9話 三章 変わり者刑事と呼ばれる男(2)
捜査一課で大騒動が起こる一時間と数十分前の、午後二時二十分。
宮橋と真由の姿は、第一事件現場近くにあった。現場の公園から少しの距離にある昔ながらの駄菓子屋の前に、黄色いスポーツカーが路上駐車されていた。
「午前中も刑事さんが来ていたのよ。例の男の子の話でしょ? 時々大人数で見かけたわ。なんだか怖い感じだったのは覚えているけど、それ以外はねぇ……」
十七年前から、自宅の一部を改装して店を開いているという初老の女は、そう言って申し訳なさそうに微笑んだ。
真由は「そうなんですか」と相槌を打ちながら、ちらりと後ろを見やる。こじんまりとした店内の入り口付近で、宮橋が物珍しそうに菓子を眺めて鼻歌をうたっていた。
「えぇと、他に何か覚えている事はありますか?」
視線を戻して尋ねてみると、女店主はふっくらとした皺の入った顔を歪めて、「どうだったかしら」と考える素振りで呟いた。真由としては、後ろから宮橋が「懐かしいなぁ」と独り言を口にしながら、いくつかの菓子を手に取る気配が気になった。
「そういえば、いつもその中心に、金髪で目立つ子がいたわね。人数はいつも違うのだけれど、その子は必ずいるのよ。そうそう、確か短い髪で眉が無い子だったわ。いつもその子の隣に、真面目そうな子が一人いたのを、何度か見た事があるの」
「ほぉ。それは、とても特徴的な組み合わせですね」
すると、すぐ後ろから声が上がって、真由はびっくりして振り返った。
つい直前まで興味もなさそうにしていた宮橋が、いつの間にかこちらの真後ろに立っていて、長身の特権のように頭上から顔を覗かせていた。
女店主は、宮橋の綺麗な顔をしばらく見つめた後、ちょっとだけ恥じらうように視線をそらして言葉を続けた。
「全然タイプの違う子が一人だけ混じっていたから、ちょっと気になったのよ。あまり楽しそうではない様子だったから、もしかしたら何かあるのかしらって」
「同感です。あ、これください」
そう言った宮橋が、いくつかの菓子をカウンターに置いた。真由は呆れながらも、顔には愛想笑いを浮かべて女店主に礼を言ったのだが、彼女はほとんど彼を見ていて、特にこちらを注目する事もなかったのだった。
昔ながらの菓子が入った袋を持った宮橋と共に店内を出たあと、真由は来た時と同じように駄菓子屋の引き戸を締めた。店内は、夏の熱気と湿気対策で冷房がかかっていたからだ。
聞き込み作業は不得意ではないが、やはりやるたび緊張してしまう。
駄菓子屋の前に出来た日陰に立っているはずなのに、まるで太陽の直射を受けているように暑い。蒸せるような空気を肺に吸い込んで、額にじわりと滲んだ汗をハンカチで拭って、空を見上げた。
「しんどい暑さですね」
「楽しもうと思えば、いくらでも楽しめる暑さだ。砂漠はこんなものじゃないぞ」
袋の菓子を眺めながら、宮橋が楽しそうに言う。
真由は彼に続いて車に乗り込みながら、暑い日差しと熱気の中、彼がきっちりとスーツを着込んでいる事が信じられないと思った。こちらは丈の短いスーツのジャケットだが、その下で既にシャツに汗が滲むのを感じていて、脱ぎたくてたまらないでいる。
車内は冷房がかけられると、数十秒ほどで冷え始めた。宮橋が、満足そうに駄菓子の入った袋を脇に置いて、中をごそごそと探る。
「金髪頭の死体はまだ出ていない。彼が集団のリーダーである可能性と、真面目な学生の一人が餌食になっている推測も、なかなか信憑性を帯びてきた」
「だからって、お菓子を買う事はないのに……」
「君は、これがどれだけ美味いのか知らないようだな。ははは、実はそう言うと思って、君の分も買っておいた」
流れるような動作で「これが君の分だ」と差し出され、真由は宮橋からチョコバーのお菓子を受け取ってしまっていた。
それをしっかり目に留めて、わずかに眉根を寄せる。
「私、これ知っていますよ。美味しいのだって分かってます。学生時代は、よくお世話になりましたからね」
「なら、喜んで有り難く食べるがいい」
宮橋はそう続けると、袋を開けてチョコバーを一口かじった。真由は呆れながらも、「今の私に糖分は必要だ」と判断して袋を開けた。
久しぶりに食べたその駄菓子は、少し前に両親のもとへ里帰りした時に食べた味のままだった。どうしてあのチョコバーが、都会の一角にある両親の家にあったのかは知らないが、「好きだっただろう」と父に言われて、嬉しかった事は覚えている。
ああ、そう言えば父さんに会ったのって、年明けの話だっけ……真由はしみじみと思った。就職してからというもの、忙しい父とはなかなか時間が合わないでいる。
