アカトンボ
電車に乗ろうとしたら、変なものが転がっていた。球体に近いけど歪んでいて、金網で包んだようなこぶし大。風が吹いてもまったく動じず、その場に留まっている。
ああ、あれに近いかも知れない。
ワイヤレスマイクの上のほう。
「なぜに?」
私はスカートがまくれないように気をつけながらしゃがんで、それを拾ってみた。思ったよりもずっと重く、手にずっしりと、重量感が残る。
まじまじとそれを眺めて、私は首を傾げた。
なんだろう、これ。
アナウンス用のスピーカー、だろうか。いや、それにしては小さい。じゃあ、芸能人とかがよくつけているミニマイク? でもあれって、こんなに重いだろうか。
うーむ。
電車がやって来たので、唸りながら乗り込む。
「あ、持ってきてしまった」
私の手には例の物体がありっぱなしだった。落とし主が困ってしまうかも知れない。
まあ、いいか。
困らないだろう、マイクの上のほうなくしたって。
いや、困るだろうけど、マイクの上のほうだけ無くすってどういうシチュエーションだ。
なんと面妖な、と思って苦笑しながら震えた携帯を確認すると、メールが届いていた。どうやら、本日唯一の授業たる、4限目の授業が休講になったらしい。
いつもながら、うちの大学の休講情報は遅い。何時間もかけて学校に来ている生徒だっているんだから、もっと早めに配信してほしいものだと、いつも思う。
まあ、私の場合は電車で20分もかからないから、どうでもいいと言えばどうでもいいのだけれど。
どうしよう。せっかく外に出ちゃったし、どこかで暇つぶしでもしようかな。
そんなことを考えながら、私は最寄駅からひとつ目の駅で電車を降り、結局は自分の家でゆっくりすることにして、反対側のホームについた電車に乗り込んだ。
どうせ、一緒に遊びに行けるような友達も知り合いも、私には居ない。
キヨスクすらないプラットホームに運ばれて、私は電車を降りた。
あ、そうだ。と思いだして、私はバッグに入れていた、いまだに何と呼んでいいかわからないその物体を取り出す。一応、駅員さんに届けてあげよう。と、思ったのだが駅員さんが見当たらない。改札口にも人がおらず、私は途方にくれてしまう。
下町だからって、なんという無防備な。
私鉄なんだから、あんまりキセルとかされると大変なんじゃないだろうか。
そんな風にぽやぽやとしていたからか、背後から肩を叩かれた。
「お嬢さん! 少しお尋ねしてもよろしいでしょうか?」
「ふぇ?」
振り返ると線の細い男性が立っている。
一番目を引いたのはスキンヘッドだった。でも、所在なさ気な挙動不審さを浮かべる表情は、いわゆる「悪だぜっ!」みたいな感じがまったくしない。言葉も丁寧で、服装もぱっちりしたスーツだし、胸のポッケにはチーフまで入っている。どこかのダンスパーティで、罰ゲームとしてハゲにされました、きついです、といったような印象である。
「……え、えと。なんでしょうや?」
私が尋ねると、男性は私の胸元に熱い視線を注ぎ始めた。今にもはち切れそうな顔をする。
え、なんですか、その眼力は!?
