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竜の花嫁  作者: あまがみ
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青竜の生贄

 水を被ると頭が冴えた。


 屋敷の裏手、家人しか出入りできない裏戸から出たところで、足垂 碧緒は禊をしている。


 今日から春だと言われても、季節は突然変わらない。相変わらず気温は低く、水は冷たい。とりわけ早朝の井戸水は凍っていないのが不思議なくらいで、痛みを感じるほどだった。


 毎年、いや、この時期なら毎日のことだった。碧緒は物心つく前から夜も明けきらぬ時間に起きてはこうして身を清めてきた。ただの一度も酷だと思ったことはない。ついに碧緒は最後の最後まで、苦行だとは思わなかった。使命を全うしたような気分であった。


 けれども少しも達成感はなかった。ただ肩の荷が降りたような気持ちと、胸にぽっかり穴の開いたような喪失感がある。


 自分の頬を井戸水とは違うものが伝っていることに気づき、碧緒は思わず笑んだ。そうしてそっと白み始めた空を見上げて息を吐いた。空気が白くけぶる。


 こんなにも名残惜しいとは思いもしなかった。けれどももう、遅い。


 碧緒はもう一度体に井戸水を掛けた。肺がぎゅっと締め付けられるような感覚がして、思わず漏れた吐息は空気に溶けて見えなかった。


 もう一度空を見上げ、目をつぶった。今日で何もかもが終わる。


 数秒、のち。碧緒は立ち上がり、白装束から水を滴らせながら歩を進めた。後ろからそろそろと浅葱色の狩衣を着た男がついてくる。男は顔に白くのっぺりとした面をつけていた。大方碧緒が逃げ出さないように用意された見張りなのだろう。


 心配せずとも逃げはしない。そう思うがどこか無性に走り出したい気持ちになりながら、碧緒は来るよう言われた場所へ向かった。


 糸毛車が用意されていた。浅葱色の絹糸で屋形の屋根から腰に掛けて覆い、その下に房を垂らしている。絹糸の上には銀で足垂の家紋を飾ってあった。軛には何も繋がれていないが、碧緒の後をついてくる男と同じように浅葱色の狩衣を着て、目の部分だけをくりぬいた真っ白の面をした男が脇に控えている。


 碧緒が車の前に立つと、男は簾を持ち上げた。


 この車に乗れば、二度と帰って来られない。碧緒の頭の中で誰かが叫んだ。身体が躊躇して固くなる。重くなる。けれどももう、遅いのだ。


 重たい身体を持ち上げて箱の中に入ると、ぎぃ、と車が軋んだ。人の重さで車がいくらか上体を低くする。


 箱の中は無数の和紙の短冊が覆っていた。碧緒は這うようにして進み、真っ白な床に正座した。髪や身体から滴る水で和紙が湿っていく。


 水を得た和紙が縮れる。じわりじわりと水が染みこむにつれて動く様は獣の腹の中のようで、碧緒は思わず目を閉じた。


 足の下で、和紙がもぞもぞと動く気配がする。呪いを扱う家、陰陽師と呼ばれる家の車である。何かの呪いがかかっているらしかった。


 碧緒はびくりと身体を震わせた。和紙が尺取虫のように碧緒の身体に這いあがってきたのである。が、目を閉じたまま抵抗しなかった。和紙が両足首を回り、両手首を回り、順番にゆるゆると締め上げていく。人を括り付けるための呪いだった。


 和紙が碧緒の細い首に回った。ついに碧緒は蜘蛛の巣に捉えられた蝶のように、全身を車に繋がれてしまった。


 ぎぃ、と、輪が動き出した。


 何も引かないのに、車がひとりでに動いていく。


 白い面をつけた四人の男が車を囲って歩きはじめる。


 輪がくるくると回る。


 夜明けの山を登っていく。


 山を登った先は、冷たい川の底だ。


 これから足垂 碧緒は四神青竜への生贄となって生きたまま川に沈められる。それが碧緒の最後の使命であった。


 この任が下ったのは、年を明けてから十日あまり経ったころだった。


 月のない夜。この日、ようやく三日間に渡って行われていた話し合いに終止符が打たれた。足垂家はここのところ、ある儀式についての話し合いを行っていた。当主と、今は前線を離れはしたが、まだ現役の元老たちで、主役となるべき娘を選んでいたのである。


