【短編小説】恋ミノル、銀座ヤキニク
美食を求める文筆家による、実在する飲食店を舞台にした短編小説。今回は銀座にあるこだわり高級焼肉店での男女の恋愛模様。果たして、恋は実るのか?だけでなく、美味しいものをぜひ味わってみてください。
大人のデートを極める楽園、銀座。
2024年4月に開店した「肉匠ふるさと銀座本店」は、関東で唯一、希少な広島産和牛「榊山牛」(さかきやまぎゅう)を味わえる高級焼肉店だ。広島グルメ界で話題の「焼肉ふるさと」が東京に初進出したとあって、オープン当初から美食家たちの間で話題となっていた。
銀座界隈の大手広告代理店に勤務する本城智志は、業界の知人たちから、実はカップルからも熱視線が注がれている注目店であると聞いていた。同じ30代後半の独身、アートディレクター三上はこう言った。
「夜景を眺めながら食事ができるカップル個室があって、かなりやばいらしいよ。すごく狭くってさぁ。手とか握らないわけにいかないような、至近距離なんだって。濃密な時間を過ごせちゃうらしい」。
耳の小さなピアスを揺らしながらニヤニヤと笑う三上には、30代とは思えない無邪気さが残っている。おそらく小学生の頃から、こんないたずらな笑顔を友達に向けていたのだろう。
智志は電話で店に空席状況を確認した上で、さっそく来週、デートを予定していた彼女にスマホからメッセージを送ってみた。
「おつかれチャン。奈央ちゃんは、お肉好き〜?銀座にスペシャルな店を見つけたよ〜❤️」。
入力文面の最後には、スマイルとステーキの絵文字、そしてハートマークも入力。
智志が林原奈央と出会ったのは1ヶ月前のこと。葉桜が揺れる公園でピクニックという名の飲み会を仕事関係者が主催して、お互いにそこに呼ばれたメンバーだった。
奈央とはまだ1度しか会っていない。だがスマホでやり取りをしているうちに、何となくだが長く続く関係になるのではないかと直感していた。映画や音楽など共通の話題も途切れることなく続く。世間ではこれを価値観が似ているというのでないのか。
智志のように華やかな広告業界にいると、周囲の誰もが美人と呼ぶような、キラキラした女性と出会う機会が多い。奈央はそういう意味では特段キラキラ輝くわけではないのだが、笑った時に三日月のように細く伸びる瞳や、明るい茶色のハイライトの入った三毛猫のような髪の毛が独特の美しさを秘めていた。
そして何より智志にとって、不思議と何でも話せるような気がしていた。実際、仕事のプレッシャーや失敗話など、男として格好悪いことも、スマホだからか軽く伝えることができていた。
友人としては十分に親密な関係だが、智志はそこから少し刺激的な男女の関係に発展させてみたくなった。だからスマホのメッセージの最後にLOVE印を入れたのは、意外と重要なことなのだ。
奈央からも同じくハートマークの笑顔スタンプが返されてきた。智志はニヤリと頬を歪ませながら、ベッドに横になる。
「お先に失礼します!」
銀座のネオンが輝きだすと、智志は早々に会社を後にした。皐月の薫風。銀座の街路樹は、新緑が艶めいていた。
「肉匠ふるさと銀座本店」の入っている銀座8丁目にある博品館ビル。いつも店頭に可愛いらしい玩具がディスプレイされていて、行き交う人々の目を引いている。その大通りに面した目立つ入り口ではなく、奥のエレベーターに近い入り口側で智志たちは待ち合わせた。
18時20分。智志はグレーの落ち着いたスーツに、一番好きな臙脂色のネクタイを身につけていた。爽やかなマリン・ソープのオーデコロンも、夕方につけ直した。ほどなくして同じようなグレー色のワンピース姿の麻央が現れた。
