第二十一話
いくらかの時間が経ったのだろうか、ここへ着いたころには人通りもまばらにあったのに、今では見る影もなくなっている。人が通るたびに彼女の顔と俺の顔を交互に見比べる様にして一瞥して行くので少々うんざりしていたから良いのだが。
しかし、季節柄夜は冷える。俺は来ていたジャンパーを彼女へ掛けているので、少々寒い。
急に、辺りの木々がざわめきだしたかと思えば、俺の頭から背中にかけてまるで、ピンポイントで狙ったのではないかと思わせるほどピッタリの風が吹いた。彼女は、それを受けてか上着を返すと言ってくる。俺が良い、と返すとでも冷えますからと押し問答が続いた。結局、彼女にはそのまま羽織っていてもらう事になったがどこか申し訳なさそうな顔を見ていると俺の方が申し訳なくなってくる。木々のざわめきも静まってきた頃には、むしろ俺の体は熱くなってきていた。何故だかわかるだろうか、後にも先にもない経験を得たからだ。お楽しみを期待しているやつには悪いが、もうこんな出来事はない。たった一度の、ほんの一瞬の出来事だった。彼女は急に俺の胸に体を預けてくる。それを逃すほど軟ではないからしばらくの間そのままにしておくと、彼女から衝撃的な一言を聞いてしまう。「青山さん。キス、しましょうか」俺は思わず首を横に振っていた。当たり前だ、この年までオフクロ以外の女とまともに口を聞いたことは、無いに等しいのだから。いや、嘘をついたかもしれない。いかにもなお姉さんとティッシュ配りのお姉さんと前世で一緒だったと言われ、懐疑的な気持ちを抱きながらも何となく流れに身を任せて話に花を咲かせたことがあるんだ。「私とじゃ嫌ですか?それとも付き合うってこういう事をする付き合うじゃなかった……とか」「そういうわけじゃないですけど。物事には順序が」俺が言葉を半分も言っていないその口を甘ったるいどこかで味わったことのある味が包んだ。そう、これはカフェオレだ。だが、この感触を、いま唇の辺りを遮っているであろうこの感触を俺は知らない。しばらくの間、少し離れた場所にある適当に植樹されたことが一目で分かる木と見つめあっていると、彼女が言った。
「何とか言ってくださいよ、青山さん」いや、何とか言えと言われても何とも言いようがないが、これだけは確かな感触を、確証を得ていた。俺は、彼女とキスをしたのだと。「突然すぎて何も言えないですよ。やっぱり、こういうことするのって初めて、だったから」「え、青山さんキスしたことなかったんですか?」俺が素直にはい、というと彼女は少し満足げな表情を浮かべながら言った。「じゃあ、私が初めてだったんですね。出来たら最後でも良いですよ?」そう言って彼女は目を瞑った。俺が訳も分からず、とにかく前進あるのみと彼女の口元へと唇を向けて進んでいると、急に彼女が目を開いて言った。
「もう、遅いですよ。キスは早さとタイミングが重要です」彼女の言葉を受けて、意を決した俺にはもう言葉は要らなかった。
それから、彼女と何度も何度もキスをした。初めのうちはとりあえず唇を重ねているだけだったが、もう数という単位を頭の中で思い浮かべるのも億劫になる頃には、カフェオレの味が直に伝わってきていた。