 話し合いの結果呼び出されたのは碧緒だった。


「任が降りた。供物となれ」


 当主足垂 竜樹は対峙した碧緒に抑揚のない声で言った。


 腕を浅葱色の着物の袖に通し、藍の羽織を着ていた。足垂当主の正装である。竜樹は五十半ばの男だ。髪は灰色で短い。真一文字に結んだ唇の端や、鋭く光る目の端にはしわがある。見た目通り厳格な男なのだが、この日はいつにも増して声に表情がなく、また、その顔にも同様に表情がなかった。


「謹んで、お受けいたします」


 碧緒は頭を下げて答えた。紺碧の着物に包まれた背で、波打つ長髪が引く。顔を上げた口の端には微笑をたたえ、頬にも色が差していた。艶やかな髪と、きめ細かな肌が生き生きとした印象を与える。歳は十六になる。


 親子の対面にしては、妙に堅苦しかった。


 選ばれたのは、足垂家の三女、碧緒であった。特に秀でた才はないが、何事にも劣っているとは言えない、実に器用な娘である。器量も良い。それでいて、あまり目立たぬ姫であった。

 

 儀式にはそういう娘が最適だった。


「この件は他言無用だ。明日から準備を整えよ」


 竜樹は淡々と述べ、下がって良いと結んだ。


「かしこまりました」


 碧緒も揚々とした声で答えて静々と下がった。


 非常に淡泊だった。父竜樹は普段会話するときと何も変わらなかったし、碧緒もそうだった。


 碧緒に下った任は、東方一門に力を貸している妖物、青竜の供物となること……つまり、生贄となって死ぬことであった。碧緒は実の父親に、生贄として選ばれたのである。


 その時はそういうことかと納得して部屋に戻った。それなのに今では、至極、命が惜しい。


 碧緒は固く目をつぶった。首を括られているせいか、息苦しい。緩まらないだろうかと首を掻いてみたら紙はさらにきつくなった。


 瞬間、碧緒は、あぁ逃げられないと、初めて、絶望の淵に追いやられた。呼吸が、震える。


 車は足垂の屋敷が建っている山の中を進んでいる。輪は一寸の狂いもなく回っている。これだけのために作られた道を、ころころ軽快な音を立てながら進んでいくのだ。


 黒々とした木々の立つ木立を抜ければ草原に出る。その先は、雪解け水で溢れ、ごうごうと激しい音を立てて流れる川の谷だ。車はそこに向かっている。


 戻りはしない。停まりもしない。


 車は木立を割いて、山を登っていく。


 輪がくるくると回る。


 白い面をつけた四人の男が車を囲んで歩いている。


 何も引くものがいない車が……停まった。


 ぎぃ、輪が音を立てる。


「どうされました」


 車の左前について歩いていた男が声を出した。抑揚のない声だった。


「どうされました、一姫様」


 今度は右前の男が問う。二人は、車の前に立ちはだかった、浅葱色の狩衣を着た娘に問うていた。


 影の下であっても、艶やかに輝く長い黒髪が印象的な娘だった。大きな目は灰色で、きゅっと引き結ばれた唇は白い肌にほんのりと柔らかな桃色を灯している。派手な顔ではないが、可愛らしい。大きく開いた両腕は、狩衣に包まれていても華奢であることが分かった。


 碧緒の妹、足垂 一姫である。


「たま姉を放して。こんなことやめて」


 一姫は震える声で訴えた。


「どうしてたま姉が死ななきゃいけないの……おかしいって思うでしょう? ねぇ、やめてよこんなこと……」


「死ぬのではありません」


「死ぬのではありません、青竜様の贄となるのです」


 左、右と、男は順番に答える。一姫が相応の覚悟で儀式を止めに来たことは分かっているだろうに、男たちは淡々としている。まるで何も感じていないように。


 一姫は眉間にしわを寄せた。


「贄って……あなたたち、どういう意味か分かっているでしょう? 結局死ぬんじゃない」


「死ぬのではありません」


「死ぬのではありません、青竜様の花嫁となるのです」


 頭にカッと血が上った。


「花嫁なんて言わないで! そんな幸せなものじゃない!」


「碧緒様はお幸せです」


「碧緒様はお幸せです、青竜様のために身を捧げられるのですから」


「やめて! 幸せなはずがない!」


 頭を左右に振って否定する。


「あなたたちはたま姉の気持ちが分からないの……? 一人、死んでいく……たま姉の気持ちが分からないの……? たま姉は笑顔で返事をしたようだけれど、嬉しいわけがないでしょう。死ねって……父親に死ねって言われて、喜ぶ娘がどこにいるの……」