私が怪訝そうな顔をすると、それに気づいたのか、男性は慌てて、顔の両脇で手を振った。
「い、いえいえ、違うのですよお嬢さん。ただちょっとその、そちらの――」
男性は私がいまだに手に乗せていた、マイクの上のほうを指差した。
「それは、どこで拾ったのかなー、なんて思った次第でございまして」
私は自分を恥ずかしく思った。なんという、自意識過剰のともがらだろうか。こいつめ、こいつめ、と脳内で自分を叱責する。
私は一度しんこきゅー。
気を取り直して。
「こ、こちらは、その……駅のホームで拾ったであります。駅員さんに届けようとしましたら、おられないようでございましたので、どう忘れた方に届けようかと思っておりました」
「ああ、そうなんですか! それはちょうど良かった!」
そう言って、男性は懐からメガネらしきものを取り出した。フレームの片方はレンズもなにもなかったが、もう片方の側には、私が手に持っているものと同じ、マイクの上のほうがはまっている。
「やや、それはもしや……」
「ええ、そうなのです。実はそれは、私のメガネの部品なのです」
「なるほど。そういうことでしたら――」
私はマイクの上のほう改め、男性のメガネの部品を差し出し、
「どうぞ」
と声に出して言った。
「ありがとうございますっ!」
男性はそれを恭しく手に取って、ぱあっと明るい顔をし、それを慇懃な手つきでメガネに取り付け始めた。
作業が終わると、それを装着する。
「いやー、本当に、感謝感激です! これがなかったら私はどうしたらいいのかわかりませんでしたよ、はい」
さっきとはうって変って、快活な、やや浮かれ気味の笑い声を上げる男性。
私はと言えば、それを見てある特撮ヒーローの名を思い出していた。
「ウルトラの、兄弟なのですか?」
「へ、うるとら?」
「なんでもありませぬ」
慌てて否定し、そっぽを向く。
そんな、わかりそうなものじゃないか。ここは現実。テレビの中ではないのだから。あんなヒーローがいるわけがない。カラータイマーもついてないし。
このまま無言で立ち去るのも失礼な気がして、後ろではしゃいでいる男性に、私はおずおずと声をかけた。
「では、私は帰らせていただきます。お疲れ様でございました」
「ああ、いえいえちょっと待ってください。もし時間がおありでしたら、よろしければ何か、お茶でもご一緒させて頂けませんでしょうか? 本当に大事なものだったので、なにかお礼がしたいのです」
「いえ、いいです。それでは」
「あーそんなー。そそくさと逃げないでくださいよぅ!」
うるうる。
両手を口元に添えて、実際に発音しやがる。
いや、確かに目の部分がその、結局なんていうかわからない部品のついたメガネで塞がれてしまっているから、涙目を浮かべていたとしてもこちらには上手く伝わってくれないのだろうけれど。それにしたって、自分より明らかに年上な男性にうるうるされても、どうしていいかわからない。
「なにかありませんか? お礼できるようなもの。美味しいコーヒーでも紅茶でも、食べ物でしたら、ラーメン屋とか、スパゲッティ屋でもいいですし」
ラーメン屋、という言葉に、私は足をとめた。
◆
その部品はなんというのですか、と尋ねたら、これは複眼というのです、と返された。
「わかります? ハエとかアリさんとかの、あの複眼ですよ。これをつけて世界を見ると、いろんなことがわかるんです」
商店街を目指して歩きながら、男性は解説を始める。
「例えば、風の行き先だったり、土埃の機嫌の悪さだったり、水が昇っていって、どこに集まって雲になるのかとか、そういうことがわかったりわからなかったりします」
男性は名前をカルラと名乗った。名刺を見せられたのだが、漢字が難しくて読むことができず、音だけ後から教えてもらった。親がつけてくれた名前だから、本当は大事にしたいのだが、一時期「読めない名前の人」というあだ名でいじめられたことがあったそうで、彼は苦笑いを浮かべながら、後ろ頭を掻いた。
「いっつもこのメガネをしているので、最近誰かが《トンボ》って通り名をつけてくれたんですよ。で、トンボって、漢字で書くと《蜻蛉》じゃないですか。結局読めない人には読めないっていう」
それを聞いて、私はクスクスと笑う。
