第七話
第七話目の更新となります。
『———わたしは特別だった』
それは数えきれないほどに見た悪夢であった。
燃え盛る炎に、焼け落ちる家屋。
窓から見える村の家々はここと同じように燃え盛っている。それはまるで蛍の光のように淡く輝いており、ある種の幻想的な光景にも思えた。
地獄という概念が悪魔によりもたらされたのなら、当時十二歳のライル・シングスという少年に見舞われた不幸はなんと表現すればいいのだろうか。
真っ白な壁に見えない力で磔にされた彼と、それを見上げた少女はその場に相応しくない笑顔を浮かべていた。
彼らの周囲には、息絶えた多くの人間の亡骸が転がっており、その全てが死の間際にまで恐怖の表情を浮かべている。
死に囲まれた場所で、ライルは意識を朦朧とさせながら自身の家族だった少女を見る。
『わたしは特別だったけれど、お兄ちゃんは特別じゃなかった。けど、悲しむ必要なんかないの。わたしにとってお兄ちゃんは誰よりも優先される存在だから』
彼女の言葉には慈悲があった。
失望でも哀れみでもない、まるで目の前で磔にされている少年をいたわっているように思えた。
少年にとって、少女は二つ年の離れた妹のような存在であった。
兄代わりとなった彼が守り、共に育った唯一家族と呼べる存在。
そんな少女が、今まさに自分を見えない力で磔にして、何かをしようとしている。
『私は変わってないよ? むしろずっとこうしたかった。私達を無視して挙句の果てに生贄にしようとしたこの人たちも、村の人達もずっとこうしてやりたかった』
俺も、磔にしたかったのか?
殺したいほど憎んでいたのか?
記憶の中の自分が声を震わせながらそう口にすると、少女はきょとんとした顔になる。
『違うよ? なんでお兄ちゃんにそんなことしなくちゃいけないの?』
お前は変わってしまった。
元のお前に戻ってくれ。
途切れ途切れに訴えかけるも、妹の姿をした怪物はあどけない笑みを浮かべ、彼の頬を両手で包み込むようにし無理やりに瞳を合わせた。
『いいこと思いついちゃった』
不自然に赤く輝く瞳と、恐怖に怯える黒い瞳が交差する。
油を放り込まれたように周囲の炎が勢いよく燃え上がった。
周囲が震えているのか、それとも自分の心臓が尋常ない勢いで鼓動しているか分からないほどの振動に襲われる。
呼吸すらも忘れてしまいそうなほどの恐怖と、得体の知れない感情に飲み込まれそうになっていた彼に、妹は言い聞かせるように小さく、それでいてよく通る声で呟いた。
『——お兄ちゃんもわたしと同じように、“特別”にしてあげるね』
●
「ちょ、ちょちょちょ!? ライルさーん!?」
「———ッ」
悪夢から目を覚ました瞬間、まず目に入ったのは焦った表情でライルに叫んでいるローラであった。彼女の目と鼻の先には、ライルが懐に忍ばせたナイフの切っ先が向けられていた。
「ああ、悪い。癖でやっちまった」
「どんだけ壮絶な癖なんですか!? 私、死ぬところだったんですけどぉ!?」
「謝った。許せ」
「貴方をナイフで突き刺してやりましょうか!?」
この男、今からでもぶん殴ってやろうかな。と、昨夜の感謝の気持ちも忘れ拳を握りしめる。
グールと怪物化していたハルトとの戦いを終えたライルとローラは、まずグールの死体を正規の手順を踏んで処理してから、朝まで休息をとっていた。
太陽が出てから少し経った頃に、荷物を纏めて外に出てみれば昨夜の戦闘の傷跡が残っており、怪物と化したハルトがどれほど危険な存在かを再認識させた。
「———見つけた」
荷物を纏めた彼は森へと逃げて行ったハルトの足跡へと手を添えた。
ハルトは裸足だったのだろう。地面に深く刻まれるほどに強く踏み込まれた足跡に、改めて人間の力ではないと思いつつ、痕跡の考察に移る。
「この足跡なら追えるな」
「それだけで追えるんですか?」
「折れた木の枝。乱れた草花。付着した血の痕跡を辿っていくだけだ。足がついている相手でよかった……追跡なら悪霊よりずっと楽だ」
心底そう思うようにライルは肩を竦めた。
本音を言うのならば、今追跡しようとしているハルトも悪霊も厄介さではそう変わらない。形のある脅威か、形のない脅威のどちらかでしかないのだ。
「向かっている先は……森の奥か。おい荷物持ち、このまま進むぞ」
「……そろそろ名前で呼んでくれませんか?」
「やなこった」
「ぐぬぬ……」
ハルトの持っていた鞄を持たされ馬を引いているローラは悔し気に呻きながら、先を歩くライルへとついていく。
森の中は朝靄が満ちていた。肌に張り付くような湿った風を受けつつ、ライルは痕跡を辿る。
