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竜の花嫁  作者: あまがみ
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爆ぜる心を縛り、貌を成す

 ひとひらの蝶は、碧緒の視界の中にも飛んでいた。


 それを見つけた時、碧緒は至極驚いた。


 碧緒は結界の張られた車の中に座している。結界はやすやすと破れるものではない。生き物は当然、また、生きていないものをも阻む結界の中に、気がついたら黒い蝶が舞っていたのだ。驚くのも当然である。


 蝶はひらひらと碧緒の頭を周り、休むことなくはためいている。白い世界で蝶だけが色を持つ。


 思わず指を出すと、蝶はその左人差し指に止まって翅を休めた。美しい蝶だった。真っ黒な羽には七色に光る模様がある。けれども右半分だけしか翅を持っていない。


 碧緒は唇をきゅっと結んだ。


 式神だ。碧緒には誰のものなのか見当がつく。蝶を使いに使う、華のような人物のものだ。


 優雅で、美しく。浮世離れしていて、俗世の事にはまるで関心がない。碧緒の二番目の姉、蒼春の式神だった。普段は誰も知らない所に引っ込み、世間で起きることには我感ぜずという姿勢を崩さない蒼春も、今回ばかりは勝手が違っているらしい。


 胸の内から何かがこみ上げてきた。あの蒼春が気にかけてくれた。それだけで碧緒の心は満たされるようだった。


 碧緒がこみ上げてきた熱いものを飲み込んでいると、ふいに車が停まった。


 車が停まるのは儀式の場に着いた時だと聞かされていた碧緒は、とうとう来てしまったかと目を閉じた。次に車が動き出した時、碧緒は谷底へ落ちる。落ちてしまえば嵐のような川に飲み込まれ、青竜の贄となるのだ。


 絞っていた唇を開き、長く、息を吐いた。呼気が冷たい。


 二月の初めである。不思議と車の中で寒さは感じないが、きっと、川の中は凍るように冷たい。碧緒は今朝の井戸水を思い出した。刺すような感覚を。そうして考えた。冷たい水が、己の全身を刺す、その光景を。


 ぶるりと、碧緒の身体が震えた。


「あー、寒い」


 男の声である。


 車の正面で、両手をコートのポケットに突っ込んだ長身の男が、寒さでぶるぶると震えていた。華奢で線のように細い。髪はやや長いが、落ち着いた黒髪であった。


 男の背景に開けた土地が見える。森を半円状に切り出して作られた、この日のための儀式の場所だ。まだ地面が柔らかく湿っていて、シダやコケが生えている。


 もうすぐ木立を抜けるというところで男が現れたのだった。


「あんたら寒くないの?」


 男は眉を寄せ、車の四隅についている狩衣姿の男たちに問いかけた。


 黒いパンツをはき、紺色のPコートを着て革のブーツを履いている。浅葱色の狩衣を着て白い面をかぶり、牛車で娘を運んでいるこの状況では男の方が浮いて見えた。


 狩衣の男たちにとっては好ましくない来訪者だ。


「こんな寒いのにスカスカの服なんか着ちゃってさぁ。というか今時牛車って。牛いないけど。有り得ないんだけど」


 男は毒を吐くように感想を述べた。立て続けに、だっさ、と一言。


「なんなのあんたら。もうそういう時代は終わったの。そんなことしなくてもいいんだよ。書簡、出したでしょ。読んでないの? やめなよ。やめられない理由でもあるわけ?」


 形の良い眉を曲げて訝しげな顔をする。


「お定まりでありますれば」


 狩衣の男の一人が端的に答えた。


「はぁ?」


 その答えに対し、男は気に入らない、とでも言いたそうな顔をした。


「意味わかんない。何年続いていようがいらないものはいらないの。昔の人間の創ったルールにいつまで縛られるつもり? 時代とともにルールも変わっていくのが普通でしょうが。てか東方家当主がやめろって言ってんだからやめてよ。何? あんたら反逆でもしようとしてんの?」


