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第九話

 

 ジリジリジリと耳元からやかましい音が聞こえ、最初はうっとうしかったその音は段々気にならなくなってくる。

 いつもなら、ここで二度寝、いや三度寝はかましているだろうが、今日の俺は少し違っていた。


 腹ペコなライオンへ肉を投げかけるとどうなるか想像がつくだろう。

 今の俺はライオンなんかよりもライオンだ。


 自分が生きていると認識できたその時、胸が高鳴って仕方ない。

 今日は彼女、川角さんとデートだからだ。

 俺はすぐさまベッドから起き上がり前日に準備しておいたトーストを機械へと押し込みながら、冷蔵庫を足で開ける。

 何もない冷蔵庫の中はまるで昔の俺のようだと思う。形だけは、そこに存在しているのに中身は見ての通り空っぽで、詰め込もうにも小さいスペースに入る量はたかが知れているだろう。


 朝から嫌な気持ちにさせられるこいつも、そろそろ買い替え時かな。そう思いながらも愛着があるのか決断しきれていない自分がいる。


 トーストを食べ終え水道水を流し込みながら遊園地の事を思い浮かべてしまい、ついにやにやしてしまう。はたから見ればよっぽど生活に困窮しているか、あまりののどの渇きに耐えかねて思わず駆け込んだ公園でやっと水にありつけた人だろう。


 昔ならこんなことを思うとその日は若干テンションが下がり気味だった。

 その手の冗談にも昔は愛想笑い程度には付き合えていたのに、今はもう人にどう思われようがどうでも良くなっていた。彼女がいるから。


 少しセンチな気分になってしまい、自己嫌悪感が胸の中でもやもやとしているのがわかる。洗面所で顔を洗いそれを拭い去ってしまおうといつにもまして念入りに顔をこすりあげる。


 ゴシゴシと水が間に入っているにもかかわらず俺はひたすら自分の頬をこすり続けた。しばらくして、気が済んだので、タオルで優しく包むように頬をなでてやり、次いで歯を磨くことにした。歯を磨きながら彼女の食事の好みや自分の口臭が匂わないか心配になる。歯ブラシを携帯していくことも考えたが、もしアトラクションで荷物を預けることになったら、

 彼女に見られてしまうかもしれない。


 そうすると、杞憂であってほしいが「この人って今はまだマシだけど、普段は匂いがきついのかも知れない」

 そう思われてしまうのではないか。不安がさっき洗い流したばかりのアレと混じり俺の脳を埋め尽くしてくる。

「今日はやめておこう雲が悪い、日が悪いって」

「またの機会にすればいいよ、ほら、そんな服じゃデート行けないでしょ」

 いつものガキの頃からの発作のようなものだった

 思えば、あれは小学六年生の時だ。

 土日を使って自由参加の社会科見学が催される事になり、俺は文字通りに目を輝かせた。


 何せ見学場所一覧には動物園があったからだ。

 俺の田舎では近場に動物園はないし、どうせ遠出するならもう少し、大人も楽しめる場所をチョイスしがちな、

 家に生まれ育ってしまったがゆえに、こういった子供じみた場所へは縁がなかった。

 そんな現状に不満を抱いているのが俺だったわけだ。もう少しで中学生になろうとしていたわけだから

 周りはきっと、一種のパフォーマンスにせよ、「動物園とかガキじゃないんだから」とか、「もう、行き飽きたよ」

 という俺からすればぜいたくな悩みをお持ちの方もいた。


 俺としては、ぜひとも行きたいのだ、いくつになっても。しかし、中学生になってしまってはより一層難しくなるのは一見して明白であった。普通であれば両親に掛け合って旅費を工面してもらいたいと、相談をするだろうし、普段の俺なら多分していたと思う。しかし、当時はおふくろとケンカしたばかりで、話しかける勇気が出ず、ここ何日かろくに口もきいていない、そんな状況だった。 小学生ながらに俺は考えたつもりで、いつもは嫌そうな顔をしながら行きがちなおつかいを快く引き受けてみたり、言われていないのに風呂やトイレ掃除を買って出たりもした。しかし、おつかいは大した効果を生まなかったし、風呂やトイレ掃除に至っては「余計な仕事増やしてから、いい加減にせぇ」そう怒られる始末だった。

