13話 四章 第四の殺人、のち(3)
「私は捜査一課の小楠だ。君は筒地山亮君だな? 今、どこにいる?」
受話器を持った小楠が語りかけるそばで、スピーカーが設定された電話機から、少年の荒々しい呼吸音が響いている。
与魄智久の祖母の連絡先を調べてもらっている間、真由は宮橋と共にそちらの様子を目に留めていた。小楠警部の周りには、三鬼と藤堂、他の捜査員たちが集まって耳を傾ける姿がある。
『…………お願いだッ、助けてくれ! 俺は、死にたくない!』
不意に、少年が押し殺すような低い叫びを上げた。小楠が「どこにいるんだ」と続けて問い返したものの、スピーカーからは再び、荒々しい呼吸音ばかりがもれる。
しばらく黙ってチェス駒をいじっていた宮橋が、ふと顔を上げて「電車じゃないかな」と呟いた。唐突に何だ、と眉を寄せる他の捜査員の中心で、電話機のスピーカーから吐息交じりに『今、電車に乗ってて』と怯えた声が言葉を続けた。
宮橋が「なるほど」と言って、チェス駒をポケットに戻した。
「なかなかいい考えだ。市内線か?」
小楠は問いかける宮橋の言葉を聞くと、助けを求めて来た少年――亮にそれを伝えた。すると、電話の向こうから肯定するような喘ぎが上がる。
「どうする、宮橋?」
「待ってくれ小楠警部、今、考えてる」
そう思案気に呟いた宮橋は、まだ電話番号を調べ上げていない女性捜査員の仕事ぶりを横目に見やり、「いいだろう。僕の方は、まだ少し時間があるしな」と口にしてツカツカと歩き出した。
彼は電話へと歩み寄ると、小楠から受話器を受け取って自身の耳にあてがった。
「君には、こちら側から寄越す大人と合流するまでは、しばらくそこで時間を稼いでもらう。そこで訊きたいんだが、まず交信手段は携帯電話で間違いないか?」
『あんたは誰だ? 一体何を知ってるッ?』
「僕は質問をしている立場であって、君の質問に一つ一つ答えるつもりはないよ」
宮橋が、冷たくも聞こえる淡々とした調子で言った。すぐ隣で様子を見ていた小楠が「おい、相手は怯えきった子供だぞ」と囁いたが、無視してこう続ける。
「君は、時間の無駄をしたいのか? いいから答えて」
『……夜明け前くらいに、突然、非通知で着信があった』
スピーカーから聞こえるその声は、奥歯を小さくガチガチと鳴らした。
『ノイズ音をずっと聞いていたら、作り物の声みたいなのがぼそぼそ話して、俺の名前をピンポイントで言ってきた。それが数回続いて、電源を切ったら近くにいた人間の携帯電話に着信がかかってきて、俺、怖くなって走って……』
「それで、友人たちの死亡のニュースを知ったわけか。機器を通さない状態で、声は聞いたか? もしくは、実際に肉眼で何かを見たりは?」
『そんなホラーみたいな話あるもんかよ。チクショー気が狂いそうだ……ッ、早く助けてくれ! 誠も死んだんだろッ? あいつと電話で話していたら、声が、声がひしゃげて……』
「ああ、なるほど。四番目の彼は、そう言えば『携帯電話を耳にあてていた』な。直前までやりとりしていたのは、君だったのか」
宮橋は思い出すような声色で言いながら、少年たちの顔写真と名前の載った資料を、小楠に指して示した。
後ろで聞いていた捜査員たちが、そこにある『央岬誠』の名前を確認する。気になってすぐ近くまで来ていた真由も、藤堂と揃ってそちらを覗きこんでいた。
「とはいえ、央岬誠からの連絡が途切れた時から、何者かの視線についてはあまり感じなくなった――と僕は推測しているのだけれど、どうだ?」
スピーカーから、唾を飲む音が聞こえた。
『……あんたの言う通りだ、今は、ない』
「ああいうタイプのモノを抱えられる人間は、大抵が二つの意思を持つ事を当たり前としていてね。つまり、彼らは産まれ落ちた時から、その流れる血ゆえに『孤独を感じる事がない』、『独りであるという感覚を知らない』んだ」
宮橋が、どこかぼんやりとした様子で、独り言のように説いた。