 男たちを一瞥する。


「謀反を起こそうってんなら受けて立つけど? ねぇ、銀?」


「あぁ」


 男は挑戦的な顔をして男たちを睨み付けた。その横で、もう一人、男が彼に同意した。


 紺のキルティングコートを着て、青灰色のスラックスを脛あたりまである編み上げブーツに突っ込んでいる。背は紺のコートを着た男よりは小さいが、その代わり、服の上からでも分かるほど体つきが良い。髪は短い黒髪で、目じりの上がった精悍な顔つきをしていた。


「俺たちへの反抗は東方家への反逆とみなす」


 銀と呼ばれた男が鋭い目つきで男たちを威圧する。左手には、鞘に納めたままの刀を持っている。


 狩衣の男たちは黙ったまま答えようとしなかった。男はどこか得意げな顔をして笑った。


 すると、狩衣の男たちのうちの一人が悠然と歩み出て来た。車の一番後ろについていた男である。体つきは銀竜よりもどっしりとしていて、厚い胸を堂々と張っている。背は銀竜と同じくらいだが、体躯は男の方が良い。


 狩衣姿の男は被っていた白い面を取り、男に対峙した。


「何用だ、小僧。儀式の邪魔をするな」


 厳格という文字をそのまま顔に貼りつけたような、厳めしい顔をした男。足垂家現当主、足垂 竜樹であった。


 男は足垂当主の登場に、待っていたと言わんばかりの顔でにやりと笑った。


「どーも足垂御当主。書簡送っても返事がないからね、来ちゃったよ。儀式、やめる気ないの?」


 この男、礼儀というものを知らないらしい。足垂家当主を前にして物怖じするどころか、生意気な口を利く。しかし竜樹はいたって冷静だった。三十にも満たない若者の言葉にいちいち刺激される男ではない。


「ない。反逆、謀反、何とでも言え。これは千年以上前から続く、足垂の仕来りだ。部外者は黙っていろ」


 対して男はカチンときたらしく、頬をぴくりと動かした。


「部外者ぁ? 俺の言葉は東方家当主の言葉だよ? 分家の足垂が何言ってんの?」


「足垂の人間でなければ部外者だ。東方家当主と言えどもな」


「そんな排他的だから足垂は古臭いとか言われるんだよ。何? そんなにやりたいの? 殺したいわけ? こうして新しい道まで作ってさぁ、頭おかしいんじゃないの?」


 男が言っているのは、牛車が通ってきた道の事である。


 この道は昨日まではなかった。車が進むと共に出来上がった道だ。驚くべきことに、狩衣の男たちは行く手を阻む木を倒しながら進んできたのである。男の後ろにある広場も、先ほど拵えたばかりだった。


 何者かの邪魔が入ることを仮定し、儀式を無事に行うために講じた策である。


「無駄に強い結界も張ってあったしね。ま、俺には簡単に破れたけど」


 半径五百メートルといったところだろうか。広範囲に渡って、強い結界が張られている。その結界も儀式を滞りなく遂行させるため、何者かの侵入を防ぐために張られたものだった。