「宮橋さんって、甘い物とか好きなんですか?」
「いや? とくに決まってないな。食べたい時に食べるだけさ。僕は、二十二歳の時に初めて、駄菓子という物を食べてね。世の中に、こんなに美味くて安いお菓子もあるのかと感動したよ」
宮橋の何気ないその言葉を聞いた瞬間、真由は飲み込みかけたチョコレート味を噴き出しそうになった。慌ててそれをどうにか喉の奥に流し込み、信じられない思いで彼を振り返る。
「子供の頃、食べた事ないんですか? 一度も!?」
「ん? 何を驚いているんだ。なんだ、子供時代には皆食べている物なのか?」
宮橋は、本心からそれを疑っているような顔をした。真由は説明するのも面倒になって「別に」と言葉を濁し、お菓子を食べる事に戻った。
信じられない。一体どういう生活をしていたのか、すごく気になるところだ。
真由はぐるぐると考えてしまったけれど、仕事とは関係ないからと、それを振り払って冷静になろうと努めた。そんな事を次から次へと訊いてしまったら、出会い頭に、質問は無しだとか指示には従えと言って『条件』を突き出していた彼に、今度こそクビを宣言されそうな気もする。
その時、大口で駄菓子を平らげた宮橋が、前触れもなく車を滑らせた。真由は慌ててお菓子を口に詰め込み、シートベルトを引っ張った。
「突然発進しないでくださいよッ」
彼女は、高速で口の中の物を噛み砕いて訴えた。悲しい事に、彼が運転することへの恐怖が、すっかり身に染みてしまっている気がする。非常時への備えが反射的に行えるようになった自分が、なんだか虚しい。
「君は、さっきから何をぶつぶつ言っているんだ? 聞き込み調査だと言っただろう。菓子を食べるのが目的ではないんだぞ」
ごもっともですが、お菓子を買っていたのは宮橋さんの方では……
真由はその文句を、結局は腹に収めて溜息だけをこぼした。車は意外にも、快適に滑るようにして道を進んで安全だったからだ。というか、私は胸の内の呟きを、ちょいちょい口に出してしまっているんだろうか、というところも気になった。
第一事件現場である例の公園の前を通り過ぎた際、首を伸ばして車窓の風景に目を凝らした。黄色いテープで封鎖された公園の奥には、鑑識や制服の有無がある捜査員が数人いたが、あっという間に通り過ぎてよくは見えなかった。
「まだ調査しているんですね」
「そんなに時間も経っていないからな、当然だろうさ」
視線も向けずに宮橋が言った。
車は住宅街を抜けて大通りに出た。左に折れて進み出したスポーツカーが、赤信号で止まった際に、宮橋が自然な動きで、左腕にはめている腕時計を見やった。
太陽の光で、宝石がはまった金の時計が反射した。真由は小楠が『宮橋財閥の次男』と口にしていた言葉と、彼がお金持ちであった事を思い出した。初めて乗車した時は抵抗があったのに、すっかりこのスポーツカーに慣れてしまっている現状を思って、複雑な胸中になった。
学生時代、よく高級車に出迎えられていた父を見て、かっこいいなあと思いつつも、自分には到底似合わないだろうなぁと感じていた。何せドレスを着ると歩き方は不自然になるし、テーブルマナーもてんで駄目である。
「ふむ、二時半を回るな。学校が終わるのはいつだ?」
「へ? あ、三時くらいだったと思いますけど」
唐突に問われた真由は、藤堂から借りた手帳の内容を思い返して、そう言った。青信号になった通りを比較的緩やかに進み出す中で、宮橋が左手をハンドルに置いたまま、右手を顎にやる。
「その『金髪の少年一向』については、N高校の一年生に尋ねるのが手っ取り早いだろうが、先に他の誰かがその情報を得るだろうし、その件に関して僕らが動く必要はないだろうな」
「どうしてそう思うんですか?」
宮橋が強い確信を持って呟いたので、真由は心の底から不思議になって尋ねていた。
すると、彼は先程来た道を戻るように、車を大きな交差点から左折させてから、こちらを横目に見てニヤリとした。
「刑事の勘ってやつさ。君よりも、経験が長いからな」
「はぁ、なるほど……?」
これ以上続けると小馬鹿にされる予感がして、真由は視線を正面に戻した。
宮橋の運転する車は、街の表通りを走行し、制限時速四十キロの緩やかな流れの中を進んだ。会話もないままの時間が続いて、真由はなんとなく、比較的安全に運転し続ける彼をちらりと盗み見てしまう。
彼は表情なく正面を見据えていた。彼越しに見える反対車線には、こちらと同じように快適に走る車が、一定の車間距離を開けて続いているのが見えた。
「なんだか、車が多いですね」
真由は、沈黙という状況も慣れなくて何気なく呟いた。
