魔王の鼓動
ゆらゆらと、揺らめく世界を見ていた。
ひどく曖昧に、記憶がかすんでいる。それは間違いなく重要な記憶で、自分を構成する、確かなモノ。
だが、思い出せない。まるで夢を見ているかのように現実味のない世界。
「――お前がいなければっ!」
「人類の敵!」
「私たちを裏切ったのね!」
罵倒。ありとあらゆる雑言が降り注ぐ。だが彼がそれをどこか冷めた目で眺めているのは、記憶があいまいで、現実味がないせいだろう。
「この裏切者!」
石が投げられる。
(ああ、そうか)
彼が思うのは憤りや憎悪ではなかった。悲しみと諦めと、後悔。
「俺を裏切れ、みんな――」
彼の口が動き、思いを伝える。ここにいないはずの仲間の顔が浮かび、悔しそうに彼らは彼を見捨てた。どうしようもない現実と戦うために、大切な仲間を見捨てた。
意識が浮上する。曖昧な風景が遠ざかり、彼は目を覚ました。
† † † †
起きてすぐに感じたのは、匂いだ。食欲をそそるいい匂いが漂っている。穀物系のスープだろうということはわかるが、それ以上のことはわからない。俺は何度か鼻を鳴らすと、ゆっくりと上半身を起こす。俺の体を覆っていた柔らかい布が滑り落ちていき、そのときようやく俺は自分が何も着ていないことに気づいた。
「あら、起きたのね」
女性の声が響く。俺は慌てて布の位置を確認し、下半身がしっかりと布で覆われていることを確認した。上半身は見えてしまっているが、まあギリギリセーフ、だろう。
「……あなたは……?」
「私はフルーシェと申します」
「フルーシェ……?」
聞き覚えのある名前だ。どこかで聞いた覚えはあるのだが、まだ寝起きで頭が動き切っていないのか、いまいち思考がはっきりしない。
というか――俺は……? 俺は、ルイド……か?
「私もまさか、全裸の男性が倒れているとは思わなかったので、男物の服はありませんわ。しばらく布で我慢してくださる?」
「……感謝する。で、ここはどこなのだ? 見たところ、貴女は魔族のようだが」
俺の中にある記憶を思い出してきた。俺は『千魔』ルイドとして生きて、その記憶はある。ただ、自分のことというよりは誰かの記憶をのぞき見したような感じだ。だが、間違いなく俺は『千魔』ルイドである――。
「ここは魔族領。魔族領の王都、デベリアルよ。あなた、郊外の街道に寝ていたのよ。素っ裸で。私が通りかからなかったらどうなっていたか……」
「……感謝する」
俺は改めて自分の体を見る。起きた直後は気づかなかったが、俺の体は『千魔』ルイドの時のそれとは大きく異なっている。人間としては高めの身長に、がっしりとした筋肉、体つき。そして何より、体内で渦巻く魔力の量。
人間だったときと比べて、大きく増えている。
「……俺は、魔族になったのか?」
「え? どこをどう見ても魔族よ、あなた」
フルーシェと名乗った女がきょとんとした顔で指摘してくる。魔族の眼から見て魔族ならば、やはりこの体は魔族のモノなのだろう。
だが、『俺』は死んだはずだ。あの時――処刑台で、首を落とされて。
「うっ……!」
「ど、どうしたの? 大丈夫?」
俺は吐き気を堪える。俺を見つめる、憎悪に満ちた目。すべての不都合を俺に押し付け、些細な不満すらも俺のせいにして石を投げつけてきた民衆の目、目、目。だがそれよりも辛いのは、『俺』が信頼して、信頼されていた人たちの、失望した目だ。
四人の仲間たちは決して俺に憎しみの眼を向けなかったが、あそこまでの状況になってしまえば、俺を救う手段はない。葛藤しながらも――俺はそう信じているが――俺を切り捨てて、生き残る方法を選んだ。最終的にそれを選択したのはケトリアスで、シェリルは最後まで反対していたが――
「だい、じょうぶです。助けてくれて、ありがとうございます。フルーシェさん」
「……うん。じゃあ、名前を教えてくれる? 君の名前」
名前?