トンボ、なんて、なんだかデッキブラシの魔女と仲が良さそうな名前だ。
「一度勘違いした人に《カマキリ》って呼ばれたことがありましてね。あの時は時代の教育水準の低さに落胆しましたよ、ええ」
カルラさんの話は、結構面白いものが多かった。ずっとひとりで喋り通しているのだが、無口な私としては自分から話さなくてもいいのでとても楽である。カルラさんもなんとなくそれを察してくれているようで、私がなにか発言しそうになると、適宜言葉を区切って、私の言葉に耳を傾けてくれた。
ああ、道を行くひとがまた振り返った。
カップルに見られている、という訳じゃないのだろう。
カルラさんの格好は思っていたよりも派手だった。日陰だったせいで黒に見えていたスーツは、実は黒でなくてとても濃い赤だったし、右手には、竹刀を入れるような細長い袋を持っている。その上、目線には複眼があるものだから、通行人はすれ違うごとに己が目を疑って振り返り、そして驚愕の表情を浮かべて歩き去っていった。
この状態で食事処なんかにはいったらどうなるだろう、と想像して、心がくじけそうになったのでやめた。
「カルラさんって、背高いですよね」
「へ? 背、ですか? いくつでしたっけねぇ……確か前測った時は2メートルくらいだった気がするんですけど……」
「ひゃあ、私とは50センチも違うのですか」
小さいトンネルなどを通過するとき、カルラさんはやや前かがみになっていた。
「羨ましい限りです」
私は背の順で並ぶと、大抵前から6、7番目だった。背の高いスラッとしたクラスメートに、憧れを抱くこともしばしばある。
「うーん、背が高いのもいいことばかりじゃありませんよ? 狭い所には入りづらいですし、狙撃の対象にもなりやすいですから」
「そげき?」
「ああ、いや、こちらの話です。ええ」
狙い撃ちされやすい、ということだろうか。
もてるのだろうか。
友達とかもいっぱい、いるのだろうか。
「やっぱり、羨ましい限りです」
「はあ、そうですか?」
私は背が低い女の子の方が、かわいらしくて好みですけどね。
カルラさんは、フォローのつもりなのか、そんなことを言って首を傾げた。
辿り着いたラーメン店は、辛くて美味しいことで有名なお店だった。開店当初からクラスで話題になるくらい評判で、商店街の活気を賑やかすことに年中無休で役立っているところである。
私はお店の前で立ち止まり、あまりの感動に震えた。
「まさか、ここに来ることが叶ってしまうなんて」
辛いもの好きの私としては、何度も来たい来たいとは思っていたのだが、女性で、しかも一人で行くのは少し躊躇われ、立ち寄ろうとしては店の前を通り過ぎ、立ち寄ろうとしては店の前を通り過ぎる毎日だったのである。それが今日、いままさに、叶う。
「付き合わせてしまって申し訳ありません。そして、ありがとうございます」
私は隣のカルラさんに向け、深々と頭を下げた。
「どういたしまして、と言いたいところですが、最初に助けて頂いたのは私ですしね。今回は私の奢りですから、お好きなものを注文してください」
「そんな、よいのですか?」
このお店の一番人気メニュー、十倍激辛ラーメンは、900円とちょっと高めな値段設定である。
学生の身にはちょっときつい金額だが、それはカルラさんも同じはず。
それでもカルラさんは、
「いいんですいいんです、気にしないでくださいよ。それだけこの〝複眼〟は大事なものでしたし、それになによりも――」
そこでカルラさんは、一度言葉を区切り。
「私は、結構お金持ちですからね」
◆
「それではカルラさん、ごちそうさまでした」
「ああ、ひへひへ、まんぞくそうれなによふぃでふ」
十倍激辛ラーメンを食べ終えて、私は満面の笑みを浮かべて店を出た。いまでもあのこちらを殺さんとする勢いの辛さが、舌の上に残っている。
「しかも、結局2杯分、奢って頂いてしまいました」
「ひふぃんでふよ。ひにふぃないれくらふぁいっれ」
となりのカルラさんはちなみに、言語中枢がおかしくなってしまったわけではない。単に、自分の分の十倍激辛ラーメンを、ひとくち口に入れた瞬間に飛び上がり、結局残りのラーメンを、すべて私に譲ってくれたのだが、その時に舌を破損してしまったらしいのである。