約2週間ぶりに見た麻央の笑顔は優しくほころび、首元の小さな花柄の襟がとても似合っていた。智志は思わず麻央の笑顔に吸い込まれそうになりながら、すぐに麻央を直視できなくなった。照れを隠し、智志はエレベーターの内側に奈央を引き寄せるように、自然な流れで手をつないだ。
「いらっしゃいませ」
店内に一歩足を踏み入れると、落ち着いたスタッフの声が響き渡る。全体的にシックで落ち着いた雰囲気。銀座らしい店構えだ。
智志たちの目にまず飛び込んできたのは、大きなワインセラー。右手一面にずらりと、フランスワインと思しき高価そうなボトルが並んでいる。ワインセラーのガラス戸には、智志たち男女のシルエットまで映り込んでいる。
どこから見ても恋人同士にしか見えない自分たちを、まるで鏡でまじまじと確認しているような、こそばゆい気持ちになった。それを掻き消すためか、奈央が指を差しながら話題を作った。
「わぁ、あれって、超高級ワインだよね?」
麻央の指先の向こうには「Château Margaux」のジャケット。シャトー・マルゴー。肩まで伸びた柔らかそうな茶色の髪を揺らしながら、小さく喜ぶ麻央が智志の腕を軽くつかんだ。
智志の口角が少しだけ上がる。
プライベートな夜の時間がゆっくりと動き出す…。
さっそく予約していたお目当てのカップル席へ案内された。価格がワンランク上のVIP向けカウンター席と、他のお客も視界に入るテーブル席、そして今回予約した完全個室のカップル席がある。
パリッとした襟元の白シャツに、黒のソムリエ・エプロン。KENと胸元にネームプレートを掲げているホールスタッフが、背筋を伸ばして上品な笑顔で案内してくれた。全ての指をキレイに揃えた手のひらが伸びてきて、カップル席の方に促す。KENさんの胸元には、葡萄のかたちの金バッジも輝いていた。
個室を見渡すと想像以上に狭い空間。畳2枚分のスペースであろうか。奥は全面ガラス張りで、ビルの5階から見える都会の夜景がぜいたくに目の前に広がっている。お客の目線と同じくらいの高さに高速道路が走っていて、時折、車のライトが小さく煌めく。生きている銀座、といった様相だ。
ふと「誰にも邪魔されない、二人だけの空間」という言葉が脳裏に浮かんだ。そういえば、男性雑誌のデート特集に使われそうなこのキャッチコピーが、この店の案内サイトに書かれていた。
智志は笑顔で奈央を隣の椅子に座るように促した。夜景に目が釘付けになったままの奈央は、促されるままとりあえず席に座る。
横長のテーブルの中央には焼き台が設置され、その前に二人が仲良く横並びで座った。二人の視界の奥には煌めく銀座の夜景、それが天井まで広がっていて圧巻だ。
奈央はコンパクトすぎるプライベート個室に少しだけ動揺したようだった。
智志は心の中でこうつぶやいていた。
――これがデートというもの。女性を少しドキドキさせるくらいが、ちょうど良い。オレはもう、奈央を単なる友達には思えないのだから…。
「奈央との再会に、乾杯!」
智志がそう言って、ジャンパンが注がれたグラスをかざすと、奈央も嬉しそうにグラスを傾けてきた。
この空間なのに女を口説けない男なんて、男失格だ。智志は自分にそう言い聞かせ、乾いた喉を潤した。
周囲をよく見渡してみると、自分たちの椅子、つまり、それぞれの椅子のお互いに相手に接する側だけ、なぜか肘掛けがない。智志には右側の肘掛けが、奈央には右側の肘掛けがない…。不完全な左右対称の椅子が2脚…。
片方の肘掛けはお互いの腕ということか‥?