興味もなさそうに「今の時間はこんなものだろう」と返した宮橋の整った眉が、その直後にぴくりと動いた。そして、何も言わず、唐突に咄嗟に避けるようにして、彼が大きくハンドルを切っていた。
前触れもない進路変更に驚いて、真由は何事かと思って彼の横顔を見やった。また乱暴な運転になるんじゃないかと身構えていると、車は道の脇にそれて、通りにあったブランド店の駐車場に滑り込んで一旦停車した。
「もう、びっくりしましたよ、突然なんですか? 出来れば急に進行方向を変える前に、知らせてくれると助かります」
そう言って睨みかけたところで、宮橋の横顔が真剣な様子である事に気付いて、真由は言葉を切った。
サイドミラーを見やっていた彼が、車を駐車場内へとゆるやかに進め、『通り抜け禁止』と書かれた看板を越えて反対側の商店街道路に出た。
「……あの、どうしたんですか?」
「予定変更だ。知りたい情報が出来た。このまま県立図書館に向かう」
「えぇぇッ、事件の捜査の真っ最中ですよ!?」
時間がないと言ったのは誰ですか、と真由は言い掛けたが、それよりも速く宮橋が射抜くような視線を寄こした。
「いいか、君は僕に従うと約束したはずだ」
強い口調に気圧されて、真由は何も言い返せなくなった。確かにそう約束したと思い出して、素直に口を閉じる。
宮橋が慣れたようにギアを変え、そのままアクセルを踏み込んだ。時速四十キロの道路を五十キロで走行する黄色いスポーツカーが、次々に前の車を追い越していって、真由は我が身を守るシートベルトをぎゅっと握りしめてしまっていた。
「あの、ただ図書館に寄るだけにしては、ちょっと運転が荒くないですかね……?」
宮橋は、こちらの呟きにも目をくれなかった。商店街を進んだところで右折すると、三車線の県道へと入って、車を時速六十キロで走らせた。再び荒々しくハンドルを切って、今度は国道へ出ると、すぐに左の一般道へと降りてしまう。
県立図書館の場所を知っていた真由は、つい遠く離れて行く国道を見やってしまった。
「あれ? 宮橋さん、ここだと県立図書館から逆方向ですけど」
「質問は一切受け付けない。ここから一番近い県立図書館へ行かなければならないが、今は駄目だ」
宮橋は冷静な表情ながらも、獲物を射る鷹のようにミラーで後方の様子を確認し、車を飛ばした。
短い間に右へ左へと荒々しく進路変更されて、真由は目が回りそうになりながらも、吐き気を堪えて流れていく風景に目を向けた。車はいつの間にか、陸橋のある国道のへと入っていて、大きな橋の上を滑るように走行していた。
そこは北向け、南向けのどちらも、二車線からなっている広い道路である。端の第二車線を走行する宮橋の車からは、陸橋のフェンスの向こうに県警を構える都心の一部が臨めて、真由は呆気に取られてその絶景をしばし眺めた。
「うわー、ここって結構有名なドライブスポットですよね……まさかのデードコースですか、宮橋さん」
「ほぉ。君はそんなに、ガムテープで口を縛り付けられたいか」
「すみません、ちょっとしたジョークが口から飛び出たのは認めます。ほんと吐きそうで苛々するし事故るんじゃないかって心臓も痛くて、胃もキリキリします」
「先程から思っていたが、君は子供みたいに素直なところがあるな。――吐くなら外に吐け」
「だから、あんたは鬼ですか」
苛々して本人に直接それを伝えた真由は、不意に、サイドミラーに何か映りこんだような気がして目を向けた。
確認しようとした直前、車が勢いよく車線変更してしまいタイミングを逃した。黄色いスポーツカーは、走行車の少ない陸橋の中腹を越え、勢いをそのままに坂道を下り始めていた。
道路に危険な障害物が落ちていたか、危うい運転をする車かバイクを回避したような荒々しさがあったが、見回す限り、そこは走行車の少ない見晴らしの良い陸橋の上でしかなかった。
その時、横を走っていたトラックが、車線変更のウィンカーを入れてこちらの方に迫ってきたのが見えて、真由は「えっ、こっちが見えてないの!?」と思わず飛び上がった。今は捜査中であるし、こんなところで巻き込み事故には遭いたくない。
すると、宮橋が冷静にブレーキを踏んで減速した。そのままトラックから距離を離し、内側の第一車線へと車を入れる。トラックは、先程までスポーツカーが走っていた第二車線を、何事もなかったかのように走行し始めた。
「なんか、危なかったですね……。このまま事故ってたら、冗談で笑えなかったですよ」
「そうだな」
宮橋はそっけなく答えた。さりげなくサイドミラーを確認すると、「ああ、『離れた』か――なら県立図書館へ向かおうか」と告げて、アクセルを強く踏み込んだ。