「あー、いやー。それにしても凄まじい辛さでしたねぇ、あれ」
私はその言葉に、しっかと頷いた。
「はい。あれは正真正銘、本物の辛さでした。あの、麺を吸い込む時の、喉が千切れるかのような熱と味。私は永遠に、今日という日を忘れられないでしょう。とてもいい気持でした」
「え、あれ、そういうキャラ、でしたっけ……?」
私は腕時計を確認した。
「5時、ですか。いけません。私は門限がありますので、そろそろお暇いたします」
「あ、そうですか? 早いんですねぇ、門限。私なんか翌朝に帰ったって怒られたりしませんでしたけど」
「ダメですよ、カルラさん。5時までに帰らなければ、私はアニメを見ることができなくなってしまいます」
「ああ、セルフなんですか、門限」
私は強く頷いた。
「では、お家までお送りしましょうか? 夜道は暗いですし、この辺は結構物騒ですしね」
親切にも、カルラさんが提案してくれる。
「いいえ、それには及びません。2杯もラーメンを奢って頂いて、なおかつ家まで送ってもらったとあっては、私はあなたのことが好きになってしまいます」
「え、それはなんというかその、随分とちょろいですね」
「ふ、もちろんジョークですよ、カルラさん」
「ああ、そうなのですか。残念です」
ふふ、と私たちは小さく笑った。
「それではまた、縁が合ったらお会いしましょう」
「ええ、そうですね。本日はありがとうございました」
「いえいえ、こちらこそ。それでは」
別れ、私は家路に、カルラさんは駅へと向かった。
ラーメンの味を思い出し、くふふ、とにやけながら歩いて行って、ちょっと勿体ないことをしたな、と思いつく。携帯の連絡先などを交換しておけば、もしかしたら楽しい友達がひとりできていたかも知れないというのに。自分はそういう大事なところで、ちょっとした気が回らない。次、もし本当に縁が合って、どこかで偶然出会うようなことがあったなら、その時こそはっきり、友達になってくださいと言ってみよう。
「来たぞ」
そんなことを考えながら、公園の前の道に差し掛かった時だった。
「おい、嬢ちゃん! ちょっと待ってくれねえかな?」
ベンチに座っていた男に、私は呼びとめられた。
「はい? なんでしょうや?」
「なんでしょうや、じゃねえ。面貸せつってんだよ」
「はあ、それはまた、なぜでしょうか?」
見れば、公園にはまだ複数の男がいたらしく、すぐに周囲を取り囲まれる。ざっと数えただけでも9、10人以上。その表情や挙動から察するに、どうやら穏やかな理由で呼びとめたわけではないらしい。
「婦女暴行、なのですか?」
「あぁ? なに舐めたこと言ってんだてめぇ」
私がおずおず尋ねると、目の前の、大柄な男が声を低くする。
そう言われても、他に絡まれるような覚えもないし、自分のようなお金もちでもない女の子を呼びとめる理由など、それしかないと思うのだが。
「やめたまえ、怯えているじゃないか」
男の集団をかき分けて、白ラン姿の男が姿を現した。白ランの言葉に、ドスを効かせていた男が引き下がる。
「やあ、初めまして。いきなり呼びとめてしまって申し訳ない。私はここら一帯の暴力団幹部、増岡修三といいます。以後、お見知りおきを。といっても、そんな知識を使う必要なんて、これから先にはないでしょうがね」
「はあ、増岡さん、ですか」
「よろしければ、ゾウさんとお呼びください」
「それは遠慮します」
「えー、けちー」
不貞腐れる自称ゾウさん。
誰が呼んでやるというのか、そんな不吉な名前。
「それで……私はどのようなご用件で呼びとめられたのでしょう?」
「ああ、そうでしたね。そうです。ちょっとお時間を頂きたいのですよ。具体的には、今日あなたの身に起きたことについて、お話が聞きたいのです」
「ですが、もうすぐアニメが始まってしまいます」
「後ほどDVDを買って差し上げますよ、BOXで」
「行きます」
ちょろい私だった。
それにしても、朝授業が休講になったのをいいことに、男の人とラーメンを食べに行って、しかも奢ってもらってしまって、あまつさえ、やくざ屋さんの男たちに囲まれて、物で釣られて付いていくという、今日この頃。
お父さん、お母さん、私は親不孝ものですか?