「そこまでして人殺したいとかほんと意味分かんない。ねー、中の人―。あんたの父さんどうしたってあんたを殺したいらしいよー」


 男は竜樹の後ろを覗き込むようにして車を見た。けれども車は沈黙している。


「……聞こえないようにしてあるんだね」


 男はちっと舌打ちした。


「あぁほんと気持ち悪い。俺こういうの苦手。頭の固い老害ほんと苦手」


 竜樹の表情を伺いながら言うが、竜樹は表情を崩さない。男は口の中で小さく舌打ちした。


「いいからやめさせてよ。このまま無視するなら、東方家は足垂を東方一門から除名するよ」


「したければすれば良い。我ら足垂、東より西で生きよう」


 男は大きなため息を吐いた。


「ほんと何なの。ここまで言ってもやめないわけ? ほんとに除名するよ? うちの当主がそういう人間って知ってるでしょ?」


「好きにすれば良い」


「あー、もう!」


 男はだんだんと足を踏み鳴らした。


「ほんっとムカつく!! なんであんたらはそんなに頭が固いの!?」


「話は終わりか小僧。もう話すことがないのなら、我らは儀式に戻らせてもらう」


 竜樹は冷静に言い放ち、車に向かって手を振った。


 ごとり、と車が動き始める。するとシュンッと宙を切り裂く音がして、車の前に何かが突き刺さった。


「!?」


 狩衣の男たちが驚いて立ち止まる。車も同時に停まった。


 地面に三本の矢が突き刺さっていた。矢の出どころは分からない。葉が影を落とし、木々が格子のように姿を隠している。


 男がにやりと嗤う。


「何人かに弓で狙わせてる。東方家お抱えの妖滅部隊の弓だ」


 男はねめつけるように竜樹を見た。


「動けば、射抜く」


 低く、発する。


 しかし竜樹は平然としていた。何人かに四方八方から狙われていると聞かされても、少しも表情を崩さない。


「なら、射抜いてみせろ」


 竜樹が言うと、合図もしないのに二人の男がその場を離れた。姿があっという間に森の中に消える。


 周りから何かが葉を叩く音や、木を打つ騒がしい音が聞こえてくる。何者かが何者かを追っている。音だけではどちらがどうとは言えない。ただ、周りを囲むように、いたるところから音が聞こえてくるだけだ。


「飛んで来んようだな」


 ぼそりと竜樹が言う。男は小さく舌打ちした。


「はいはい。あんたは何としてでもこれをやりたいわけね。じゃ、俺は何としてでも臣の命を果たすから」


 男はコートのポケットから右手を出した。その指先に、四角い紙が挟まれている。


「避けないと怪我するよ」


 指に挟んだ紙を竜樹の前に突き出す。


 白い仮面を被った狩衣の男が男と竜樹の間に入ろうとしたが、銀竜が鞘に納めたままの刀を突き出したため、行く手を阻まれた。狩衣の男は姿勢を低くして、構える。銀竜は刀を鞘に納めたまま、仮面の男を威圧する。


「あんたとそいつじゃ、俺たちには勝てないよ……」


 銀竜が腰を低くして構えた。刀の柄に手をかける。男も紙の後ろに手を当てた。


「お前は勝つつもりなのか」


 一方竜樹は腕を組み、悠然とした態度で男を見た。


「たった一人で勝つつもりか」


 男が眉をピクリと動かす。


「甘く見るなよ。お前一人で勝てる程、俺は安くない」


 男は答えない。


「その人形、目障りだ」


 竜樹はついと銀竜に顎を向ける。


 男は数秒後、ため息を吐いて紙を持っていない左手を銀竜に向けた。すると銀竜の姿がぱっと消え、一枚の紙片に変わり、すうっと飛んで男の掌の中に収まった。


「弓兵も人形だろう。付け焼刃にしては良く整えたな」


 ちらと竜樹が車の方に切れ長の目を向ける。


 車の前、三本の矢が刺さっていたところには三本の枝が刺さっていた。


「あーあ。やっぱ気づかれるか」


 男ははぁぁと大げさにため息を吐いてみせた。


「やっぱ足垂当主なだけあるね。いつ気づいたの? 初めから?」


「喋り過ぎだ。いくらお前でもそれだけ喋ると時間稼ぎと勘付かれるぞ」


「ちっ。やりにくいなぁ」


 男はふぅ、と息を吐いた。


 人形を使って弓兵がいるように見せかけたのも、優秀な同僚の姿を模した人形を用意したのも、すべては一人でこの場を繋ぐためだった。それだけではいくらも稼げないので、不自然にならない程度にいつもよりおしゃべりな自分を演じていたつもりだったのだが、見透かされてしまったわけである。


