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竜の花嫁  作者: あまがみ


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東方竜臣という男

 碧緒が目を覚ましたとき、彼女は布団で寝ていた。初め、珍しく思考回路が繋がらず、碧緒はぼうっと天井を見ていた。


「たま姉!!」


 呼ばれて顔を傾けると、一姫の姿が映り込んだ。


「良かった……!」


 一姫は目に涙を浮かべながら碧緒を覗き込んでいる。碧緒は左右に頭を動かした。畳の床に、見知った家具が置かれている。碧緒の部屋に間違いなかった。

徐々に記憶が蘇ってきた。


「わたくし……一体……どうしてっ」


「たま姉っ!? 大丈夫!?」


 覚醒するのと同時に頭痛が襲った。碧緒が思わず表情をしかめると、一姫は大げさに心配してみせた。


「大丈夫よ……」


 口元に笑みを浮かべて答える。


「それより、どうして私はここに……?」


 生贄となって死んだはずだった。今頃は川の底にいるはずなのである。それなのになぜ、自分は自室で寝ているのか。碧緒には分からなかった。記憶は川の底で途絶えている。怖ろしいほど美しい、あの、白い川の底で。思い出すだけでもぞっと背筋が冷えた。


「本家の人たちが助けてくれたんだよ。儀式は中止だって。たま姉、犠牲にならなくてもいいんだよ」


 つ、と一筋の涙が一姫の頬を伝った。碧緒は咄嗟に右手を伸ばし、一姫の頬を伝う涙を指で拭いてやった。一姫は顔をくちゃくちゃにして、碧緒の手を両手で取った。冷えた碧緒の手には一姫の手が至極温かかった。


「良かった……良かったぁ……!」


 ぐずぐずと泣く一姫を、碧緒は上半身を起こして抱きしめた。一姫の腕が碧緒の背に回り、ぎゅっと力が入る。


「一姫……ありがとう」


 碧緒は谷に落ちる直前に見た一姫の姿を思い出していた。儀式に参加するはずのない一姫があの場にいた、それがどういうことかは把握できている。

碧緒は目を閉じた。涙が一粒、一姫の服の上に落ちた。一姫はきっと、己を犠牲にして自分のために奔走してくれたのだ。碧緒にはそれがたまらなく嬉しかった。


 一姫の濡れた音がずいぶん落ち着いてきた頃、碧緒は身体を離して一姫の頭を優しく撫でた。一姫は鼻をすすっているが、涙は止まったようだった。代わりに目が真っ赤に腫れている。碧緒はその姿を愛おしいと思った。


「一姫……本当にありがとう。本家の方も助けてくれたんですって? 一体どなたが助けてくださったの……こんな、私を」


 着物の袖で一姫の顔を拭く。一姫はしばらくすんすんと鳴いていたが、口を開いた。


「御当主様とくすべ様と銀竜様」


「えっ」


 碧緒は目を丸くした。東 くすべと角 銀竜が己を助けに来てくれたことは知っている。しかし……


「御当主様が……東方 竜臣様がいらっしゃったの?」


 東方一門を統べる東方家の当主、東方 竜臣が来たことは知らなかった。碧緒は次の言葉が見つからない程驚いた。東方家当主ともあろう者が、自分のような分家の三女のために来るとは思わなかったのである。


 それだけでも十分驚いたのに、碧緒は一姫の更なる言葉で完全に頭の中が真っ白になった。


「うん。川の中に落ちたたま姉を助けて……それで、もらうって言ってた」


 ぽかんと口を開けたまま、碧緒は固まった。すぐに口を閉じたが、意識が朦朧としていた時のように、

頭の中がはっきりしない。


「も、もらうって……」


「えと、結婚するって……ことだね」


 頬を赤らめて一姫。逆に碧緒は顔面蒼白になった。


「今、お父様のお部屋でお父様と話してると思う。もうじき終わるかもしれないけど」


 碧緒は布団の中から飛び出した。


「たま姉! まだ寝てなきゃ」


 一姫の静止の声を背後に聞きながら、小走りに廊下を歩いて、父、竜樹の部屋に向かった。途中、何人かの奉公人に出会ったが、皆碧緒には声をかけなかった。

碧緒は竜樹の部屋の前まで来ると、無礼を承知でそのまま引き戸を開けた。


「戸を開ける前に名乗れ。無作法なことはするな」


 迎えたのは竜樹一人であった。窓から入った赤い光を背景に、戸を開けて向き合う形に置かれた書斎机の向こうに座っている。洋風の室内に設けられた談話スペースにも人はいない。