やくざ屋さんの輪の中で、お星様に問いかけてみようとするも、曇っていたためか、空に星の姿はなかった。
◆
いわゆる事務所というやつだろう。大勢の男たちと車に乗って、数分むぎゅうと揺られていると、私たちはどこだかわからない繁華街の、どこだかわからない建物に到着した。思いのほか大きなビルで、びっくりする。
「ささ、こちらです。降りてください」
降りたかったが、男たちの肉が邪魔で動けない。
「あの、肉が邪魔です」
素直に言うと、
「あんだとテメェぶっ殺すぞちきしょーッ!」
と返された。
しかし、彼が邪魔で皆が迷惑しているのは事実である。
助手席に乗っていたため、一足先に外に出られていた修三さんが、やれやれといった風に首を横に振った。
「仕方ないな。おい、ノブ、お前いますぐ痩せろ」
「え、ちょ、そんな無茶な」
「三分やる。できなければ、お前が後生大事に育てたシーマンのデータがどうなるか、わかっているな?」
「う、うおおおおおおっ! うおおおおおおおおお!」
ノブさんはみるみる痩せていった。お陰でドアに隙間ができ、詰め込まれた男たちが順に降りれるようになる。
「おお、やればできるじゃないか、ノブよ」
ぜぇ、はぁ、と息を荒げるノブさん。
「い、いやあ……それほどでも……ないっすよ……」
そう言ってどこか誇らしげな表情を浮かべるノブさん。うむ、と修三さんは頷いて、
「ああ、そういえばお前のメモリーカードな。シーマンのデータが入っているなら泳ぐんじゃないかと思って、こないだ酔った拍子に水槽にいれてみてしまった。すまんな、ノブよ」
「ええぇぇぇえぇえ!?」
絶叫するノブさん。
「い、いまは! いま現在、メモカはどこにあるんですかっ!?」
「ん? おお、そういえばそのままだった。多分水槽に入れっぱなしだ」
「どうしてすぐに回収しないのっ!?」
「ほら、あまり叫ぶな。近所迷惑だろう」
くずおれるノブさん。ちょっと可哀そうである。
「ほら、行くぞ」
「……うぅ……こないだやっと成体になったのに……」
ビルの奥まったところまで案内すると、修三さんは手下に指示を飛ばした。
「そういえば、お嬢さん。お名前は」
「渡柏きなこといいます」
「ああ、そうですか。随分と甘そうな名前ですね」
「それほどでは」
しばらく静かに待っていると、数人の手下が縄を持ってきた。
「緊縛を、するのですか?」
私が問うと、
「いえいえそんな、滅相もないですよ。ただ、ちょっと勝手に動けないようにしておこうかな、と思いまして」
「それを、緊縛というのでは」
「あ、動かないでくださいね」
「すみません」
そうしてぐるぐる巻きにされ、私はどうなったかと言えば、ソファに座らされたままだった。お茶が用意されたが、手が封じられているので飲むことができない。
「では、早速ですが本題にいきましょう。あなたは、この男を知っていますね?」
修三さんは懐から写真を取り出して机に置いた。
映っているのは、深い赤色をしたスーツ姿の長身の男で、スキンヘッドの顔には、マイクの上の方を二個横にしてくっ付けたかのようなメガネが付いている。
「これは、カルラさんですね」
「我々は〝トンボ〟と呼んでいます」
「おお、では貴方が」
通り名をつけてくれた、とカルラさんは言っていた。
「ちなみにこっちの奴は、《蜻蛉》をカマキリって呼んだことがありましてね」
「ちょ、修三さん、そりゃ言わないでくださいっていったじゃないですか。あと、俺のメモカどこっすか。水槽にないんすけど」
ノブさんだった。
いじられキャラなのだろうか。
「で、カルラさんがどうかされたのですか?」
「ああ、そうでしたね。そうなんですよ。実はこの男は、凄腕の殺し屋でしてね。この界隈では恐れられている男で、我々は彼をどうにかして倒そうと考えているんです」
「え」
私は渡された名刺になんと書いてあったかを思い出してみる。職業欄には確か、なんでも屋、と書いてあった気がするのだが。
「本来彼はなんでも屋なんですけどね。依頼されるのが暴力団の摘発ばかりで、しかもなまじ強いからでしょう。いつしか我々の間では、殺し屋で通っちゃう感じになっちゃいました」
「…………」
なっちゃいました、じゃないだろう。
「それは、つまるところ。貴方たちがいろんな人に嫌われているのがわる――」
「わーわー、きこえないきこえなーい」
修三さんは耳をふさいで奇声を発した。
卑怯な。
「まあ、そんなわけで我々はあの男の動向をずっと追っていたわけなんですよ。そうしたらあらびっくり! どこの誰とも知らない女の子にラーメンなんか奢っている。それも2杯です! もしかしてぇ? おやおやもしかしてぇ? 恋人なのかー、みたいな? そういう関係なのかー、みたいな!? いや、きっとそうだ! そうに違いないっ!