 男は竜樹に向き直った。


「んじゃここからは露骨に時間稼ぎさせてもらうよ。いくら俺でもあんた一人と雑魚三人相手はきついからね。ま、今は雑魚一人だけど……」


 言って男はにやりと笑い、構えていた紙片に左手の人差し指を当てた。


「バク!」


 男が叫ぶと木々の間を繋ぐように紙の帯が現れ、瞬く間に辺りを取り囲んでいった。男、竜樹、そして車を含んだ直径五メートルほどにドーム型の空間が出来上がった。


 男は右手を伸ばして自分の後ろにある紙の帯に後ろ手で紙札を貼った。紙札に書かれていた縛の文字から墨が溶け出し、紙の帯に模様のような文字を描いていく。


 結界の中の者を閉じ込める、男の術である。外からの攻撃を弾き、中からの攻撃も弾く。


「俺の結界はそうやすやすと破れないよ。あいつらは、入れない」


 楽しそうににやりと笑う。


 竜樹は答えた。


「甘く見るなと言ったろう」


 やはり、鷹揚な態度である。


 その態度に不信感を覚える前に、男は気配を感じて顔を上げた。


 左右の木の上に、先ほど人形を追いかけて木々の中に消えていった仮面の男たちが立っていた。


 ぞっとした。男の予定では、二人の仮面の男たちは人形を追って結界の外まで出ているはずだったのである。


「遠くへは行くなと言い聞かせてある。お前らの務めは車を谷まで届けることだとな。それ以外の何ものでもない」


 男は思わず口の端をひくつかせた。


「う、わ人形より人形っぽいねあんたの部下」


 あまりの徹底ぶりに怖れと共に感嘆する。東方家の妖滅部隊でさえ、こんな教育はされていない。半径五メートルだ。普通、逃げる者を追いかけていたらその距離からは離れる。いくら離れるなと言われていたとしてもだ。男は竜樹という男の怖ろしさを体感した。自分以外を意のままに操るというのはこういうことなのだ。


「ほんとこういうの嫌いだわ」


 男はコートのポケットに手を突っ込み、取り出しざまに指に挟んだ紙片を四方に投げた。紙片は竜樹、それから三人の狩衣の男めがけて飛んでいく。木の上の男たちが短刀を構え、車の横にいた仮面の男が竜樹の前に出て短刀で紙片を真っ二つに切り裂いた。


「バク!」


 男が叫んだ途端に「爆」と書かれた紙片が強烈な破裂音を立てて爆発した。


「!?」


 各々が驚きの声を上げる。竜樹をかばった仮面の男は、さらに身を挺して竜樹を爆炎から守った。


 男たちの視界が白煙に包まれる。その真白な煙の中に、煙とは違う白がちらついた。


 紙片だ。紙片が白煙に紛れている。「貌」と書かれた小さな四角い紙片は男たちの目の前でくるりと回って形を変え、白い狩衣を着た人の形となり、長刀で男たちに襲い掛かった。


「くっ!」


 おおよそ紙とは思えない強度の長刀が、男たちの短刀と交差する。中には完全な不意を突かれて一太刀を受ける者もいた。


「やっぱり人形は人形同士、相手してる方が良いよね」


「俺の部下はお前の人形程、芸のないやつらではない」


 白煙の向こうから竜樹の声がする。


「そうかな? 俺の人形はそのあたりの雑魚よりよっぽど多才だけどね」


 ちょうど白煙が晴れたころ、視界が開けた狩衣の男たちがそれぞれ人形を切りつけた。すると仮面のように人形の顔の辺りに下がっていた「貌」と書かれた紙が切れ、下から「縛」の文字が現れた。その瞬間、人形の背から無数の長い紙が現れ、狩衣の男たちの身体に巻き付いた。虚を突かれた男たちは紙に絡み取られ、身動きが出来なくなった。


「ほらね」


 満足そうに笑う。


「無駄に場数を踏んでいるわけではないようだな。東の能無し坊主にしては上出来じゃないか」


「はぁ? 誰が能無しだってぇ?」


 男は露骨に苛立った顔をした。


「お前たち東の名を持つ奴らは、東方一門を担っていたかつての姿に甘んじている。名だけで満足し、ろくに修練を積まぬ未熟な者ばかりだ」


 男は煙の隙間から陽炎のように漂って見える竜樹の影を睨んだ。


「あの馬鹿どもと一緒にしないでよ。俺は彼奴らとは違う……!」


「あぁ。そこは認めてやろう」


 白煙が流され、竜樹の姿が見えた。


「だが、足りんぞ」


 竜樹は左手に広げた巻物を持ち、右手で印を結んでいた。


「!?」


 男がしまったと思ったときにはもう遅かった。


 瞬く間に巻物から長いものが飛び出し、男の腹に食いついた。男は衝撃に胃と肺を潰され、ぐぅ、と口の端から声を漏らした。男の腹に食いついたそれは、そのままの勢いで男を宙に浚い、結界に叩きつけた。


