天竺
「そして女湯と男湯を分け隔てる憎き壁は一人では上から覗き見る事ができない絶妙な高さで設計されています」
「……そ、それは──」
「そして女湯と男湯を分け隔てる憎き壁は一人では上から覗き見る事ができない絶妙な高さで設計されていますっ」
大事な事だから二回言いましたと言わんばかりの犬飼さんのその表情を見て、私は察する事が出来た。
二人でならば、けして一人では見る事が出来ない男湯を覗けることが出来る。 そう犬飼さんの表情は強く語っている。
「昔の話は昔の話です。 確かに私は、貴女からたとえ当時の事を謝られたとしても許しはしないでしょう。 ですがそれは逆に言うと謝ろうが謝らなかろうが私の答えは変わらないという事であり、変わるとしたら彩音さんの心情のみで私には何一つ得する事などございません」
そして犬飼さんは真剣な表情で語って来る。
「そして、その事を根に持って目の前に落ちている果実を二人でなら拾う事ができるにも関わらず協力関係すら築こうとしないのは得をしないという状況から損をするという状況へと変してしまいます。 どうせ『許さない』という事が確定しているのに彩音さんとの協力を拒んでしまうと彩音は得も損もしないのに私だけが損をするという事になります。 それは流石におかしいと思いませんか? 世界は何故こうも理不尽にできているのでしょうか」
えっと、真剣に語ってくれる犬飼さんには悪いのだが、何を言っているか理解が追い付かないのだけれども……これは私が悪いのだろうか?
「ご、ごめんなさい。 もう少し嚙み砕いていただけるとありがたいなぁーと」
雰囲気でなんとなく言いたい事は分かるのだが、それでもちゃんと理解できたかというとそうではない為私は犬飼さんにもう少し分かりやすく説明するようにお願いする。
「これで分からないとは……いいでしょう。 かいつまんで言いますと、過去の事を今に持ち込んで見える筈の天竺を見ないというのはあまりにも損失が大きすぎるという事です」
「あ、はい。 とても分かりやすかったです」
そうだろうなーと思っていたので別段驚きはしないし、私もその、少しだけ……そう、ほんのちょっとだけ気になるというか、本当はあまり興味は無いのだけれども、それでも同じ女として犬飼さんの気持ちも分かるのだが、それを婚約者相手に言う事だろうか? と思ってしまう。
しかしながら犬飼さんや祐也さんからすれば私がいくら婚約者だとしても『余所者』という事には変わりないのだろう。
これからその『余所者』というレッテルを剥がす為にもここはひとつ犬飼さんと協力するのも婚約者として、そして将来の妻としての務めであると私は思う。 なので私もその天竺とやらを一目でいいから見てみたいとか、そういう邪な感情から犬飼さんと協力するのではないという事だけは分かって欲しい。