プロローグ
箱庭を月が照らしている。ここ、氐宿では百何十もの女たちが暮らしている。未就学児から老婆まで歳は幅広いが、女しかいない。加えて氐宿は隠すように野山の奥に建てられているため、俗世から離れていた。
戸の隙間から月光が漏れてくる。少女が光の筋を目で追っていくと、空に満月が浮かんでいた。空に近いからか、月は塀の向こうにあるとは思えない程大きかった。
少女が月につられるようにして布団から這い出てきた。齢十の、碧緒という名の少女である。碧緒は頭を合わせて寝ている他の子らに気づかれないように、足音を忍ばせて外へ出た。
空気は冷えている。息が凍って白く見える程に。しかし不思議と寒さは感じなかった。
こつん、こつんと、ひっかけた下駄で飛び石を踏み鳴らし、目的もなく歩いた。
こん、こん、かん。松や梅や桜や藤、紅葉や銀杏と様々な木を横切って行く。
あそこへ行こう。
ふいに思い立って、碧緒はくるりと方向を変え、庭に設けられた小さな林に入って行った。
葉が深く、青い。葉を落として線だけを天に伸ばしている木もあるが、そういう木には不思議と蔦が這い、宿木がぽつぽつと群を作っていた。
このまま小さな林を抜けると水路がある。碧緒はそこが好きだった。水路に掛けられた青い橋から見下ろし、せせらぎを見つめるのが好きだった。眠れぬ夜はよく、そこで水面に映る月を見つめた。
群青だった視界が開けると、碧緒は驚いて息を止めた。
落っこちそうな程大きな月が自分を見つめていた。しかし月に驚かされたわけではない。月を背に、誰かがそこに立っていたからである。
すっと縦に長い輪郭をした、人のようだった。外に跳ねた長髪が青く、月光を透かしている。
ここの者ではないことはすぐに分かった。着物を着ていないからだ。シャツを着て、黒いパンツをはいている。男でもあるらしい。男子禁制のここ、氐宿では大変珍しかった。
碧緒は目を細めた。輝く月が眩しかった。その者の顔は月が隠しており、よく見えない。
顔を見たい。
そんな衝動に駆られて、碧緒は歩を進めた。姿勢を低くして、下から覗き見ようと近づいた。
その者は全く動かなかった。ただ、碧緒が近づいてくるのを待っている。
十分顔の見えるところまで来ると、碧緒は思わず呟いた。
「……きれい」
目元は涼しく、結ばれた唇は艶めいて、肌は陶器のように白く滑らか。綺麗な青年だった。煌々と輝く二粒の赤い目が、その顔に美しさだけでなく、精悍さも備えさせている。
碧緒はひょっとしたら妖物かもしれないと思った。氐宿の周りは結界が張ってあるので妖物はそうそう入ってこられない。もし青年が妖物であるならば大変なことになる。それは碧緒もよく分かっていた。妖物なら大人を呼びに行かねばならないことも。けれども少しも大人を呼びに行かねばと思わなかったのは、心の奥底ではちゃんと目の前の人物が人間であると気づいていたからだろう。ただ、そう思えるくらいに、青年の容姿はあまりに整っていた。齢十ばかりの少女には刺激が強すぎるほどに。
当の本人である青年は何も言わず、また、表情も変えなかった。それがまた、人でないもののように感じられる。
しばらく後、青年は碧緒の視線を追うようにして自分の後ろを顧みた。そして目を見開いた。初めてそこに、月があると気づいたように。
青年が碧緒に視線を戻す。そして、その瞳の中にも大きな月があることに気が付いた。
「綺麗だ」
青年が碧緒を見つめたまま呟いた。
とくん、と少女の小さな胸が高鳴った。
月光の降り注ぐ、美しい晩だった。
眠れぬ晩の逢瀬であった。