ハルトの足取りには一切の迷いがない。昨夜、交戦した限りは理性がないように思えたが、彼の足取りは逃げているというより特定の場所へ向かっているとライルは考えた。
追跡に集中しているライルの背中をローラは見つめた。
「兄に何が起こっているんですか?」
「知らねぇよ」
「……そうですよね。どう見ても、怪物でしたし」
露骨に気落ちするローラ。
そんな彼女を一瞥したライルは、溜息をついた。
「一番可能性が高いのは、悪魔に憑かれたことだ」
「え?」
「悪魔にとり憑かれた人間は、普通じゃありえない力を持つ。念動力、幻覚、怪力、とり憑いた悪魔によって強さも個性も違ってくるが……こいつが一番可能性が高い」
「でも、兄には聖水が効いていなかったような……」
ライルは聖水を矢じりに振りかけ、襲い掛かってきたハルトに突き刺した。しかし、聖水も矢もハルトには効果はなかった。
しかし、そんなローラの指摘を彼は否定した。
「強い悪魔には聖水は効かない。そうそうないことだが……お前の兄貴はやべぇ奴にとり憑かれているかもしれねぇってことだ。そうじゃなくても、悪魔が絡んでいてもおかしくない。……関わってほしくねぇ時に決まって関わってる連中だからな」
そう言葉にしたライルは自身の手に視線を落とす。
「とりあえず、接触しない限りは分からないのが現状だ」
やけに現実味のあるように呟いたライルにローラは不安な表情を浮かべる。
本来は、ライルはローラの事情にそれほど踏み込まないつもりでいた。最初に遭遇した時点で厄介事を運んできていることは理解できていたし、関わるのも面倒だと思っていた。案の定、話を聞いてみればギルド長から依頼された場所で行方不明になった兄を探してほしいというもの。
正直な話、ローラの兄は死んでいると決めつけていた。
だからこそローラが兄の影を追って命を落とさないように突き放したが、彼女は頑として帰ろうとはしなかった。
狩人としての使命は人死にが多く、行方不明になった人間が生きて帰ってくるなんてことはほぼありえない。よくて精神が破壊されているくらいだろう。
しかし、今回においては少しばかり事情が違っていた。
ハルト・アレクサンドラは理性がない状態で、ローラの姿を認識することができていた。
それはつまり、僅かな可能性ではあるが彼の精神を元に戻すことができるかもしれないということだ。
それに加えて、ライルにはローラに肩入れする理由があった、
「……俺にも家族がいた」
不意に呟いたライルの声に、ローラが顔を上げた。
その表情は驚きに満ちており、今の今まで意地悪な印象を抱いていた彼がそんなことを口にしたことが意外だと思っているような顔であった。
「血の繋がっていない妹ではあったが、大切な家族だった。どっちの親もろくでなしだったもんで俺が面倒をみたようなもんだったが、正直……色々と辛いこともあった」
「辛いこと?」
「村八分にされてたんだよ。黒髪黒目の子供は村に災いを招くっていう悪魔が定めた慣習に従ってな。それで俺達は実の両親だけじゃなく、村の奴らからも白い目で見られ続けていた」
「なんですか、それ……」
誰もライルと少女に関わろうとはしなかった。
徹底的な排他と最低限の生活の保障。彼はそんな環境の中で妹を守りながら生きてきた。
狩人となった今では、悪魔に惑わされた村人の対応はしょうがないとも言える。
「たった一人の家族のために必死に生きてきた。いつかはクソみたいな村から抜け出すことを願いながらな」
「その、ライルさんの妹は今、どうしているのですか?」
一瞬だが、痕跡を探っているライルの手が止まる。
僅かに動揺を見せた彼だが、すぐに我に返ると答えを返した。
「死んだよ。……ああ、そんな顔すんな。俺が勝手に話したことだ」
「……大切な妹さんでしたか?」
「……ああ」
それ以上、ローラは聞いてはこなかった。
全てを話したわけではないが、彼が自身の家族のことを話すことは今までになかったことだった。それは、ローラと自身の境遇と似ていたから。
唯一の家族と離れ離れになる辛さを誰よりも深く理解しているからこそ、兄を追うローラを他人とは思えなくなっていた。それは淡い希望だと、勝手な善意の押し付けだとライル本人が理解していたが、それでも止めることはできなかった。
「ここだな」
そして、ハルトの追跡も終わりを迎えた。
痕跡が指し示すゴール地点―――それは、深い森の奥にポツンと佇む洋館であった。
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