「長く離れる事によって、初めて感じさせられる『独り』という感覚は、彼らにとって一番耐えがたくおぞましい物であるらしい。精神のバランスを崩す事がある。だから一旦は、戻ったのだろうとは思うけれど――残りの三人は、どこにいる?」
『へ? ああ、まっちゃんは――曽嶺マサルと中富陸は、人の多いところにいるらしいけど…………ケンは分からない。あいつ携帯電話を捨てたみたいで、連絡が取れないんだ』
その時、これまでずっと黙っていた小楠が、受話器を奪い取って怒鳴った。
「何故すぐ警察に連絡しなかったんだ!」
『しようと思ったさ! でもッ、なんて言えばいいんだよ!? 午前中にそっちに行っていたとして、あんたらは俺らの話を、さっきの奴みたいにちゃんと聞いてくれていた保証はあんのかよッ』
感情のままに不安感も全てもぶつけられた小楠が、途端にぐっと言葉を詰まらせた。後ろから三鬼が手を伸ばして、その大きな肩を叩いてきたからでもある。
小楠は、何も言わず普段通りの冷静な表情でいる宮橋の横顔を盗み見て、怒鳴れる資格もないのだろうと察して肩から力を抜く。
そばで見守っていた藤堂が「少年の方も、かなり参っているみたいですし」と、遠慮がちに言った。
「俺だって、今回のこの異様な事件も、一体何がどうなっているのか、宮橋さんとのやりとりを聞いてもちんぷんかんぷんです。でも、時間がないのは確かなんでしょう? もう四人も死んでいます。だから指示をください、小楠警部」
緊迫した空気に呑まれて、真由は、ついプライベートの時の癖で「小楠のおじさん……」と呼んでいた。その蒼白な顔に目を留めた小楠は、冷静を努めて電話の向こうの彼にこう告げた。
「……そのまま、電車で待機していてくれ。すぐにこちらから人間を向かわせる」
『分かった。頼むから、見捨てないでくれ…………』
声変わりをしたばかりの十六歳の彼が、今にも泣きそうな声でそう縋った。
小楠が顔を歪めて「全力を尽くす」と答え、受話器を置いた。通信が切れた途端、その場にいた他の捜査員たちの含めた人間の目が、それぞれの表情を浮かべて一斉に宮橋へ向けられる。
すると、今まで我慢して黙っていたらしい三鬼が、掴みかかる勢いで宮橋へと距離を詰めた。
「説明してもらおうか。一体、どういう状況なんだッ」
「煩い声を出すなよ。あの少年が訴えてきた通り、彼らのグループ全員が『殺人犯』に狙われているのさ。今出来る事は、形ばかりにでも君たちの方で彼らを保護してもらう方法だろう。けれど、そうやったとして、残りのメンバーが助かるかどうかまでは断言出来ない」
「まるで俺らが保護して、たとえ一緒に居たとしても、みすみす殺されるって言い方だな?」
「僕はそう言っている。物理的に、たとえこの署の中で保護したとしても『殺人犯』の行動は止められない。だから、もし殺害の確率を少しでも下げたいのなら、彼らを保護したら『狭い場所』には放り込まない事だ」
宮橋は、そこで小楠を見やって「まだ確認しなければならない事があって、ハッキリとは言ってやれないが」と前置きして続けた。
「恐らく『現時点までの段階であるのなら』、人の気配が多くある場所は少なからず効果はあると思う。死角になる場所を避けて、人の社会に囲まれたド真ん中に置くんだ」
「――つまり、多くの人間が留まる場所に紛れさせるわけか。そうする事で、その『殺人犯』は今のところは動けない、という解釈でいいのか?」
長年の付き合いから察したように、小楠は真面目に確認する。宮橋が「今のところはね」と、彼の台詞の一部を取って年を押すように繰り返した。
近くにいた数年後輩の男性捜査員が、小さく挙手して「宮橋さん」と呼んで質問した。
「今の段階でなら、とおっしゃっていましたが、つまり以前の『L事件』でもあったように、それは一時的な処置なわけですよね……? もし事件解決まで時間が長引いた場合、最悪どういった事が想定されますか?」
