ヴィリス王立学院 -述懐-
トルニクス・ル・グェルキア=ヴィリスという少女は、かつての名前をトルニクス・ル・グェルキアという。グェルキア家の側室が産んだ、次女である。本来であればそれなりの教育を施し、どこかの貴族家に嫁ぐ運命だった彼女の扱いは、雑ではないが丁寧なものではなかった。食事も環境もそれなりで、母も父も特に彼女に特別な何かを向けることはなかった。
幸いにして不幸なことに、彼女は凡才ではなかった。非常に明晰な頭脳と、思慮深い配慮を持っていた。彼女は4歳にして自分の立場をわきまえ、あまり話さずに育っていくようになる。あまり手のかからない少女であった彼女は、ますます相手にされなくなっていった。そして、5歳の時に、屋敷に訪れたのは魔法使いの女性だった。
『トルニクス・ル・グェルキア。あなたに、『ヴィリス』の性を与えます――』
王のそばに仕え、最強の力を振るう魔法使いの頂点、《劔》。最年長は《落天》だが、最も王に近い彼女の権力は計り知れない。魔法使いは魔法使いの誕生を感じ取ることができるが、それは一定の力に達したときであると言われている。当時、すでにトニは現実のものと区別がつかない幻影を生み出せるようになっていた。
この魔法が判明したときの、グェルキア家の動揺っぷりはひどかった。特に害のない中堅貴族の幼女が、いきなり魔法の力に目覚めたのだから、大なり小なり嫌がらせや圧力があった。権謀術数渦巻く貴族社会において、グェルキア家はすぐに疲弊した。そして、やがて両親は精神を患う。
今まで平和に暮らしてきたグェルキア家が、一転して地獄のようなストレスに晒される日々。ただふつうに領土を守り、社会を渡ってきた当主は、耐えられなかった。そのストレスはやがて怯えと恐怖となって彼を襲う。魔法使い朧影が、暗殺してくるという恐怖である。
当時の人間は、ほぼ全員が腫物のように彼女に接した。魔法使いでなかった期間すら、内心を見せなかったトニは、信頼してくれる人間がいなかった。今更本心を晒したところでもう遅い。
表情すら幻影で作られたものではないか――猜疑心にとらわれた妄想が、人の心から離れることはない。
やがてトニの両親は自殺。グェルキアの当主は、今現在名目上はトニになっている。実際は家臣団が領地の経営などを回しており、近いうちに取り潰しもあり得るともっぱらの噂だ。トニとしては、別になんでもよかった。魔法使いとしての立場が、彼女の将来を約束している。
トニが唯一対等に話せる相手は、同じ魔法使いたちである。
ただ、《轟雷》は実際に会って話を聞くと、嫌悪感しかわかなかった。
《落天》はこちらの話をほとんど聞いていない。
《爆焔》は国内を回っているため、会う機会はまずない。
《劔》は話を聞いてくれ、また王都にいるため話すこと自体はある。ただ、彼女は王の護衛という最重要任務があるため、そう頻繁に会える相手ではない。そんな《劔》が、教えてくれたのだ。
「あの《轟雷》を倒したやつが、学園に来るらしい」
「え? 新しい、魔法使い、です、か?」
「いや、それがどうも違うらしい。強者狂いのウルベルグ伯が言っているんだから本物だとは思うんだが」
話を聞いてくれている《劔》には悪いと思いつつも、トニは何度か彼女を試したことがある。彼女は不思議とトニの位置を把握しているものの、幻影自体を見抜く力はない。何度かの邂逅でそれは確認した。
(なんだ……ダメ、なんだ……)
そのときトニの心を覆ったのは、失望と自己嫌悪だった。勝手に人を試した罪悪感と、最強の魔法使い《劔》でも、自分の作り出した幻影を見抜くことはできないのか、という失望。
そしてこのころになると、彼女の力を知った貴族たちがそれを様々な形で利用しようと近づいてきていた。いくら魔法使いと言えども、所詮は子供。そう侮って利用しようとした貴族は、もれなくトニの隠密調査によって弱みを握られている。トニは普段から幻影を多用し、決して本人の居場所を明かさない。そんな彼女を、葬ろうとする貴族はすでにいなくなっていた。
ただ、トニは誠実に取引を持ち掛けてくる貴族には、誠実に応え続けた。トニにとってなにより欲しかったのは、『トルニクス・ル・グェルキア=ヴィリスは裏切らない』という他者からの信頼だった。
(雷より、強い奴……危険……)
