよね。聖女様には、これからも頑張ってもらわないと。私たちのために」


 彼女たちの声には、悪意はない。むしろ、どこか他人事のような、無邪気な残酷さが含まれていた。


(私の苦しみは、あなたたちの平和の礎……か)


 私は、乾いた笑みを浮かべるしかなかった。感情が、どんどん麻痺していく。喜びも、悲しみも、怒りも、以前ほど強く感じなくなっていた。ただ、漠然とした疲労感と虚無感だけが、私の内側を支配していた。


「聖女様、今日は私の『肩こり』という不幸を吸い取ってくださいな」


「聖女様、最近『運が悪い』気がするんです。この『不運』を何とかしてください」


「聖女様、聖女様……」


 毎日、毎日、人々は私のもとへやってきて、自分たちの「不幸」を差し出す。まるで、ゴミ箱に不要なものを捨てるかのように、無造作に。


 私は、それを黙って受け取り続ける。それが、私の「役割」だから。それが、皆が私に望むことだから。


 第四章:大災害と決定的な「崩壊」


 そんな日々が続いていたある日、エルドラシア王国を未曾有の大災害が襲った。


「緊急事態です! 北方の山脈で大規模な地殻変動が発生! それに伴い、封印されていた古の魔獣たちが目覚め、スタンピードとなって南下を開始しました!」


 王城に、血相を変えた伝令兵が駆け込んできた。


 魔獣のスタンピード──それは、この世界における最悪の厄災の一つだ。無数の強力な魔獣が、津波のように都市や村を蹂躙し、破壊の限りを尽くす。


「騎士団は直ちに出撃! 各地の守備隊と連携し、魔獣の進攻を食い止めよ!」


 ギルバート団長が檄を飛ばす。


「聖女サチコ殿、君にも同行してもらう。今回の厄災は、これまでの比ではない。君の力なくして、この国難は乗り越えられん」


 アルフォンス陛下は、すがるような目で私を見た。その瞳には、焦りと恐怖が浮かんでいる。


 私が派遣されたのは、魔獣の進攻ルートの真正面にあたる、王国第二の都市アステルだった。


 しかし、私たちが到着した時には、すでにアステルは地獄絵図と化していた。


 轟音と共に建物が崩れ落ち、炎が街を舐め尽くす。巨大な牙を持つ獣型の魔獣、空を覆う翼竜型の魔獣、毒の息を吐く蟲型の魔獣……ありとあらゆる異形の魔獣たちが、逃げ惑う人々を容赦なく襲っていた。


 悲鳴、怒号、建物の崩壊する音、魔獣の咆哮。そして、夥しい数の死傷者。


 街は、絶望と恐怖、悲嘆と怒り、怨嗟と憎悪……あらゆる負の感情が渦巻く、巨大な坩堝と化していた。


「聖女様! どうか、どうかこの街をお救いください!」


 生き残った騎士や民兵たちが、涙ながらに私に懇願する。


 私は、目の前の惨状をただ呆然と見つめていた。あまりにも膨大で、あまりにも濃密な「不幸」の奔流。これを、私が本当に吸い取れるのだろうか。吸い取ったとして、私はどうなってしまうのだろうか。


 一瞬、逃げ出したいという衝動に駆られた。しかし、私を見つめる人々の絶望的な眼差しが、それを許さなかった。


(やるしかない……私がやらなければ、この街は、この国は終わってしまう)


 私は、アステルの中央広場に立った。周囲では、騎士たちが必死に魔獣と戦っているが、多勢に無勢だ。


 目を閉じ、意識を集中する。これまでとは比較にならないほどの精神力を振り絞り、スキルを発動した。


不幸吸引アンラッキー・ドレイン』──最大展開!


 瞬間、世界から音が消えたような錯覚に陥った。


 アステル全体を覆っていた、ありとあらゆる種類の、想像を絶する量の「不幸」が、凄まじい勢いで私の中に流れ込んでくる。


 それは、もはや濁流などという生易しいものではなかった。それは、宇宙そのものが凝縮されたような、無限とも思える負のエネルギーの塊だった。


 痛み、苦しみ、悲しみ、怒り、憎しみ、恐怖、絶望、怨嗟、嫉妬、後悔、無力感……人間の、そしておそらくは魔獣の持つであろう負の感情の全てが、私の魂を直接握り潰し、蹂躙し、焼き尽くしていく。


「ぐ……あああああああああああああああああああああああああああああっっっっっっ!!!!」


 私は、生まれて初めて上げるような絶叫を上げた。


 骨が砕け、内臓が破裂し、神経が焼き切れるような、筆舌に尽くしがたい激痛。魂そのものがバラバラに引き裂かれていくような感覚。


 しかし、私はスキルの発動を止めなかった。止めることができなかった。


 この「不幸」を止めなければ、この地獄は終わらない。


 どれほどの時間が経過したのか、わからなかった。


 永遠とも思える苦痛の中で、私の意識は何度も途切れそうになった。


 だが、そのたびに、どこかで私を呼ぶ声が聞こえるような気がした。それは、助けを求める人々の声なのか、それとも、私自身の心の奥底からの叫びだったのか。


 そして、


 ──プツン。


 何かが、私の中で決定的に切れた音がした。


 それは、張り詰めていた糸が切れるような、乾いた音だった。


 気づけば、周囲は静けさを取り戻していた。


 あれほど暴れ回っていた魔獣たちの姿はなく、炎も鎮火し始めている。生き残った人々は、呆然としながらも、互いに助け合い、瓦礫の中から生存者を探し始めていた。


 街を覆っていた絶望的な空気は消え去り、代わりに、微かな希望の光が差し込んでいるようだった。


 私の体は、もう痛みすら感じなくなっていた。


 いや、そもそも「感じる」という機能そのものが、どこかへ消え失せてしまったかのようだった。感情も、思考も、まるで霧の中に霞んでしまったかのように、ぼんやりとしか認識できない。