 一姫の目に涙がたまっていく。


「お父様もお父様だよ……。どうして、たま姉が犠牲にならなくちゃいけないの? こんな儀式、やめにしてしまえばいいじゃない。ねぇ、そう思うでしょう? こだわる必要ないって、そう思うでしょう?」


 懇願するように、一姫は面から覗く男たちの目を見た。けれども男たちの目は、木の洞のように虚ろだった。


「これは使命なのです」


「これは使命なのです、足垂家に課せられた使命なのです」


「もういい!」


 機械的に繰り返す二人に、遂に一姫は激高した。このまま会話を続けていてもどうにもならなかった。説得は諦めなければならなかった。


「たま姉を放して!」


 一姫は車に歩み寄ろうとした。


「なりません」


「なりません、一姫様」


 左右の男が持っていた錫杖を交差して行く手を阻む。一姫は後すさったが、引かなかった。意志の強い瞳で、面から覗く二人の目を見た。

 

「あなたたちがどうしてもたま姉を放さないのなら、奪ってみせる!」


 その、一姫の灰色の目が、金色に光った。


 それと同時に一姫の足元から風が巻き起った。真っ黒な長い髪が踊るように宙を舞い、狩衣の袂が暴れる。


 風と共に一匹の白鼬が一姫の足元から体を回って肩に乗った。と思った次の瞬間、強い風が一姫から男たちに向かって吹いた。


 二人の男が強い風にひるんでたじろいでいる隙をついて、風が抜ける。まるで意思を持っているかのように、空気の塊が屋形目指して飛んでいった。


 バチンッ。しかし、屋形が凄まじい音を立てて風をはじき返した。はじかれた風は屋形をぐるりと一周し、四人の男たちの腹に鋭い刃のような風を投げつけた。車の後方についていた二人の男の身体が真っ二つに切れ、前方の男たち二人が飛ばされる。


 風が屋形の上でわだかまった。みしりと、空気の塊に押された車が音を立てる。何か重量のあるものが乗った音だった。


 車の上に、牛ほどの大きさの鼬が乗っていた。全身真白の毛をしており、目だけが黒い。尾は長く、鎌になっていて、ゆうらりと揺れている。鎌鼬だ。


「なんと大きな……!」


 初めて、左の男が人間らしい驚きの声を上げた。


 鎌鼬が左の男に目を合わせる。


「左の! 後ろだ!」


 右の男が叫んだが、左の男が振り返った時にはもう遅かった。腹に一撃を食らい、左の男の視界が暗くなっていく。彼の目に最後に映ったのは、白い面をし、黒衣に身を包む得体の知れない人物であった。


 黒衣の人物は左の男を落とすと右の男に向かっていった。男は錫杖を地に突き立て、言葉を紡ぐ。すると男の周りに空気のゆがみが生まれた。結界だ。黒衣の人物はそれと気づかず突進し、強く弾き飛ばされた。しかし、体制を整えて着地すると、そのまま流れるように木立の闇に姿を消した。見事な奇襲であった。


「一姫様の加勢ですか」


 右の男も一姫が一人でやってきたとは思わなかった。しかし、これほどまでの手練れを連れてくるとは思いもしなかった。一姫は特に才覚のない、足垂の末の娘である。特殊な性質を持つ稀有な存在だが、それだけのことだった。


「こんなことをして、無事ではすみませんよ、一姫様」


 闇を警戒しながら一姫を見ると、一姫は屋形の簾に手をかけようとしているところだった。屋形には結界が張ってあるが、一姫の前では無意味である。男は眉間にしわを寄せた。

 

「よく、準備を整えられたようですねぇ……」


 男は指に何枚かの紙を挟み、一姫に向かって駆け出した。それを鎌鼬の風が阻む。紙がびりびりに破れて宙を舞った。男の身体も一姫に届くことなく、空に踊る。


 と、


「ぎゃおんっ」


 獣の叫び声が聞こえた。


 風が止む。


 屋形が暴れ出し、一姫はあと少しで触れられたというところで投げ出された。


 一姫が驚いて顔を上げると、鎌鼬が屋形の上でのたうち回っていた。身体に無数の紙が貼り付いている。紙は顔にも張り付いており、鎌鼬は口と鼻を覆う紙を外そうと前足で掻きむしっていた。大きなしっぽがぶおん、ぶおん、と屋形の前で行ったり来たりする。これでは近づけなかった。