俺の脳裏をよぎったのは、憎悪とともに俺の名前を呼ぶ民衆たちの姿だ。もう、あの名前で――呼ばれたくはない。
「なま、え……」
「名乗りたくないなら、それでもいいわよ? もし何か企んでいたとしても、あなたに負けるほど、私弱くないし」
「そう、ですか」
ルイド、という名前には意味がある。『ルイ』は夜闇を示し、『ド』は道を示す。暗闇の中でも、道を見失わないように、と名付けられた名前だ。あのクソ師匠らしい、古代の言語を使った名づけだったが、俺はわりと気に入っていた。俺もクソ師匠も、お互いに道を見失うことだけはなかったからだ。今はほとんど、名前に意味を持たせる人間はいない。響きやリズム、もしくは偉人にあやかった名前にするのが一般的だ。
「ルディアス。ルディアスと、そう呼んでください」
「了解、ルディアスね。私はフルーシェ、《弓》のフルーシェ。よろしくね!」
弓のフルーシェ。弓の、フルーシェ?
「柱の……!?」
「あら、ようやく気付いたみたいね。そう、魔族が一柱、《弓》のフルーシェ。相方は《魔装ベルミスト》」
優雅に笑ったフルーシェは、その手に鮮やかな紫色の弓を出現させた。背中からは魔力翼が吹き出し、その膨大な魔力に空間が軋む。圧倒的なまでの魔力が外部に固定化され、あまりにも集中している力に、世界が悲鳴を上げているかのような錯覚すら覚える。
「よろしくね、ルディアスくん!」
「……くん……」
「これでも私は――えぇと、40年は生きてるのよ?」
嘘つけ、と俺は心中で毒づいた。《弓》のフルーシェと言えば、俺が生まれる前から《弓》の頂点に立ち続けている魔人だ。数百年単位で武を極めることが常識の魔族の中で頂点に立つということは、それ以上の年月を生きているに決まっている。見た目は若いが中身は――
「――ルディアスくん?」
俺は顔をかすめてベッドに突き刺さった矢を確認して、すぐに両手を上げて降参の意を示した。全く動きが見えなかった。笑顔で脅しつけてくるフルーシェを見て、俺は改めて納得した。
この脳筋直情径行タイプ、間違いなく魔族であると。
「よろしい。それじゃ、食事にしましょ?」
「助かります、フルーシェさん」
「最近は魔族の間でも農業がブームでね、食卓も豊かになって嬉しいわぁ」
そういえば、そんなこともあったな。
人間たちと交流するなかで、今まで食事は『腹が減ったら動物を狩って食う』みたいな生活をしていた魔族たちは、農業に興味を示した。今まで自分たちが適当に狩っていた食物を、食べられない状態から食べられるようになるまで育てる、という行為が新鮮だったようだ。
そして巻き起こる、一大農業ブーム。そして長い時を生きる彼らにとって、新しいことは試行錯誤するのが楽しい、とのこと。人間のアドバイスを一切受け入れず、見様見真似で農業を開始。当然うまくいかず、失敗を続け、彼――ルイドが死ぬときには、ようやく収穫できるようになってきた、くらいのレベルだったはず。
「はい、あーん」
俺は目の前に差し出されたスープを見る。そして笑顔でスプーンをこちらに向けて差し出しているフルーシェを見た。
「いや、自分で食べれます」
「命の恩人の言うことが聞けないの?」
それを言われると何も言い返せない。俺は表情で不満を伝えるに留め、目の前のスプーンをくわえてスープをすする。美味しい。
「笑顔で」
注文がついた。
俺は頑張って笑顔を浮かべてみるが、さすがにこの状況で満面の笑みは作れない。ひきつった笑みになってしまったが、フルーシェはとりあえずそれで満足してくれたらしい。3回ほどスプーンを俺の口に運び、そのあとはお互いに普通に食べ始める。
「あなた、どうしてあそこで倒れてたの? 魔武戦はまだ先よ?」
「いや……」
うーむ。元人間だったとか言っても信じてはもらえないよな……。
「それが、全く覚えてないのですよ」
「……本当に?」
「あそこにどうやってたどり着いたのか、なぜ服を着ていなかったのか、何を目的にしていたのか、名前すらも……」
全て、本当のことだ。
俺はルイドという男ではない。いや、ああ、確かに俺は『千魔』ルイドだったのだろう。裏切られて殺された記憶も、操心族の脅威も、魔術の知識も確かに残っている。
だが、今ここにいる魔族の男は、決して『千魔』ルイドではない。断じて違う。