「考えられる中での最悪なパターンは、大勢の人間がいようと関係無しに『殺人犯』が動けるようになる可能性だろうね」
その時、場の異様な沈黙と緊張感の中で、パソコンのキーを控えめに打っていた女性捜査員が「あの……、電話番号と住所が出ました」と言った。
三鬼がギシリと奥歯を軋ませて、宮橋を睨みつけた。
「『外』にいる連中には引き続き捜査をさせて、こっちではガキの保護だけして、待機していろと言いたいのか? お前が、その『確認』とやらをしてくるまで?」
「保護以外の動きについては、そっちに任せる。僕は僕の仕事をするまでだ――ただし、少年たちを署には連れ込むな。考えなしで動くと、最悪、ここにいるメンバーの誰かが死ぬ事になる」
「チクショー一体何がどうなってやがんだよッ、きちんと説明しやがれ!」
そう三鬼が怒鳴って、そばで見守っていた真由は、反射的にビクリと肩をはねさせてしまった。こういった緊迫した空気がずっと続くのは、とても苦手だった。
すると、宮橋は実に不愉快だと言わんばかりに、秀麗な真由を顰めて煩そうに彼を見やった。
「僕は対策も下準備もないまま飛び込んで、運命と輪廻から外れたモノに呑み込まれるのは、ごめんなんだ。そもそも君に理解出来ない事を、そうと知っていて何故、僕が必死に説明しなくちゃならない?」
宮橋は、苛立ったように言葉をまくし立てた。刺すような雰囲気と攻撃的な言葉に気圧され、後ろにいた真由と藤堂は思わず一歩後退する。室内にいた全員が、珍しく威圧感をまとう彼に圧されて黙っていた。
対する三鬼は、長い付き合いで睨み返していた。胸元を指先で叩いてくる宮橋を注意するでもなく、「耳にタコが出来るくらい聞かされたな」と言い返し、喧嘩を売るように顎を少し引き上げて、近くから指を突きつけた。
「だが、俺は何度でも言ってやる。理解出来ないかどうか、話してみなけりゃ分からねぇだろうが」
「何度も言ってくるのもムカツクんだ、馬鹿三鬼め。そもそも、身に受ける言葉と情報が、どれほど重い意味を持って己の行く先を狂わせるのか、君も知っているはずだろう。だから『フジサワさん』は、否応なしに巻き込まれて食――」
勢いのまま口にしていた宮橋が、不意に、息を詰まらせたように言葉を切った。
唐突に止んだ声に、若い捜査員たちが戸惑いを浮かべた。真由は、わずかに見開かれた彼の瞳に、後悔と諦めが過ぎったように見えた気がして、その視線がゆっくりと落ちていくのを見つめていた。
宮橋は数秒ほど黙りこみ、形のいい唇をきゅっと引き結んだ。まるで自身を落ちつけるかのようにニ、三度深く呼吸して前髪をかき上げる。けれど視線はそらされたままで、拒絶しているように三鬼を見つめ返す事もなかった。
「――いいか、三鬼。お前たちは、残りの少年たちを保護してくれればそれでいい。僕は僕で、勝手に一人でやる」
「それは許可出来ん!」
間髪入れず、小楠がその意見を一蹴した。
「一人では動くな、絶対にだッ」
「…………落ち着きなよ、小楠警部。そこにいる『相棒』を連れるんだ、実際には単独行動になるわけじゃない。ただ、これはもう完全に僕の領分だ」
肩越しに親指を向けられて、真由は遅れて「あ、はいッ。勿論私が同行します!」と反射的に答えていた。どうしてか、宮橋が少し落ち込んで反省しているように感じてしまい、つい勢い余って、場に似合わない元気な声が出てしまった。
小楠が「すまない、そうだったな、真由君という相棒がいた」と緊張が解けた息を吐きながら言う。
「それで、お前はどうする気なんだ?」
「少し話を聞きたい相手がいる。ああ、それから、この少年――与魂智久に関しては、見つけ次第すぐに連絡をくれ」
宮橋はそう言い、踵を返して歩き出した。
「これは、とても悲しい結末を迎えるだろう。どんなに考えても、同じ結果にしか辿り着かないなんて」