「落ち着いて、白銀…!」


 白銀と呼ばれた鎌鼬が黒い目を一姫に向け、ごうっと音を立てて消えた。紙片が舞い、白銀の重みでなんとか耐えていた車がバランスを崩す。


 車が一姫めがけて倒れて来た。


「きゃぁっ!」


「一!」


 木立の隙間から焦燥に駆られた声が飛んできた。娘の声だ。


 闇が飛び出す。


 男はそれを見逃さなかった。呪いを唱え、無防備に現れた闇、黒衣の人物に札を投げつける。黒衣の人物は札に気づいたが避けられなかった。札が張り付き、鉛のように体が重くなってがくんと体が下がった。


 黒衣の人物はバランスを崩しはしたが、何とか受け身を取った。しかし、体が重くて立ち上がれない。地面に押さえつけられているようだった。


 しまったと、黒衣の人物は顔を上げた。一姫はなんとか飛び退いており、難を逃れたようだった。ほっとしたが、落ち着いてはいられない。男が迫ってきていた。


 男が錫杖を振り上げる。黒衣の人物は腰の短刀を抜いたが、体が鈍い。間に合いそうになかった。


 黒衣の人物には男の動きが遅く見えていた。


 男の錫杖が自分の身を叩こうかというのに、自分の手は鞘を抜いたところである。思わずここまでか、と感じた時、体の動きが滑らかになった。まるで枷を外されたように、自由になった体が短刀を錫杖と体の間に滑り込ませていた。

 

「ん」


 男が驚きの声を上げる。黒衣の人物はすかさず男の足を払った。体制を崩した男の顎に一撃を入れる。男は頭を揺らし、そのまま前のめりに倒れた。


 黒衣の人物は軽やかに立ち上がると、車の傍で伏している一姫に駆け寄った。


「大丈夫か? 一」


 男にしては高く、女にしては低い、中性的な声であった。


「大丈夫、ひ、二ノ……」


 抱き起こすと、一姫は青い顔で答えた。手をすりむいているが、大きな怪我はないようだった。


「良かった、無事みたい……」


 黒衣の人物の傍らで、いつの間に出て来たのか、浅葱色の狩衣を着た娘が言った。顔には白くのっぺりとした面をしており、灰色の髪を編んで頭の後ろでまとめている。繊細な声と同じく、華奢で小柄な体躯をしている。


 一姫の呼び寄せた仲間の一人だった。


「碧緒は……」


 娘は車を見た。


 一姫は無事だったが、屋形の中の碧緒はどうなのか。車は妙に、しんとしている。


「たま姉……」


 それは一姫も思っていたようで、立ち上がるとすぐによろよろと車にしがみついてそのまま這い上がっていった。


 車にはまだ、結界が張られている。車が倒れた程度、共の者が倒れた程度では破れない結界が車には施されている。娘や、二ノと呼ばれた黒衣の人物にやすやすと破れる結界ではない。けれども一姫の前ではそんなもの、ないもの同然だった。一姫は彼女の意思に関係なく、どんな結界も破ることができるのである。一姫の生まれ持った性質だ。


 二人は一姫が結界を破るのを待った。


 一姫が結界などないもののようにその中に手を差し込み、簾に手をかけた。


「たま姉、大丈……!?」


 途端に絶句した。


 黒衣の人物と娘が一姫の後ろから中を覗く。


「うそ……」


「なにっ」


 思わず声が出た。


 目を疑った。


 信じられなかった。


 屋形の中は、空っぽだった。

 

 誰かがいたという形跡すらない。ただ、ぽっかりと空いた真白な空間が三人を出迎えた。


 初めからこの車の中は空っぽだったのだ。三人は空の車を相手にしていたのである。


 念入りに練った計画が、水の泡となって消えた瞬間だった。


 目の前が真っ暗になる。


「どうしてっ……そこまでっお父様……!」


 一姫はわっと涙を流した。腹の底から、無念さと激情がこみ上げてくる。目の前の光景を、誰かに、嘘だと言ってもらいたかった。いや、誰かではない……言ってもらいたい人物は決まっている。


「残念、でしたね……」


 男の声が聞こえる。


 最初に落とされた左の男である。


 男は縄で木に括りつけられていた。術が使えないよう、丁寧に魔封じの札まで張ってある。一姫と二ノが右の男を相手している間に、もう一人の娘がやっておいたのだった。


「竜樹様や青梅様はあなたたちが何かを企んでいることに気づいておられたのでしょう。だから、策を打った……。その車が空だということは私どもも知りませんでした。実に、見事ですね」