そう思った私たちは貴方を人質にして奴を倒し、裏暴力団会の新生児になろうという計画を立てたわけです。お分かりですかな?」
「…………」
お分かりですかな、じゃないだろう。
いや、もう突っ込まないけど。
「ちなみに、ラーメンを奢ったというのは、どうして分かったのですか?」
するとノブさんが手を上げた。
「はいはい! 俺が店内で見かけたんだ! あいつが自腹でラーメンを奢り、あまつさえ、自分の分までそいつに食わせているところをな! 900円だぜ、900円! 合計で1800円だぜ!? こんなの奢るなんて、彼女しか有りえねえっつの!」
「…………」
なんというか、バカばっかりだった。
「ふふ、私たちの作戦が恐ろしすぎて、声も出ないご様子ですね。ですがもう遅いですよ。今彼に電話をいれているところです。人質を返して欲しくば来い、とね」
その時事務所の扉が開いて、部下がひとり入って来た。
「修三さん」
「なんだ。どうかしたのか?」
「トンボが、人質の声を聞かせろと言ってきてます」
「ほう、そうか。いいだろう。すこし話させてやれ」
すると手下さんが私の耳に受話器を当ててくれる。
受話器からは、気まずく言い淀むような沈黙がしばらく流れ、
『あー、もしもし、きなこさん……ですか?』
申し訳なさ気に萎んだ、カルラさんの声がした。
「どうも。お久しぶりです」
『お久ぶりです、っていっても一時間ぐらいしか経ってませんけどね』
はは、は……と元気なく笑って長い溜息をつき、
『すみません。やっぱり送っていくべきでした。きなこさんを危険な目に合わせてしまったのは、私の責任です』
「いえいえ、別に気にしていませんよ。ちょっと緊縛を施されたぐらいですから」
『き、緊縛!? 縛られている、ってことですか?』
「はい、今まさに」
なんということだ、と絶句するカルラさん。
『ほ、他に! 他にはなにか、変なことは! 危害を加えられたり、怪我をしたりはしていませんか!?』
「いいえ、別に。ただ、車の中ではちょっと、ノブさんのお肉がぎちぎちしてきて痛かったですけど、怪我ができるほどでは……」
『お肉が! ぎちぎちで! 痛い!』
再び絶句するカルラさん。
受話器から遠い所で、なんという外道どもだ、という声が、聞こえたような聞こえなかったような気がする。
『本当に、面目次第も御座いません。きなこさんの心と体に、一生消えない傷をつける結果になってしまった』
「いえいえ、お気になさらず」
『気にしますよ!』
カルラさんは、ふぅ、と自らを落ち着かせるように息を吐いた。
『いますぐ助けにいきますよ、きなこさん。この私の、《トンボ》という通り名にかけて。ドラゴンのように飛行して、あなたの元に駆けつけます』
格好良い台詞を、割とナチュラルに告げてしまうカルラさん。いや、その〝かける〟はちょっと意味が違うような気もするのだが。シチュエーションのせいだろうか。私はわずかに照れてしまう。
「焦らなくてもいいのですよ? 事故を起こしたりしては危ないですし」
『この状況下で私のことを心配するなんて、まったくあなたは優しいお人ですね』
ふふ、と笑うカルラさん。
『まあ、でもきなこさん。事故についてはお気になさらなくて結構なんですよ? 私には〝複眼〟がついていますからちょっとやそっとのことでは事故なんて起こしませんし、それに――』
その時、フロアの電気が一斉に消え、事務所の壁の一部が、木端微塵に吹き飛んだ。盛大な土煙が舞い上がり、壁の残骸が窓や花瓶にぶち当たって、さらなる破壊を産む。砕かれた窓から風が入り込み、発生した土煙を吹き飛ばす。もう、と立ち込めてうねりを上げた煙幕の向こうには。
「実はもう、来ちゃってますから」
緋色のスーツを身に付けた、カルラさんが立っていた。
「カルラ、さん!」
「撃てぇッ!」
ガンガンガン、と発砲音。
見れば周囲の男たちは拳銃を握り、その銃口をカルラさんに向けている。そして、なんの気遅れも躊躇もなく引き金をひきしぼっていた。
「カルラさん!」
私は思わず目を塞ぐ。
キンキンキンッ!
しかし断末魔の声は上がらず、代わりに甲高い、金属同士の衝突音が連続して鳴り響いた。弾幕がはれると、そこには変わらず佇んでいるカルラさんの姿がある。
やくざ屋さんたちは皆一斉に顔に疑問符を浮かべ、信じられないというような面持ちで目の前の光景を見た。
「初速250m/毎秒、といったところでしょうか? 遅いですね、遅すぎます」
カルラさんがにやりと笑う。
「おいてめえら、なにをしてる!? 構わず撃て!」
やくざ口調になった修三さんがゲキを飛ばし、手下さんたちは銃撃を再開する。
「おおぉら!」
「ぶっ飛べやっ!」
しかし今度の銃撃でも、その弾丸がカルラさんに届くことはなかった。
私も今度こそ、目を閉じずにそれを見る。
ゆらゆらと左右に大きく揺れて、手にした刀を、一見滅茶苦茶な軌道で振り回すカルラさん。
しかし、当たらない。
背後の壁には弾痕がいくつも出来上がっているというのに、カルラさんだけが倒れない。
「ま、まさか……」
弾丸を、叩き落としいているのか?