 ただ、深い、深い虚無だけが、私の内側を支配していた。


「聖女様……! さすがは聖女様だ!」


「街が……救われた……!」


「聖女様、ありがとうございます! あなた様こそ、我らが救い主!」


 人々が、私の周りに集まってくる。彼らの顔には、安堵と歓喜の表情が浮かんでいる。


 彼らは、私の異変には気づいていないようだった。いや、気づいていても、気づかないふりをしているのかもしれない。


 ああ、そうか。


 私がこれほどまでに「不幸」になれば、こんなにも多くの人々が「幸福」になれるのか。


 私がこれほどまでに「苦しめば」、こんなにも世界は「平和」になるのか。


 それなら。


「……もっと、不幸をくださいな」


 私の口から、乾いた、抑揚のない声が漏れた。


 自分でも驚くほど、感情のこもらない声だった。


 私は、ゆっくりと顔を上げ、集まった人々を見渡した。そして、にっこりと、まるで能面のような、完璧な笑みを浮かべてみせた。


「私が、全部、ぜーんぶ、吸い取って差し上げますから。私の不幸で、あなたたちが幸せになれるのなら……それが、私の存在意義なのでしょう? ね?」


 その言葉を聞いた人々は、一瞬戸惑ったような表情を浮かべたが、すぐにそれを歓喜の声でかき消した。


「おお、なんと慈悲深いお言葉!」


「聖女様は、どこまでもお優しい!」


「聖女様万歳! 聖女様万歳!」


 その日を境に、私は変わった。


 いや、壊れた、と言った方が正しいのかもしれない。


 終章:歪んだ平和と「装置」になった聖女


 アステルの大災害から数年後。


 エルドラシア王国は、驚くほどの平和と繁栄を謳歌していた。


 かつてあれほど頻発していた紛争や厄災は嘘のように鳴りを潜め、天候は常に安定し、作物は豊かに実った。人々は常に穏やかな表情を浮かべ、互いに親切にし、病に苦しむ者もほとんどいない。まるで、絵に描いたような理想郷だった。


 その中心には、いつも私がいた。


 アークライト王国の王城、その最も陽当たりの良い場所に建てられた「聖女宮」と呼ばれる白亜の宮殿で、私は毎日を過ごしている。


 もはや人間としての原型をどれほど留めているのか、自分でもよくわからない。鏡を見ることはとうの昔にやめてしまった。食事も睡眠も、ほとんど必要としない体になっていた。ただ、そこにあるだけの存在。


 生気の失せた虚ろな瞳で、それでも常に穏やかな笑みを浮かべ続けている私を、人々は「生ける至宝」「慈悲の女神様」と呼び、心からの(ように見える)感謝と崇敬の念を捧げている。


 彼らは毎日、聖女宮へ巡礼にやってくる。


 そして、祈りと共に、彼らが日常で感じるほんの小さな「不幸」や「不満」を、私にそっと差し出していくのだ。


「聖女様、昨夜は少し寝苦しかったのです。この『不快感』をどうぞ」


「聖女様、今日のスープの味が少し薄かったのです。この『残念な気持ち』をお納めください」


「聖女様、隣の家の犬がうるさくて、少し『イライラ』しましたわ。これも聖女様に」


 それは、かつて私が処理していた「小さな不幸」よりも、さらに些細で、取るに足らないものばかりだった。


 しかし、人々はそれを、まるで日課のように、あるいはゴミ箱にゴミを捨てるかのように、私に「処理」させていく。そうすることで、彼らの心は常に一点の曇りもなく、完璧な幸福感を保ち続けることができるのだ。


 私は、もう何も感じない。


 喜びも、悲しみも、怒りも、苦痛も。


 ただ、彼らが差し出す「不幸」を、機械的に吸い取り続ける。それは、呼吸をするのと同じくらい、私にとっては自然な行為になっていた。


 私は、世界の幸福を維持するための「装置」。


 私が世界で最も不幸な存在──いや、不幸という感情すら失った「無」の存在──になることで、世界は完璧な幸福を享受している。


 なんと歪で、なんと滑稽な均衡だろうか。


「聖女様、今日も世界は平和ですわ。すべて、あなた様のおかげです」


 アイリスは、皺の増えた顔で、それでも変わらぬ忠誠心をもって私に仕えてくれている。彼女の目には、深い哀れみと、諦めのようなものが浮かんでいるように見えるが、それを口にすることはない。


「……そう、よかったわね、アイリス」


 私の声は、もはや風の音のようにしか聞こえないかもしれない。


 ふと、私は空を見上げた。


 エルドラシアの空は、今日も一点の曇りもなく、抜けるように青い。


 この完璧な青空の下で、人々は笑顔で暮らし、愛を語らい、未来への希望を抱いているのだろう。


 私の、この身の犠牲の上で。この、空っぽになった心の器の上で。


 ねえ、女神様。


 これが、あなたの望んだ「聖女が謳歌する新たな生」だったのですか?


 これが、あなたの言った「愛があれば大丈夫」の結末だったのですか?


 私の問いは、誰にも届くことはない。


 ただ、あまりにも平和で、あまりにも幸福な世界の片隅で、私は今日も「不幸」を吸い込み続ける。


 世界の幸福を維持するための、ただの「装置」として。


 永遠に、終わることのない、この歪んだ円環の中で。


 ああ、今日も世界はなんて素晴らしいのだろう。


 私の心の中以外は、すべて。

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