 感嘆の息を漏らす。


「儀式の場に続く無数の道は、全て私が見張っておりました……。道を通っていくのはこの車しかありませんでした。ですから、この車に、碧緒が乗っていると確信したのに……」


 娘が震える声で言う。


 時間をかけて準備をした。何十もある道を通るルートは何万通りもある。三人はそのすべてにおいて対応できるよう、あらゆることを調べ上げた。


 どこで何をするのか、どのようにして通るのか。共の者の実力。道の形状やかかる時間、当日の天気に至るまで、集めるに集めた。


 容易ではなかった。それでも諦めずに根気強く情報を集め、何度も話し合いを重ねて計画を練りに練った。三人は碧緒が儀式の生贄となると知った日からたった一週間余りだったが、この日の事だけを考えてすべてをこの日に費やしていた。そこまでして練った計画が、絶対に成功させなければならなかった計画が、失敗に終わった。


 悔しい。それ以上に、一つの命が失われる事実が重く、胸が押しつぶされそうなくらい苦しい。


「あなたは良い目をお持ちのようだ。何十もある道を全て見ることができる者はそうそういません。力のほとんどを使ってのことでしょう。すでに余力はないのでしょうね……。黒装束のあなたは実によく動きますね。妖滅部隊の方でしょう。一姫様、本当によく、このお二方を集められましたな」

 

 男は笑っているようだった。


「お二方とも優秀ですから、他の分家の御家に仕えているのでしょう。足垂の人間でないことは分かります。碧緒様の……旧友でしょうか」


 二人はぐっと言葉を飲み込んだ。男の言う通り、二人は足垂の人間ではない。東方家の他の分家に使える、外部の人間であり、碧緒の友人だった。


 儀式に外部の人間が加わることはできない。もし加わろうものなら、罰せられる。それが儀式を阻止しようというものであるなら、首をはねられてもおかしくはなかった。そのために、名を伏せている。また、他言無用と言われた儀式の事を話し、こうして阻止するための計画を練った一姫もただではすまされないはずだった。


 三人ともそれは知っていた。けれども計画し、こうして実行したのである。覚悟の上だった。


「……お前の話に付き合うつもりはない。情報を聞き出すつもりだろうが、そうはいかないよ」


 黒衣の人物が答えると、男は肩を落とした。


「まだ子どもだからと侮ってはいけないようだ。現にこうして私も右のも捕まっている……。いや、実に、見事でした。上手い奇襲でした」


 左の男は大げさにうんうんと頷いてみせる。妙に芝居掛って見えた。


「悠長な……」


 二ノは呆れた声を出した。


 娘は二ノの隣で黙っている。


 一姫は顔を両手で包み込み、


「……まだ、間に合うかもしれない」


 思案していた。

 

 二ノ、それから娘が弾かれたように一姫を見た。


「どういう、ことですか?」


 訝しげな声で問いかけると、一姫は両手の中から顔を上げて娘を見た。


「時間が、まだあるかもしれない。今何時? ゆ……三」


「八時十九分五十七秒です」


「儀式の時間は八時半ごろだろう……?」


 車は夜明けとともに山を登り、八時半ごろに谷底に落ちる予定だった。刻々と時間は過ぎている。


「もしかしたら、何かがあって遅れていて、時間通りに始まらないかもしれない。たま姉の乗った車は、昨日まではなかった道を進んでいるんでしょう? だったら何かあって遅れるってこともあるかもしれない」


 二ノと三は顔を見合わせた。


「まだ、間に合うかもしれない」


 涙に濡れた頬をぬぐいながら、一姫は立ち上がった。


 足垂 竜樹は時間を守る正確な男である。始まりの時間は予定通り夜明けだった。ルートは変えても、時間を変えるということはないだろう。また、遅れるということもなかなか考えられないことだった。希望はほとんどない。