 ご機嫌伺いのつもりが余計に事を荒立ててしまうあたりが俺の限界なのだろう。


 俺はこの日から人に何かを期待するのをやめた。

 何もオフクロが悪いわけじゃないし、オフクロには何ら一切の帰責性はない事も分かっている。


 だけど、うまく言えない物ができた。特段の軋轢が生まれたわけでも、特殊な性癖に目覚めたわけでもない。

 なのに、俺はオフクロと話すときはこの時を境にピリつくものを感じることになった。


 もしかすると、彼女もそうなのではないか? 同じ女だから変わりはしないだろう。頭の中でいやアレが跋扈する。


 次第に支配されるかそうではないのかのせめぎあいに発展したアレとの戦いはあっけなく幕を閉じることになった。


 ピンポーンと一回だけ優しく囁くようにチャイムが鳴り響く。

 狭い部屋の中にいれば、荒っぽくチャイムを鳴らす新聞配達はもとより丁寧に鳴らす『NHK』日本放送協会様から委託を受けた危なっかしい目をしている集金係のチャイムもそうは違わない。


 すぐに、玄関へ向かいドアを開けると、そこには見慣れた髪型、肌の透明度、細いとも太いともいえない絶妙な眉をした、

 彼女が立っていた。

 俺が、確か現地集合のはずでは、と問いかけると彼女はその細く白い腕にしているこれまた細いベルトにその身を支えられている情けない時計を人差し指で指しながら、俺に見る様に仕向ける。


 良く見ると盤面には何やらダイヤのようなキラキラしたものが散りばめられている。

 一瞬、こんな高価な時計をしているなんで川角さんとは住む世界が違う、そう思った。


 しかし、盤面越しに見える彼女の顔をチラッと覗き込んでみると、眉間にしわが似合わない彼女に似合わない顔をさせていた。すぐさま、別の視点へと変更を余儀なくされた俺は、長針を見て少し驚く。


 長針は既に一五時を指していた。しまった、そう思い自らの至らなさと考えにふけっている自分に酔ってしまう

 この癖と発作を抑える特効薬は無いものかとまたしても考え込みそうになっているところへ、

 彼女が少しばかりいつもと違う声色で問い詰めてくる。


「あの、時計読めますよね。今何時ですか、読み方が分からないなら教えましょうね?」

 冷たい声色とは裏腹に子供に言い聞かせるような口調との違いより一層、自分のしでかしてしまったことの重大さに気づく。


「すいません、ちょっと考え込んでいまして、つきましては、今から行きませんか?」「もういいですよ」


 ため息をつきながら彼女は、自分の部屋へと入るためにバッグから鍵を探している。

 普通ならばここで、腕を掴んで遊園地へ行ってしまうのだろう。俺にはそんな度胸はないな。そう思い始めると、例の発作がまたしても俺を蝕む。


「止めておこう、俺には似合わない、」「彼女もオフクロと一緒さ、次第に慣れるって」


 うるさい、ポツリと頭の中で声が聞こえてくる。


 俺が俺に俺の中で俺とは別視点の俺がそういったのを感じた時、先程まで脳内で支配的だったアレはどこかへと消えていった。

「川角さん!」気付いた時には彼女の名前を叫んでいた。彼女は、一瞬こちらへを視線をくれたが、そのまま部屋の中へと入っていく。


 俺はドアへと足を突っ返させ彼女がドアを閉めるのを防ぐ、彼女は「えっ」と一言漏らした後


 またしても冷たい、声色で俺に話す。「何でしょうか、今日は人混みで長時間立っていたので疲れているんですが」

 申し訳ない、そう思いながらも勝手だが、ここで彼女とぶつかっておかなければきっと彼女とはこれ以上の関係にはなれないだろうし、仮になれた都市もそれは家族以上ではないのではないだろうか


 ドアの隙間から手を伸ばし彼女の細い手をギュッと掴む。

 彼女は、嫌がるかと思いきや実際は掴んだままで居させてくれた。しばらくの沈黙ののち彼女から口を開く。

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