「ふーん。奇妙なこともあるのねぇ」
フルーシェはそう呟くと、自分の使った食器を片付け始めた。
「え?」
普通もっと警戒するなり問い詰めるなりすると思うのだが。
「もっと警戒するべきだ、って顔してるわねぇ。私の経験上ね、よく喋るヤツほど後ろ暗くて、言葉が少なくて信用できないな、って人ほど真面目で真剣なのよ」
俺の中にいる『千魔』ルイドとしての記憶が、拍手喝采をしている。まさに、よく喋るヤツほど――ろくな相手ではなかった。
「少なくとも、あなたに危害を加える気はありません、フルーシェさん」
「加えることはできません、の間違いでしょ? まあ困ったときはお互いさまだし、私も最近暇だったし。料理の感想係としてなら、ここにいてもいいわよ」
「とっても美味しかったです、フルーシェさん」
「そう」
ほめたのに嬉しくなさそうな顔をするフルーシェに首を傾げながらも、俺はベッドに倒れた。体が急に動かなくなったのだ。まるで、この体を動かすことを、何かが拒否しているように――
「お疲れね。今日はもう眠りなさい、ルディアス。あとは私がやっておくから」
優しい声色で話しかけるフルーシェにお礼を言おうと口を開くが、喉から言葉は出てこなかった。そして俺は糸が切れるように、眠りに落ちていった。
† † † †
「始めまして、というべきか? ようこそ、『俺』」
俺の前に立っているのは、全身に青黒い紋様を纏った男だった。その身から感じ取れる魔力の量は少ないものの、全身から凄まじいまでのプレッシャーを放っている。俺はとっさに戦闘のために体勢を整え、全身に魔力を巡らせた。
「……誰だ、お前は」
「知っているだろう? 俺の記憶を持っているのだから」
わかっていた。俺の前に立つ『俺』は、かつて魔術を極め、操心族に扇動された人間に裏切られて殺された英雄の一角。
龍殺しの魔術師、永久機関、千の魔術を持つ男――様々な二つ名で呼ばれてきた、最強に比肩する魔術師。
『千魔』ルイド。
「……どうなってるんだ。どうして俺がそこにいる?」
「さあな。詳しいことはわからないが、予想はつく。いわゆる転生、ってやつだ。あらかじめ魔族の体があったのか、新しく生まれたのかは知らないがな」
前に佇む『俺』は、皮肉げに笑いながら仮説を述べる。俺はただそれを聞いていた。魔術師としての知識と経験があっても、思考を続けたくなかった。
「お前は、なんだ?」
「そいつは難しい問いだな。ああ、それは難しい。俺はお前で、お前は俺だ。それだけは、感じ取れてるだろう?」
その通りだ。理屈ではわかっていないし、頭でも納得はしていない。だが、体の奥底から訴えかけてくる者がいる。目の前の男は俺であり、別の何かでもある、と。
「――ルディアス。お前に俺の記憶があり、俺にはお前の記憶がある。だからこそ、お前は俺だ」
『俺』――いや、ルイドは笑う。
「お前は無意識だったかもしれないけどな、『名前をつける』って行為は、魔術的には深い意味がある。どんなに意味のない名前でも、そう呼ばれている限りは存在を固定化される。違う名前を名乗ったお前と俺は、部分的には別人ってことだ――ルイドという人格をベースに生まれ、派生した、ルディアスっていう別人だな」
そんなことはない、と俺の深い部分で叫ぶモノがいる。だが、それはそうかもしれない、と納得している俺もいる。
「だから、お前は俺であり、また同時に別人でもある。ひどい矛盾だよな?」
「……ああ。それは、ひどい矛盾だ」
俺は頷く。
「お前はルイドでありながら、俺の人生を否定した。『こんなはずではなかった』、と」
「――ああ」
「別人として、ルディアスとして生きていく選択をした」
「――ああ」
「だったら、乗り越えろ。俺を乗り越えて、取り込んで、ルディアスとしての人生を歩め」
『千魔』ルイドが腰から剣を引き抜いた。鈍く光るそれは、非常に無骨なつくりをしている。俺は、無言で拳を構える。剣なんて握ったこともない。それはそうだ、ルディアスという存在はつい先ほど生まれたばかりなのだから。だが、ルイドとしての経験がある以上、握ればある程度は使えるだろう。本家には、敵わないとしても。
「行くぞ」
ルイドの全身に刻まれた青黒い紋様が光り輝き――戦闘が始まった。