「行こう。たま姉のところへ。まだ間に合うかもしれない!」


 けれども一姫はすでに真っ赤に腫れてしまったが、意志の強い瞳で二人を見返した。


 この瞳を前にしては、二人も断れなかった。また、それ以上に、まだ、諦めたくなかった。


「行きましょう」


「行こう。白銀!」


 二ノが叫ぶと二ノの足元から風が巻き上がり、くるくる体を回って白銀が二ノの肩に乗った。普通の鼬の大きさだ。


「隼の方が早いが、山や森ならこっちの方が良い。一がいるからね」


 白銀が一姫の方に飛ぶ。一姫が手を伸ばして白銀に触ると、みるみるうちに体が大きくなり、牡牛ほどの大きさになって地面に降りた。


 妖力の強化は一姫の能力の一つである。


「乗って。今の白銀なら女三人くらいなら運べる」


 一姫が車の上から白銀の背にまたがる。二ノは三が乗るのを手伝ってから、一姫と三の後ろに乗った。


「行って、何が出来るのですか?」


 走り出そうかというところで、左の男が声をかけた。


「あなたたちに何が出来るのですか? 碧緒様のいらっしゃるところには、竜樹様も青梅様もいらっしゃいます。足垂家御当主と、百年来の天才と謳われている東方本家の宰相、青梅様ですよ。そのお二方を相手にして、一体全体あなたたちに何が出来ると言うのですか」


 声には何の色も帯びていない。男はただ、純粋に問いかけていた。


 男には不思議だったのだ。いくら肉親と言えど、自分を危険に晒してまで救おうとすることが。ましてや、他二人は肉親でさえないのである。そうまでする理由が、男には見つからない。


 一姫は素直に答えた。


「分からない」


 仮面の下で、男はさぞ驚いた顔をしたことだろう。


 一姫は続けた。


「間に合うかどうかも分からない。間に合ってもどうにかできるのかも分からない。でも、行かないと。私はまだ、たま姉が取り返しのつかないところまで来てしまったのを、この目で見ていない」


 どうにかする、しないの問題ではない。ただ、事の有様を自分の目で確かめに行くのだと、言っているように聞こえた。

 

 男は何かで殴られたような衝撃を受けた。言葉が出てこない。


「行け! 艮の方角だ!」


 会話の切れ目とみた二ノが指示する。白銀は衝撃波のような風を起こして木々の間を駆けていった。あっという間に、三人の娘たちは消えてしまった。


 娘たちはどんなに酷な事実も、自分たちの目で見つめようとしている。自分の目で見るまでは希望を捨てずにいる。若さ故の無謀さ、いや、勇気かもしれなかった。


「年を取りましたねぇ」


 いつの間にか目を覚ましていたらしい右の男が左の男に話しかける。左の男からは姿が見えない。


「まだ四十手前だ」


 左の男が不機嫌そうな低い声で答えた。


「そうは言ってもねぇ。もうきっと世代交代の時期なんですよ。二人とも、まだ若い娘さんたちに負けてしまったではありませんか。東方家当主もまだ二十四でしょう。そういうこと、なのでしょうね。我らは花開く前に若い人たちに追い抜かされてしまうようだ」


 右の男がふうとため息を吐いた音が聞こえた。


「……そう、上手くいくとは思えない」


 左の男は先程の様子とは打って変わって、地に這うような声で答える。


「若い衆が力をつけてきていることは分かっているが、俺たちの上には竜樹様や竜人様がおられる。ご隠居様だってまだまだご健在だ。その中で、彼女たちのような小さな蕾が渡り合っていけるとは思えない。あのお方たちは一筋縄ではいかないだろう」


「そうですね」


 否定はできなかった。


 当主東方 竜臣は至極やり手な男だと聞く。まだ二十四と若いのに一癖も二癖もある元老たちとも対等に渡り合うのだそうだ。けれどもやはり若い当主の敵は多く、当主の名はもらっているが、立ち位置はあまり良くない。


 当主でさえそうなのだ。十代の娘たちが上手くやれるとは思えなかった。


「……その小さな蕾や芽を、我らが守らねばならないのかもしれませんよ……?」


 右の男が、草を踏みならしてやってくる。左の男は面を外したその男を見やり、はぁと小さくため息を吐いた。左の男も身じろぎして縄を外し、胸に貼られた魔封じの札を手で握りつぶした。面を外しながら、立ち上がる。


「右近……お前は感傷的で困る」


「あなたもでしょう、左近」


 笑みを称えた右近の顔を、そっくりそのまま不愛想に変えたものが左近の顔だった。


「あんな姿を見せられて、何も感じない方がおかしいですよ」


 右近が真っすぐな娘たちの姿……とりわけ一姫の姿を思い出しながら呟く。左近も無言で同意した。


「散りますか?」


「いや、我らは二人で一人だ。一人では青梅様の結界は破れん」


「ですね」


 二人は地を蹴った。

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