智志はこんな気の利いた椅子をあえて用意した店のユニークな配慮に思わず笑った。
「すごいね〜!」と奈央もその仕掛けに驚きながら、肘掛け話で盛り上がる。
最初に注文したのは名物メニュー「広島直送 広島和牛タンてっさ」。この店を先に訪問していた三上が太鼓判を推していたからだ。広島から直送した新鮮な和牛タンを、透き通るほどに薄切りした刺身。これをフグの“てっさ”のようにポン酢で味わう。なんともぜいたくな逸品だ。
興味津々な奈央は「フグのように牛タンを食べるなんて!初めて〜!」とはしゃいで、まずは1切れ目を慎重に口に含んだ。智志もそれに続く。タンなのにやわらかく、繊細で上品な味わい。
次に"てっさ"らしく3~4枚をまとめて箸で豪快にすくい取ってほおばる。肉の甘やかな旨みがぜいたくに口の中に広がる。奈央も大きく目を見開いて、満面の笑みで智志に視線を投げかけてくる。
智志は何度も奈央と目を合わせながら、時折、口福の悦に入った。和牛タンてっさ以上に、奈央との“目線会話”を堪能していたかもしれない。
ちなみにこの店を教えてくれた三上は、デートの下見を兼ねて、先に仕事の接待でこの店を訪れたようだった。その時は個室ではなくテーブル席だったらしい。
「銀座の高級焼肉店らしく、フルアテンドで焼いてくれてさぁ、クライアントは喜んでいたよ」。
こちらの個室はまさにデートにぴったり。この席にして本当に良かった。三上にも報告しないと、と智志は心の中で呟きながら、脇で奈央がさりげなく髪をまとめる仕草に見とれていた。
この店では、予約時に焼き師によるフルアテンド・サービスにするか、iPadで好きな時に注文するカップル席にするのか、どちらかを選べる。iPadで注文だと、料理の提供と呼ばれた時にしか個室にスタッフは入ってこない。つまりデートに邪魔が入らない。より親密になりたいカップルにはとても都合がいい。
智志たちは一緒に一つのiPad画面をのぞき込みながら、「広島直送 広島和牛特選タン 4枚」、「榊山牛特選ハラミ」などをタッチして注文した。
「野菜も欲しいなぁ〜。キューブサラダもたのまない?」
と奈央がiPad画面を指さしながら、急に智志に顔を近づけてきた。どこからともなくやさしい花の香りが漂う。智志はドキドキして脇の辺りに少し汗がにじんだのを感じた。
カップルにはおまかせのコース料理ではなく、アラカルト注文にして正解!――これも三上に教えてやらないと。
意外にも「生肉が好き」という奈央のために、「榊山牛ユッケ」も注文した。霜降り和牛の細切りに卵黄とネギがトッピングされている美しい逸品。
智志は取り箸で手早くかき混ぜながら、皿の上で肉を半分の量に分けて奈央の方へ差し出した。奈央は「ありがとう」とつぶやくと、遠慮がちにその一角だけを自分の箸ですくった。
「お嬢さん、遠慮しないで。もっと、どうぞ〜!」と、おどけた調子で智志が自分の箸で半分をすくうと、「いえ、いえ。それは、それは、ありがたや〜」と調子を合わせて、また肉の一角を少しだけ自分の箸ですくい取った。
二人の箸が少しずつ交互に肉を取り合う。最後の肉をもらった方が負け、という何かのゲームみたいになって、奈央がたまらずクククッと笑った。
箸と箸で、もしかしたら間接キスかな…。――智志は愉快になり、和牛のとろけるような、まろやかな旨みを舌の上で転がした。肉なのに甘やか。
遠くで英語と中国語で接客しているKENさんらしき声が聞こえる。銀座の和牛焼肉、外国人客も多いらしい。目の前のメニューブックには英語や中国語でも記載されている。
「前に接待でこの店に来た仕事仲間にね、教えてもらったのだけれど。この店で使っている榊山牛ってね、広島県の希少なブランド和牛で、肉の融点が16℃くらいなんだって。だから口の中ですぐに溶けるらしいよ」。
焼きかけのハラミをトングで裏返しながら智志がそう説明すると、奈央は肉をゆっくりと噛みながら何度もうなずいた。
「確かに〜。お肉を噛んでいるといつの間にか喉に流れていく感じ。キレイにサシが入った肉なのに、ぜんぜん重くない。おいしい!」。奈央が嬉しそうに笑った。
そして突然、猫のように智志の腕に顔を近づけてきて、肩のあたりで甘えるように言った。「こんな素敵なお店に連れてきてくれて、本当にありがとぉ〜、サトシ君」
智志は思わず心の中でガッツポーズ。初めてファーストネームで呼ばれた!