やくざ屋さんたちも、何かがおかしいということに気付いたようだった。弾丸も、撃ち尽くしてしまったのだろう、銃撃の音は生じない。
カルラさんはやくざ屋さんたちを一瞥し、もう彼らに戦意が残っていないことを見てとったのか、ふぅ、と一息、溜息をついた。
「さ、本日はこれでお終いです。きなこさんを返してください。さもないと私――」
〝複眼〟をキラリ、光らせて。
「怒っちゃいますよ?」
ごごごごご。
そんな効果音が聞こえてきそうな、重い声を発した。
たじ、とやくざ屋さんたちが後ずさる。それを降参と受け取ったのか、カルラさんは私のもとに歩み寄ろうとする。そして――
「ちょっと待って頂けませんかね、トンボ」
修三さんだった。
私の背後に回って懐からドスを取り出す。
「ああ、修三さん。ご無沙汰ですね。いい加減にしてくれませんか、こういう嫌がらせ」
修三さんは私の首にドスを突き付け、にやりと笑った。
「こっちには人質がいるんですよ? あんまり調子に乗らないでもらいたいな」
修三さんがドスを煌めかせる。
「お前の秘密は分かっていますよ、トンボ。さあ、その〝複眼〟をこちらに渡しなさい。そうしたら、彼女のことは助けてあげます」
じり、と足を止めるカルラさん。
「く、どこまでも卑怯な男ですね、修三。なにが望みですか」
「ふ、俺はな、まだ根に持っているんだよ。忘れたとは言わせないぞ! あの出来事をな!」
修三さんは、どうやらカルラさんに因縁があるらしい。
「あれですよね? 貴方が私に、マリカーでいつも負けていたことですよね?」
カルラさんが澄まし顔で答える。
ジョークで相手を挑発するなんて、カルラさんらしくないな、と思っていたら。
「だって悔しいんだもん! なんでお前あんなバナナ使うの上手いの? 信じらんないよマジで」
なんか、本当のことらしかった。
「……小さい男ですね」
「なにか言ったか人質コラァっ!」
激昂する修三さん。
「で、どうするよ、トンボ。人質と、そのちゃちなメガネ、どっちを取る?」
「くっ」
カルラさんは躊躇っているようだった。
当然だ。私が人質に取られている以上、いくら複眼があるとはいえ、カルラさんはうかつに動けない。しかし複眼を差し出したとしても、この器の小ささでは、修三さんに私たちを見逃す気があるかどうか疑わしいし、なにより複眼を回収することができなくなってしまう。
私は言った。
「私のことはいいですから、この矮小な男を倒してください!」
「いや、それはできません。確かにその男は卑劣な矮小男ですが、あなたの命がかかっているんですよ?」
「なんなのお前ら助かる気ないの!? バカなの!?」
修三さんが吠える。
「仕方ないな」
そう言って、カルラさんは複眼を外してしまった。つぶらな瞳があらわになって、修三さんがニヤリとほくそ笑む。
「ふ、これでお前はお終いだ、トンボ。散って行った俺のヨッシーとクッパの恨みを、とくと思い知るがいい」
ははは、と高笑いをし始める修三。
っていうか、タイプが全然違うんだけど、その二者。爬虫類好きなのだろうか。
「さあ、彼女を放してください」
「おお、そうだったな。そらよ」
縄でぐるぐるにされたまま、しかし解放される私。それをカルラさんは受け止める。
「大丈夫でしたか?」
「ええ、私は大丈夫でございます」
私は頷く。
「ですが、大事な〝複眼〟が」
そういうとカルラさんは、気にしないでください、と首を振った。
「でも」
「いえいえ、いいんですよ、きなこさん。貴方が無事なら」
「カルラさん……」
「それに〝複眼〟は、こういうときのために、重要なんですからね」
「え」
それってどういう……。
「ふはははは、トンボォ! 最後のお別れはすんだかぁ!?」
げらげらと、下品に修三が笑う。
「おいおいお前もついにモウロクしたみてえだな! 俺様が本当にお前らを助けるとでも思ったのかよ!」
彼の手には、いつの間にか大きな銃が握られていた。確か、りぼるばーとかいうやつである。