「がはっ」


 男は耐えかねて空気を一気に吐き出した。自由な手を、自分の腹に食いついているものに伸ばす。


 寒空の下で冷えた己の手よりもさらに冷たく、濡れた氷のようなつるりとした感覚。規則的な編み目模様の長い体は青白く、両脇についた赤い目はギラギラ光っている。


 白い大蛇。まだ巻物の中に身体を残しているぐらい大きい。


 大蛇は結界に阻まれていることもお構いなしに男の身体を強く押し続けた。結界は男が磔になっているところから同心円状の波を作り、波紋のように歪んでいる。大蛇と結界に挟まれ、男の身体が音を立てて軋む。口の端から漏れる声は徐々に小さくなっており、今にも潰れそうだった。


 と、突然するりと男の身体が見えない壁を通り超えた。大蛇が凄まじい速さで飛び出していく。


 結界が破れた。


 男は結界を張っていた長い紙を纏い、宙を切っていく。


 大蛇が無造作に男を放し、ふっと姿を消した。男は地面に叩きつけられ、跳ね返って地面を転がった。


「がっげほ、ごほっ」


 のどに詰まった唾を吐き、ゆっくりと身体を起こす。息を吸うと胸が痛んだ。肋骨が折れているのかもしれなかった。


 どん、男は地面を拳で叩き、顔を上げて竜樹を見た。


 悠々と結界を脱した竜樹は、男なぞには目もくれず、車の隣について歩を進めていた。その視界もすぐに阻まれてしまった。狩衣の男たちが男を囲んだのである。


 めら、と男の腹が煮えた。


 立膝をつき、地面を手で押した反動と己の劇によって、立ち上がる。ふらつきはしたが、男は二本の足でしっかり立った。狩衣の男たちは立ち上がった男に対して多少距離を測り直したが、携えた短刀を構えようとはしなかった。


「……ほんっと、ムカつくわ」


 長い前髪の間からギラリと目を光らせて吐き捨てた。その目は狩衣の男たちの並ぶ隙間から見える竜樹に向けられている。


 男は紙片を取り出すと細かくちぎり始めた。今まで流暢に動かしていた口も動かさず、淡々と紙を破る音だけを響かせる。狩衣の男たちは警戒して短刀を構えたが、皆切りかかろうとはしなかった。男の取る行動を訝しんでいる。


 通常、呪を使うにはある程度の大きさの紙がいる。用途によって、また、使う術者によって変わるが、文字が書ける程度は必要になってくる。男がするように細かくちぎってしまっては何の意味もないはずなのだ。


 しばらくして男の手が止まった。男は狩衣の男たちをねめつけた。


「お前ら、その辺の奴よりは優秀なんでしょ? じゃぁさ、百人抜きでもしててよ」


 手を上げて紙を宙に放る。風に舞った紙はくるくるりと回転しながら男の周りを落ちていく。


「バク、轟々!」


 男が突き出した手の右人差し指と中指を立てて叫ぶと、それぞれの紙くずが人形に姿を変えて地面に降り立った。ざっと数えて五十余り。「貌」と書かれた紙を、人でいう顔の前で垂らした人形たちが、各々武器を携えて男の周りに現れた。


 狩衣の男たちは驚いた。あれほど細かくした紙に呪をかけて使うことが出来ることもそうだが、これほどまでの量の人形を扱うことのできる人物を知らなかったのである。それでも男たちがひるんだのは一瞬だった。皆、すぐに地面を蹴って、人形に切りかかっていった。