その後、KENさんがやってきて、ソムリエらしく赤ワインの産地やブドウ品種を説明してくれたのだが、智志の頭にはもうその言葉は半分くらいしか入ってこなかった。
「うん、うん」とうなずきながらワインを理解しようとしている奈央の横顔に、智志は見とれていた。
榊山牛は鮮やかな小豆色。網の上で焼くと、一般的な茶色に変わり、焼肉らしい見た目に変わるのだが、焼く前は思わず凝視してしまう美しい紅色。脂がたっぷりとのったサーモンピンクの牛肉とはまったく別物だ。
それにしてもここは焼肉店なのに、煙やニンニクの匂いが充満していない。午前中はプレゼンだったので、Ermenegildo Zegnaのスーツで気合いを入れた智志だったが、洋服に匂いがつくことを心配しなくていいのは本当に嬉しい。
奈央ご所望の「キューブサラダ」は箸休めで味わいながら、二人はiPadや卓上の説明書きなどに書いてある榊山牛の説明も読んだ。
「榊山牛は、旨味成分の含有率が、和牛平均の約150%だって!」。元気に肉を頬張る奈央は表情がコロコロと変わり、漫画のキャラクターのようで可愛らしい。
肉厚の榊山牛のタンは、噛むたびにしっかりとした弾力と旨みが広がる。先ほどの和牛タンてっさとは別の部位かと思えるほど、濃厚な味わい。
一方、榊山牛のハラミは噛むほどに肉汁が広がり、とても滋味深い。一つ一つが芸術品のような見た目と味わい。
「広島で月に13~15頭しか生産されない、幻の牛なんだね。すご〜い!」とさらに説明を読みながら驚く奈央。「今度、一緒に広島にでも行こうか?いつか旅行にも行きたいよね」と左腕で頬杖をついて智志が言うと、奈央は笑顔ですぐに頷いてきた。
2度目のデートで、今後の旅計画もできたかな。智志は嬉しさが込み上げてきて、白ワインを一気に口に含んだ。
肉といえば赤ワインが定番。だが、この店では白ワインでも肉を楽しませてくれる。ワイン通でなくとも、それが面白い。
「肉に白ワインを合わせるのは珍しいかと思いますが、榊山牛の脂が上質で、繊細で重くないからできることなんです」。
KENさんはこう説明して、二人のグラスに酸味の効いたソーヴィニヨン・ブランを注いでくれた。和牛タンてっさや、広島和牛ハラミにニュージーランドの白ワイン。生まれて初めての経験だ。楽しすぎる。
一方、「広島直送 広島和牛レバー」の提供時には、赤ワインの「マウント・ハーラン・ピノ・ノワール・ミルズ・ヴィンヤード」が注がれた。KENさんによるとアメリカ、カリフォルニアのピノ・ノワールの先駆者CALERAカレラの赤ワインだそう。
「すごくおいしいですね、このワイン。僕、ワインはそれほど詳しくないのですが、ソムリエさんだと、こういうワインはどういうふうに味を表現するものなのですか?」。
智志はワインをスワリングしながらKENさんに聞いてみた。奈央もワインを揺らして眺めている。智志はワインは素人だったが、ワインに関心を示している奈央のために、あえて質問を投げかけてみた。
「そうですね。こちらのワインは、エレガントな酸味と、生き生きとした果実味が特徴です。熟した黒ラズベリー、ザクロ、マーマレード、そして野生のきのこ、黒こしょうなどの複雑な風味。まろやかなタンニンがレバーと相性がよく、おいしさの相乗効果が生まれます」。
そう言って最高のスマイル顔になったKENさんは、執事のような丁寧な振る舞いで、小さなプレート皿に乗せたコルクを二人に見えるように置いた。
彼の言葉にいざなわれ、二人ともグラスに鼻を近づけた。深呼吸するタイミングが重なる。お互いにそれがおかしく、同時にクスッと笑った。すぐ隣にいるから、小さな息づかいまで聞こえてくる。