修三さんが私たちに照準をつけ、笑う。
「さ、安らかに――」
一言。
「眠りなっ!」
と、突然そこで、カルラさんが笑った。
「お前がな」
どん、と轟音が室内に響き渡る。その発生源は銃口ではなく、私の背後。驚いて振り向けばそこにカルラさんの姿はなく――
「な、お、お前、いつの間に!?」
修三の背後にまで、カルラさんは一瞬で移動してしまっていた。
「〝複眼〟がどうして重要なものなのか、貴方にはまだ教えていませんでしたね?」
カルラさんは拳銃を握っている腕をひねり上げ、
「ブラフに使うためですよ」
修三の首を殴り、気絶させた。
◆
ボロボロになったやくざ屋さんの事務所。壁にかかっていた絵には穴があき、花瓶や水槽は割れ、壁には風穴があいて、床には伸びた男たちが七人。そして、私とカルラさんは、割れた窓の前に隣り合って腰を下ろし、空を眺めていた。
「いやあ、それにしても」
カルラさんが、後ろを振り向きながら言う。
「なんだか大事に、なっちゃいましたね」
ふぅ、と溜息。
「いえ、格好良かったですよ、トンボさん」
「はは、よしてくださいよ。なんか、迷惑もかけちゃいましたし」
時刻はすでに、夜の9時を回ってしまっている。自分で設けた門限どころか、親が決めた門限すらも破ってしまっていた。これでは家に帰って、こっぴどく怒られてしまうだろう。
カルラさんは渋い顔をした。
「これからは、人にお礼をするのも、ちょっと考えなければいけませんね。下手に関わりを持ってしまうと、こういうことになってしまう」
だが、私は。
「いいえ、今日は本当に楽しかったです。カルラさんが私にお礼をしてくださらなかったら、私はいまだにラーメンも食べられず、こんな賑やかな夜もすごせなかったでしょう」
これを賑やか、というにはちょっと暴力の匂いが強すぎるかも知れないが。それがいまの素直な気持ちだった。
「あ、そういえば、忘れていました」
私はふと思い出し、自分の携帯電話を取り出した。
ぴこぴこといじって、赤外線通信の画面を呼び出す。
「カルラさん、私とアドレスを交換してください。お友達になりましょう」
割と勇気を振り絞り気味で、一息に言う。こういうのは勢いが重要だ。一度躊躇ってしまったら、二度と言えなくなってしまう。
でも、それに対する返事は、
「ああ、すみません、きなこさん。私、携帯持ってないんです」
「……そう、なのですか。それは――」
残念です、と言えなくて、私は思いのほか、本当に残念に思っている自分に気付いた。
思えば、本当に楽しい一日だった。
学校に行って授業を受けて、アニメを見て。その繰り返しで満足していた。満足しようとしていた、いままでの自分。自分から誰かに話しかけようとしない。自分から楽しいことを見つけようとしない。そうしているのが楽だから、そのまま生きていて問題はない。そう、無理に思いこもうとしていたのかも知れない。本当は友達が、欲しかったくせに。
だから。
「それは――嫌です」
頑張って、もう一言。
「もう会えないのは、嫌です。またもう一度、あなたとどこかへ行きたいです」
我がままでも、自分勝手でも。
「だから私と、友達になってください」
間違っていても。邪道でも。
私はそう言って、カルラさんを見た。
「危険ですよ、またこういうことがあるかも知れません」
「いいです」
「アニメが見られなくなるかもですよ?」
「録画します」
「じゃあ――」
カルラさんは、立ちあがり、なにか否定の言葉を探すような素振りで口を開けて。
「…………なんの問題も、ないですね」
結局そこに、いきついてくれた。
「どうすればまた、会えますか?」
私は疑問をくちにする。
そうですね、とカルラさんははにかんだように笑って。
「呼んでくれれば、いつでもいきますよ」
にっこり。
十二月二十四日。
午後九時三十五分。
私にはひとり、ユニークでとても背の高い、
「じゃあ、そろそろ行きましょうか。家まで送りますよ」
「はい、喜んで」
友達が、できた。