もしグェルキア家が取り潰されてしまった場合。彼女を守るのは魔法使い《朧影》という肩書だけだ。賢い少女であるトニは、それだけの状況に危機感を覚えた。すなわち、ルイドという男が魔法使いでないのに強かった場合、相対的に自分の不可侵性が薄れてしまうということ。
しかも、雷と戦ったそいつは、次は自分がいるこの学院に来るという。
自分の立場を脅かす存在の排除。そして、ルイドという男がもしーー騙せない相手なら。
それは、トニが待ち望んだ人間になる。
騙せない、裏切れない。初めて、自分を預けられる人間ができるのだ。
トニにとって契約や約束は絶対である。交わされた約定は守ることが、彼女の信条だ。それはほぼ全ての人間をだまして操れるトニが、自らに刻んだ《枷》。
(だから、私は――ルイドに、ついていく)
それが茨の道だとわかっていても。
それがルイドにどれだけ迷惑になるのか理解していても。
決して裏切れない約定を交わしたルイドにしか、トニは自分を預けることができないのだから。
「ルイド。あのね、私、敵が、多い」
「あ? そりゃどういう意味――」
「緊急時は、魔法。使って、いい?」
「緊急時な。というか、俺を騙すつもりじゃないなら幻影使っていいぞ? そこまで縛るつもりはない」
トニは嬉しくなる。相手が約定を緩めてくれたその気遣いに。トニを《朧影》として交渉してくる相手なら、その譲歩はあり得ない。使ってもいいのだ、彼は必ずそれを見抜く。トニが死力を尽くしても騙しきれない相手。
それは、初めてトルニクス・ル・グェルキア=ヴィリスという『人間』を見てくれる存在に他ならなかった。
† † † †
キュロム。ニムエ。ティエリ。そして、トニ。
俺を含めて五人の学生が立つ練習場は、異様な雰囲気に包まれていた。
俺の隣で立っているトニは、何度か言葉を交わすととてもうれしそうな気配を纏って俺に寄り添っている。頬を赤らめるな。なんでだよ。
そしてそんなトニを見て目を細めるティエリ、ほとんど睨みつけているニムエ、怒りのあまり言葉を失ったキュロム。
どう見ても修羅場ですね。おかしいな。
「ご主人様。そちらの幼――失礼、お子さんはどちら様でしょうか?」
礼儀を守りつつ、言葉の端々にとげがあるティエリ。
「あー。トニ、自己紹介……」
トニはちらっとティエリを見ると、そそくさと俺の後ろに隠れた。
案の定膨れ上がるニムエの怒気。口をパクパクさせ始めたキュロムは魚みたいだ。
「えぇっと、彼女はトルニクス・ル・グェルキア=ヴィリス。《朧影》様、だな」
「魔法使い様!?」
「魔法、使い……」
「グルルルッ!」
驚愕するキュロム、《轟雷》の一件もあって渋い顔をするティエリ、人語を忘れたニムエ。おなかすいたのはわかったからちゃんと喋ってほしい。
「敬、って」
「は、はは! すみません《朧影》様! しかしですね、やはりその男は……!」
「うる、さい。ルイドを、バカにするなら、許さない」
「くぅっ! わかりました《朧影》様!」
殊勝にも、トニの言葉に理解を示すキュロム。だが俺の耳は、『なんてことだ。やはりあの男はその道のプロフェッショナルなのか。このような短時間で幼い《朧影》様を抱き込むとは! この男の毒牙から少女……いや幼女を守れるのは私だけだ。頑張れキュロム! 負けるな私!』みたいなことをぶつぶつと呟き続けるキュロムの声を捉えていた。その道ってなんだよ。俺もなんでさっきまで命を狙ってた相手がこんなに俺をかばうのかよくわかってねぇよ。いや予想はつくけど。
キュロムには突っ込むだけ無駄な気がするので放置。続いては、不機嫌オーラをまき散らすうちの侍女である。
「ルイドさま。《轟雷》……様の件を鑑みるに、およそ魔法使いという人種はろくなものでは」
「雷のヤツと、一緒に、しないで!」
「……というわけだ」
「……なるほど」
即座に反駁したトニに対して、ティエリの眼が若干優しくなる。ゆっくりと近づくと、トニに向かって話しかける。
「あの下種男と比べるとずいぶんとマシなようですね、《朧影》様。ちなみにご主人様は、私を守るためにあの下種男と戦ってくれましたが。リスクのある秘密がばれるのを覚悟して」
なんで自慢げなんだよ。戦ったのは俺だろうが。
「所詮は、侍女。私と、ルイドは、友達」
「友達!?」
俺も聞いてないんだけどそれ。いつ決まったの?