静まり返った室内で、彼が自分に言い聞かせるような声で、そう呟くのが聞こえた。
緊張に包まれた場に、困惑の色が不安を引き連れて広がっていた。彼らはL事件特別捜査係の存在を知っている面々なので、まるで現場の指揮を勝手に取るような宮橋の言動と行動を、止めに出られる者もいなかった。
真由は目の前を通り過ぎた彼が、女性捜査員からメモ用紙を受け取る様子を見ていた。ふっと肩を叩かれて、びっくりして振り返ると、そこには厳しい視線を宮橋に向けている小楠の横顔があった。
「宮橋を、絶対に一人で行動させるな。君は今、彼のパートナーだ」
低い声で命令されて、真由は小さな戸惑いを覚えた。数時間前から『L事件特別捜査係』の人間なのだから、彼を一人にさせるはずがないのに、変な言い方だなと思った。
すると、すぐそばにいた三鬼が「少年の保護に回ります」と短く言って、大股に歩き出した。その後ろを慌てて藤堂が追う。彼は宮橋の近くを通り過ぎたが、時間も惜しいと言わんばかりの早歩きで、目をやる事さえなかった。
小楠は真由の背中を「頼んだぞ」と小さく告げて押しやると、大きく息を吸い込んで、部下たちに指示した。
「連絡のあった少年の元に、三鬼たちを向かわせる! 急ぎ残りの少年たちを捜し出して保護にあたれ!」
直前まで佇んでいた男たちが、途端に慌ただしく動き出した。捜査の指示を確認する者、課内の人間と急いで連絡を取る者など、小楠を中心に各メンバーが集まって作戦会議も始まった。
真由はその様子を横目に、宮橋のもとに向かった。連絡先と住所の書かれたメモ用紙を受け取った彼の後ろ隣に立ったものの、直前に覚えてしまったピリピリとした緊張感を思い返して、すぐに声を掛けられなかった。
どうしよう。まだ、ピリピリしているのかな……?
すらりとした彼の背中を見て、真由は一人でおろおろと考えてしまう。これから向かうんですかと確認をしていいものなのか、それとも『質問はするな』『指示に従え』というルールを守って、彼からの言葉を待った方が良いのか悩んだ。
すると、視線に気付いたのか、彼が「ん?」とちょっと眉を顰めて、こちらを振り返ってきた。思わず反射的に身構えてしまった真由は、パチリと視線が合った一瞬後、拍子抜けして「あれ?」と声を上げてしまっていた。
こちらを見下ろした宮橋は、先程の拒絶するような厳しい雰囲気も消え失せていた。まるで、なんだ、と問うように器用に秀麗な片眉をつり上げて、いつもの小馬鹿にした表情を浮かべる。
「なんだ。アホ面を浮かべて」
「うわ~、相変わらず乙女に対して容赦がない一言ですね……」
真由は呆気に取られて、気遣う事も忘れて言葉を返していた。すると、彼がこちらに手を伸ばしてきて、驚く間もなく親指で眉間をぐりぐりとされた。
「ちょっ、痛いですよ宮橋さん! 乙女になんて事をするんですかッ」
「うん、いつもの君だな」
「うぎゃっ、ついでみたいに前髪までぐしゃぐしゃにしないでくださいよ!? 一体なんですか――」
自分よりも体温の高い指先が、おもむろに前髪を乱してきたので、真由はびっくりしつつもそう反論した。けれどその言葉は、続いた彼の次の台詞で途切れてしまっていた。
「だって、君はバカみたいに正直で、ずっと笑っているじゃないか。眉間に皺を浮かべたり、小難しそうな表情なんて似合わないぞ」
「へ?」
思わず見つめ返してしまったら、宮橋が「ははっ」と自然な様子で笑い、「どうやら君は童顔らしいな、前髪で隠していなかったら、子供みたいだ」と言う。
その笑顔こそ、到底三十六歳には見えないのですが……
真由は、呆気に取られて見上げていた。すると、彼が自信溢れる顔で「真由君」と口を開いた。
「行くぞ、君は今、僕のパートナーなんだからな。離れずに付いて来い」
どうしてか、不意打ちのように胸の中に熱いモノが込み上げで、真由は自分でもよく分からないまま、反射的に「はい!」と元気いっぱいに答えていた。