「申し訳ありません、お父様。あの、御当主様は?」


「話が終わったので帰った」


 竜樹は淡々と答えた。相変わらず声には抑揚がない。


「ありがとうございます」


 礼をして、すぐさま部屋を去ろうとした。しかし、


「行くな」


 竜樹は碧緒を止めた。碧緒は竜樹を見た。


「行かなくていい。見送りも出していない」


 竜樹の青みがかった目が碧緒を鋭く刺す。碧緒はぐっと奥歯を噛みしめて頭を下げ、引き戸を閉めた。


 碧緒は考えながら廊下を歩いた。いろいろな疑問と葛藤が頭の中に浮かんでは、答えの出ないまま靄となって濃度を増していく。


 父が、足垂 竜樹が、行くなと言ったことが、彼女の足に枷をつけている。


 ギシギシと廊下の床板を踏みながら思案し、ふと頭を上げた。格子窓から外が見える。この廊下は正門側にあり、窓からは広い庭が見渡せ、正門も見えるようになっている。


 正門の近くに人影が見えた。碧緒は思わずぐっと顔を窓に近づけた。三人の人影をよく見る。右端の落ち着いた黒髪の背の高い男は東 くすべ、左端の黒短髪の体躯の良い男は角 銀竜。そして、真ん中の青みがかった黒髪を一つにまとめて長い編み込みをしている男が、東方 竜臣……。


 気がつくと碧緒は走り出していた。咄嗟に、玄関ではなく自室へ向かった。自室に飛び込んで窓から外に出ると、常時置いてある下駄をひっかけ、屋敷を飛び出した。そうしてそのまま裏庭を抜けて裏門から外に出て、正門に向かって走った。


 正門前ではちょうど竜臣が黒い車に乗り込むところだった。走ってやってきた碧緒に気づいた竜臣が動きを止め、赤い瞳を碧緒に向けた。


 碧緒は竜臣に近づき、口を開いたが、頭の中は真っ白になり、言おうと思っていた言葉は喉に詰まって出てこなかった。はくはくと口を開け閉めして、閉じる。自分の言葉を待つように、微動だにせず、じっと自分を見つめている竜臣の姿がたまらなかった。


 変わらぬ姿にじわりと涙が浮かんでくる。


 目元は涼しく、結ばれた唇は艶めいて、肌は陶器のように白く滑らか。煌々と輝く二粒の赤い目が美しく、それでいて、あの時よりも、鋭くなっていた。


 竜臣がいつまでも子どものままではないことに気づいた時、碧緒の胸がぎゅっと締めつけられた。


 自分はこの男に命を助けられたのだ。そう、碧緒は思った。


 碧緒は思わず膝を折ってその場にひれ伏そうとした。


「!」


 その碧緒の顎を竜臣の指先が掬い上げた。指先が丸く節々とした、骨張った指が碧緒の動作を止めている。


「簡単に頭を下げるな」


 驚いて目を大きくしている碧緒に、竜臣は言った。


「お前はこの俺、東方家当主の妻となる女だ。己を安くするな」


 それだけ言って竜臣は手を離し、車に乗り込んだ。車は竜臣が乗り込んだのとほぼ同時に発進し、足垂家を離れていった。


 碧緒はしばらく奥歯を噛みしめて小さくなっていく車を見送っていたが、耐えきれなくなってとうとう頭を深く下げて礼をした。


 食いしばった歯の隙間から空気が漏れる。きつく閉じた目からは涙がこぼれた。碧緒は心の中で何度も何度も、感謝の言葉を繰り返した。

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