 量が多くなるほど一体一体の精度は落ちる。現に切り捨てるのは容易かった。木立の中で戦った人形とは違って動きがのろく、そして、脆かった。一太刀で人形は崩れる。懐に潜り込み、腕を払うだけで良い。人形は無抵抗も同意である。早々にかたがつくだろうと思われた。


 油断があったからだろう。男たちはなかなか気がつかなかった。人形をひとしきり切り刻んでから、そのおかしさに気づいた。いっこうに数が減らないのだ。そればかりか増えているようであった。いつの間にか辺り一面に人形が群れている。


 おかしい、思いながらも男たちは人形を切った。


「切るな! 増えるぞ!」


 一人が叫んだ。切りかかろうとしていた一人が手を止め、人形から少し距離を取った。もう一人はちょうど切りかかったところだったので止むを得ず人形を切り捨て、同じく距離を取った。


 切り捨てた人形は二枚に分かれ、小さな紙片に変わり、ひらひらと地面に落ちた。すると紙片は地面に着くや否や息を吹き返したようにそれぞれが人形に早変わりした。


「なんという呪だ……!」


 たまらず一人が声を漏らした。


 男たちは短刀をむやみに振るうのを止めた。しかし、人形は構わず襲い掛かって来る。


 数に圧倒され、致し方なく、切る。すると、人形は増える。


 脆いので切りやすいのだが、切ると増える。一体切れば二体。二体切れば四体……。切るのを止めても襲い掛かって来るので切らざるを得ない。切っては増え、切っては増えを繰り返している。こちらも呪をかけようにも、数が多すぎてそれどころではない。半永久的に、人形を切らざるを得ない。


「つっ……!」


 ぞっとした。目の前が人形の白に染まっている。隙はない。


 下手に強い妖物よりも、よっぽど恐ろしい。


「……さすがだ」


「さすがは東 くすべ……」


「御当主の右腕の名は伊達ではない……」


 たまらず漏らし、男たちは一心不乱に短刀を振り続けた。


 さすがの竜樹もこれには反応した。車について歩きながら、増え続ける人形を見て目を細める。


「!」


 竜樹の足に何かが巻き付いて行く手を阻んだ。左足首に、呪いが書き込まれた細く長い紙が巻き付いている。いつの間にか車の車輪にも紙が巻き付いており、車は、ぎ、ぎ、と音を立てて動けずにいた。


 大蛇が結界を破った時にくすべが背にひいていた紙だ。紙の先は……くすべが腕に絡ませている。


「捕まえた」


 くすべは静かに言った。


 大蛇に結界を破られる前に自ら結界を解き、縛りの呪いのかかった紙をわざと地面に残したのである。


「場慣れしているようだな」


 竜樹は冷静だった。


「また一つ、認めてやろう。お前は確かに東のろくでなし共とは違う。だがな、まだ足りん」


 竜樹は懐に手を入れ、そこから木でできた短刀を取り出した。柄が見えた瞬間、


「バク!!」


 くすべは叫んだ。すると竜樹の懐が突然膨れ上がり、凄まじい音を立てて爆発した。


 大きな爆発音が炸裂した。びりびりと空気が震え、耳だけでなく全身を叩いた。もうもうと黒い煙が上がり、焦げ臭いにおいが鼻をついた。


「竜樹様!!」


 くすべの背後で男の声がしたが、男たちには竜樹を助けに行く余裕はない。


「俺に何が足りないわけ?」


 顎を上げ、にぃ、と口角を上げた。


 黒煙が晴れると上半身をあらわにした竜樹が片膝をついていた。腹から胸の辺りが赤くただれており、膝をついている位置も立っていた時よりだいぶ後退している。


「でかい蛇に仕込んでおいたんだ。さすがに避けらんないでしょ?」


 白い大蛇に触った時、顎の下あたりに『爆』と書いた紙札を貼っておいたのだった。強い式は外に出しておくだけでも力を使う。早々に戻すと踏んだくすべは、大蛇に仕掛けをした。竜樹はそうと知らずに大蛇を戻したため、懐で大蛇の封印された巻物が爆発したのである。