レバーは焼かれる時のその奇妙な動きやザクザクと弾ける食感で、ついさっきまで生きていた個体のレバーなのだと二人に悟らせた。あえてレバーの表面の薄皮を剥ぎ取っていないので、焼くと薄皮が縮んで、網の上で自力でクルッとひっくり返るのだ。こんな光景も初体験。
中はとろりと濃厚な味。だが、鮮度がいいのがよくわかるクリアな風味。それを赤ワインが包み込み、二人はまた同じ瞬間にため息を漏らした。息づかいのタイミングが連続して重なる。
酔いが体中を心地良くまわる頃には、二人とも頬に少し熱を帯びていた。いつの間にか、智志の右腕と麻央の左腕が接していた。そしてそこを男女の磁場とするかのように、二人の体が少しずつ重なった腕の方に引き寄せられていく。自然と二つの顔が近づいていく…。
躊躇や不安、恥じらいは、智志にはもうなかった。穏やかな安心だけがそこにはあった。
智志はひと呼吸し、「榊山牛がこんなにおいしいとは知らなかったね〜」と麻央の方を見た。今ならキスができるかもしれない…。
目が合うと麻央はしばらく見つめ返していたが、恥ずかしそうに視線をはずし、コクリとうなずいた。夜景を眺めている美しい横顔がたゆたう。
こっちを向いてくれないかな、そしたらキスできるのに…。
智志は高まる気持ちをグッと抑えた。オレの気持ちはもう十分に伝わっているはずだ。
最後はサーロインステーキ。この塊肉だけは焼き加減が重要だから、KENさんに焼いてもらう。二人が何もなかったかのように、また元の椅子の位置に座り直したところで、KENさんをiPadで呼んだ。
彼は丁寧に分厚い肉の塊を返しながら焼き上げ、カットして皿に盛ってくれた。先ほどの黒胡椒風味の赤ワインと、旨みが際立つステーキ。見事な取り合わせだ。
すだちが浮かぶ爽やかな香りの「韓国冷麺」、そして最後は「季節のデザート」。この店には専任のパティシエがいるので、最後のデザートまで本格的だ。特にパッションフルーツのクリームを挟んだマカロンに、麻央が歓喜の声をあげた。マカロンも自家製で、おもたせにもできるという。
料理が提供されるたびに、一緒に驚き、一緒に喜び、一緒に笑った。何度も。最初は狭いカップル席にドキドキしたが、自然と互いの気持ちがなじんだようだった。2時間の間に二人だけの濃密な時間が過ごせた。帰る頃にはこの狭さがむしろ心地良く感じられた。
食事を終えると、智志は大胆に股を広げるようにして、体全体を麻央の方に向けた。正面から向き合って、今夜、素敵な時間を一緒に過ごせた感謝の気持ちを、最後にきちんと伝えたかった。麻央は微笑みながら、相変わらず上半身だけ智志の方を向いていた。
「おいしかったね」。
満面の笑顔で智志がそう言うと、麻央も満面の笑顔で視線を智志の方に向けた。しばらく見つめあった後、奈央はそのまま智志の方に顔を近づけた。一瞬だけ智志の頬が揺れた。
一瞬のできごとだった。
呆然としている智志と、クスッと笑う奈央。
もしかして、キスされたのか?
いや、いたずらで頬に息を吹きかけただけなのかもしれない‥。
それともオレの頬にゴマか何か、付いていたのを取り除いてくれただけなのか?
早すぎて、よくわからない‥。
奈央の三日月のように細長く伸びた瞳の奥は、何を物語っているのだろう。
いずれにしても、智志の中に熱いものが込み上げてきた。
そしてそれはすぐに、智志の中で満タンになった。何もかもが満たされた。
榊山牛を喰らい尽くした二人にとって、それは本日の最後のごちそうだった。
実在する飲食店を舞台に繰り広げられるグルメ小説。実際のメニューや営業内容の最新情報はお店の公式ホームページなどで各自ご確認ください。