第八話
「ところで、前にお渡しした遊園地のチケットどうされましたか?」
おっさんは、この前と打って変わって余裕の表情を浮かべながらこちらの様子をうかがっている。
すかさず言葉を返そうものなら、チケットを返せや話が違うじゃないかと怒声を上げこちらに迫ってきそうな雰囲気を感じた
俺は、長幼の序よろしくとおっさんに伺いを立てることにした。
「えっと、まだ、いや、なんと言いましょうかもうしばらく考えたいというか……」
おっさんのやけにきれいで手入れの行き届いている靴を見つめながら、そう言うとおっさんは少し眉間にしわを寄せたと思った
らすぐさま、普段通りの目は笑っていないが顔は笑っている、そんな表情を浮かべながらこちらへと問いかけてくる。
「いやね、うちとしても何日も待つというわけにはいかないんですよ」たった一日二日が待てない人間が跋扈している新聞社に
毎日欠かさず朝刊や夕刊を配達してくれる配達員はいるのだろうか、ふとそう思うも、言い出せそうにない雰囲気を醸し出し
くるおっさんはこちらの「はい分かりました。財布取ってきますね」そう返事を待っているかのようだった。
俺としてもこの状況がいつまでも続いて貰っては困る。
というのもこの時間ならそろそろ彼女が返ってきてもおかしくないからだ。
あいにく彼女が日中どこで何をしているのかは知らないが、俺なんかとは違って、
勤労に美徳を感じ精を出しているのだろう。それに引き替え俺は、たかが新聞勧誘のおっさん一人追い払えないのだから、
なかなかいい対比の関係に俺と彼女はあると言える。
万が一彼女にこんな情けない様子を見られでもしたら当分は彼女の眼を見て話すことはできないだろうし、何よりもかっこ悪い
ところを見られまいとあまり挑戦らしい挑戦をしたことの無いこれまでの人生経験の薄弱さを彼女に悟られたくはない。
そう思い、契約する旨を告げて、喜んでおかえりいただくことにした俺は、
「契約します」今になって思えば一言そう言えば良かったのだが、
元来の口下手が祟ったのだろうか、おっさんは激怒して終いには罵声を浴びせて帰って行ってしまった。
「契約してもいいです。しかし、思うにお宅の新聞は政権寄りというか御用新聞みたいですけど色々と大丈夫そうですか?」
こう述べただけで激怒してあまつさえ罵声まで浴びせてしまうのだから、中々にお里が知れている。
まぁ、なんにせよこの時おっさんにはおかえりいただけて良かったのだ。
おっさんが返ってから数分したら彼女が返ってきたのだから。
情けない姿を彼女に魅せずに済んだのはもとより、彼女から「玄関先で何してるんですか?」こう尋ねてくれたのだから結局の
ところおっさんには感謝しかない。何せ彼女に新聞の勧誘を今しがた追い返したところだと告げると、彼女は少々驚いた眼をし
ながら俺に子供がお菓子売り場でお菓子を母親に強請るように言った。
「私この間勧誘のおじさんに、遊園地のチケットを限定でくれるからって一年契約しちゃいましたよ。どう追い返したんですか
?」
「それは何というか力技なんで男性向けというか……川角さんにはきついっすよ」
「青山さんって意外とケチですね、見損ないました」
彼女は俺から顔をそむけながらそう言うと自分の部屋の鍵を開けようとしている。
俺はどうすればいいか分からずに、ただ彼女の姿を見つめていた。
すると、彼女はドアを少し開けて持ったままの状態でこちらへと顔を向ける。
はぁ、そう深いため息をつきながら彼女はドアを
まるで老婆が乳母車を押して歩いているかのようにゆっくりと引きながら俺へ一言こう言った。
「青山さんって女心ってやつを分かってません」有り体に言えば、心にグサッと刺さるような、核心を突かれたときの図星感と
いうかそんな感覚が身体を巡った。ショックが大きいのか、言葉に詰まってしまう。
やっと、自分でもわかるくらいに唾をゴクッと一飲みして、俺は言った。
「いや、あの分かります。えっと、うまいことは言えませんが、ほかの女性ならともかく川角さんの事なら」
後で聞いた話だが彼女はこの時恋をしたそうだ。理由としてはあまり強いとは言えない理由が、彼女らしい。
彼女は頬を赤らめながら、何やらぶつぶつと、だって、いや、うん、やっぱ、でもなぁと繰り返している。
よく分からない俺は、彼女に「どうしましたか?何か悩み事でもあるんですか?」
こう尋ねたところ彼女からは先程と同じテンションで同じような言葉が返ってきた。
「やっぱり、青山さんって女心ってやつを分かってませんね」先程までと違うところと言えば彼女の顔に笑顔と
そして何やら安心や安堵といった余裕が見られるところだ。
流れはこちらにある、そう思った俺は空かさず彼女へと問いかける。
「さっきの話に戻りますけど、チケット俺も持っていまして、良かったら行きませんか?俺のと同じやつなら期限も近いですし」
そう、忌々しいおっさんの残していった遊園地のチケットの有効期限は来月末までとなっている。
貰っておいてあれだが、あくまで一般通念として、こういったのは期限が長いものを寄越すか、
若しくは、期限が近い事を告げて渡すべきだろう。
彼女を遊園地へと誘う予行練習をしているときに「ねるとん」よろしく頭を下げ両手を彼女へと向け
「良かったら一緒に行きましょう」
顔を上げた俺に待っていたのは彼女の最大の笑顔でもなく断るときの気まずさゆえの顔でもなく有効期限が来月末と表記された
チケットだった俺の気持ちを少しは汲んで貰いたい。
憤りと悔しさで滲みそうになる脳内は、彼女のたった一言で幸福感に満ち溢れた。
「良いですねぇ、遊園地。子供の時以来だからなぁ楽しめるかな」
語尾に余韻を残しながら俺の返事を待つ彼女の姿を見つめすぎていることに気付いた俺は、咄嗟に横に目をそらしこう言った。
「勿論ですよ、この俺がエスコートしますから安心してください。」
「なら、早速明後日の日曜とかお時間どうですか?私は大丈夫なんですけど」
「俺も大丈夫っす、準備万端っす」「青山さん、何だか子供みたいですよ」
ニコニコと笑いながら彼女は俺を宥めるようにこちらを見ている。
俺はうれしくなり、それからも長い事話し込んでしまった。
結局のところ、日時は明後日の一時頃に彼女は朝に少しやることがあるので、現地集合することになった。
少し残念な気持ちで、彼女と別れようとすると、彼女は八重歯を見せながらこう言った。
「そういえば青山さん、私の事やっと名前で呼んでくれましたね、実は不安だったんですよ名前知らないんじゃないかなって」
彼女が言い終わると同時に俺は心の中で「そんな事はない」即答したが、実際には口に出せず出た言葉と言えば
「え、そうでしたっけ」だったのだから我ながら情けない。
しかし、こんな情けない俺を気にする様子もなく彼女は、
「そうですよ失礼しちゃうなぁ、まぁ良いんですけどね。それじゃおやすみなさい」
そう言って重たそうにしながら古びたドアを開けて中へと入っていった。
今にして思えば、付き合ってもいない男に誘われて遊園地に行くというのは相当脈アリなわけだが、この時の俺は知る由もなく
ただ、「明後日、二日後」を部屋へと戻り眠気に支配されるまでひたすら念仏のように唱えていた。