「小僧……」


 竜樹の瞳が青く光る。


 鼓膜は破れているだろう。皮膚はただれ、肋骨も何本か折れているだろう。きっと指一本動かすのですら辛いはずだ。それでも竜樹は倒れなかった。鋭い瞳でくすべを睨み付けている。


「……タフなジジイ。けど、さすがにもう、詰みだよ。爆発したのはでかい蛇が封印されてた巻物。この意味、分かるでしょ?」


 ふいに竜樹の背に冷気が這った。


 空気が、重く、冷たく、凝っていく。


 冷気をはらんだ空気が、竜樹の周りを囲っていた。


 ずるりと、何か、太いものが地を這う音が聞こえた。


 生臭く、湿った呼気が竜樹の耳にかかった。


 竜樹の周りに凝っていた空気がぬめりと白く光る。


「ぐっ……!」


 次の瞬間にはもう、大人がやっと抱えられるくらいの太さの長い胴体が竜樹を締め付けていた。


 白い大蛇が鎌首をもたげ、赤い舌をちろちろと竜樹の前で震わせている。白くにごった赤い目に竜樹が映りこんでいる。


「契約を示すものが破損したとき、式は一時的に凶暴化する……」


 式は契約を示すものがなくなっても契約が破棄されることはない。しかし、封印の解かれた式は一時的に我を失い、ただの妖物に戻ってしまう。それが強い妖物であればあるほど強くあらわれる傾向にあり、また、知性の有無によっても変わった。


 竜樹の式は一目見て分かるほどに強い。普通、妖物の強さは体の大きさに比例するものだ。


「だから式って嫌いなんだよね」


 竜樹を縛り上げ、頭から食らいつこうとしている大蛇を見上げながら、くすべは呟いた。


 大蛇の目にはもう、主の姿は映っていない。


「くっ」


 竜樹は身をよじって何とか右手を出した。そして、頭から食われる直前、持っていた短刀を投げた。短刀は車輪に巻き付いていた紙を割いて地面に刺さった。


 ごくん、と竜樹が飲み込まれる。


 車がごとり、と動き始める。


「うっそ、最悪っ」


 くすべは驚いて地面を蹴った。胸の痛みに思わず顔をしかめる。


 谷と車の間には二十メートルほどしかない。車とくすべの距離は十メートルほどである。助け出す時間も考えるとぎりぎり間に合うかどうかというところだ。


 間に合え、と心の中で叫んだ。


 そのくすべの前を、疾風のごとき速さで何かが過ぎ去っていった。


「遅くなった」


 残った風の中から男の声がした。良く知った声に、くすべは口角を上げた。


「遅すぎ……銀!」


 右手に打刀を握り、紺のキルティングコートを着て、青灰色のスラックスを脛あたりまである編み上げブーツに突っ込んでいる、体躯の良い男。


 角 銀竜だ。東 くすべと並んで、当主東方 竜臣の左右腕が一人である。


 銀竜は風のようにあっという間に車に近づくと刀を抜いて切りかかった。


「む!?」


 切り捨てようとしたが、結界に跳ね返されてしまった。


「ふう」


 崩した体制を一旦整え、銀竜は低く腰を落とした。車は止まらずに走っていく。


 刀を鞘に戻し、左手で鞘を掴み、右手を柄に添える。


 一呼吸。


 ぐっと力を込めたつま先が、一歩、二歩と地面を蹴る。地面を蹴る感覚が短くなり、加速する。瞬く間に再び車に近づいた。


 銀竜の身体が浮いた。


 身体が左によじれる。


「東の一刀流……」


 柄を掴んだ手に青筋が浮き、青みを帯びた目がギラリと光った。


「牡丹!!」


 一閃。


 勢いよく引き抜かれた刀身が結界を破り、真横にバッサリと車を切り裂いた。


「バカ!! 女の首も切れたらどうすんだ!!」


 くすべが叫んだ。


「む、そうか……」


 銀竜はしまったという顔をした。


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