「親、友」
「親友!?」
そうだったんだ。俺は優しいからトニが小さく呟いた『夫婦、は、まだ』は聞こえなかったことにしてあげよう。幼子特有の発想の飛躍だろうし。
「この、傍若無人にして老獪、気ままな考えなしが親友!?」
「お前俺のことそんな風に思ってたのか?」
「ええ」
まあいいけどさ。あってるし。
「どんな、ルイドでも。親、友」
「~~っ!」
これ見よがしに俺の腕にしがみつくトニ。それを見て唖然とするティエリ。
「……お、《朧影》様。ご主人様が迷惑そうなので、その手を離してください」
「……嫉妬。見苦、しい」
「ぅぐっ!」
おそらくはここにいる誰よりも貴族として過ごしてきたトニは、ティエリの感情などお見通しだったようだ。図星を突かれたらしいティエリが胸を抑える。悲しいほどに控えめだよな。
「……なにか?」
「なにも」
俺の方を睨んできたその勘の良さは凄まじいが、もう少し別のことに生かしてほしい。さて、これでティエリも戦闘不能。
「ニムエ」
「グルルルルッ!」
あとはこの、人語を忘れてしまった哀しい奴隷である。犬歯をむき出しにしてトニを睨むニムエ。トニも、言葉が通じないタイプの人間はどうしたらいいのかわからないようで困惑している。初めて会うタイプの人間だろう。というかこんな人間がこの国にいっぱいいたら国が滅ぶからな。
「肉、食べに行くか?」
「行く!」
よーしおしまい。だいたいニムエの怒りの感情の7割くらいが『お腹すいた』だと思ったんだよ。当たらずと言えども遠からずって感じかな。俺がニムエとティエリを連れて食堂の方に移動しようとすると、そっとシャツを引っ張られた。
「ん? どうした、トニ」
「えっ、と……夕飯、一緒に食べたい……です」
「……そうか。お金持ってるか?」
「お金は、ある! 大丈夫! 私が、奢る!?」
ポケットをまさぐったトニが、両手にいっぱいの金貨を差し出す。俺は泣きそうになった。今のは俺の聞き方も悪いが、俺はトニにたかったわけではない。もし保護者的な存在がいて、彼女自身はお金を持っていないのだとしたら、奢ってやろうと思っただけだ。
俺は幼女趣味ではないし、そんな性癖は確実にないのだが、ここまで必死な子供を見たら誰だって絆される。絆されない奴は鬼か悪魔だ。
「ダメです。私たちは3人で食べます」
悪魔かよ。
「やだっ!」
鬼かよ――ってニムエは半分くらい吸血鬼だった。はっはっは。
「私は、ルイドに、聞いて、る。引っ込んで、て!」
本当に強いなこの子。その気迫に、ティエリとニムエが怯む。ニムエも、ティエリも、そこまで幸せな人生を送ってきたわけではない。ニムエだって実家の困窮で奴隷に堕ちているし、ティエリも理由は知らないがスラムで酷い扱いをされながら育っている。そんな二人が怯むほどの、強烈な感情を持つトニ。
俺の予想が正しければ、孤独からの渇望か。いったいなにが俺に執着する要素を生み出したのかまではわからないが、それでもこんな幼子が必死に助けを求めている。ここですげなく手を振り払えるほど俺は冷徹ではないし、それは二人も同じだ。
「食事は4人で、だ。ニムエもティエリもそれでいいな?」
「……お肉、取らないなら」
「ご主人様の仰せの通りに」
素直に認めるのが悔しいのか、ニムエが言い訳をし、ティエリがしれっと認めた。こうして俺たちは四人で食堂で夕飯をとることになった。そうと決まれば、さっそく移動である。
図書室のこととか、気絶させた女子生徒のこととかはとりあえず忘れて、明日の俺に任せることにした。
「あれ? 私は?」
練習場にキュロムの寂しげな呟きが響いて、消えた。