だったら笑顔は作れるよ
朝日の眩しさに嫌気がさして、悠斗は瞼を開いた。昨日から続く気怠さは一晩たっても解消されてはいない。夢を見ることもなく、熟睡していたはずなのに。
悠斗は軽く背伸びをしてから立ち上がった。窓を開けると、むっとした部屋の中に冷たい空気がなだれ込み、二の腕にぽつぽつと鳥肌が立つ。街のざわめきが鼓膜を丁寧に揺らす。
「騒々しいな……全く」
眼下に広がる景色はいたって普通で、商人たちが客の呼び込みをしたり、店の開店の準備をしたり、朝から無邪気に走り回る子供たちの笑い声だったり。
「……ま、平和になったんだから」
重苦しく考えても仕方ないと思ってみる。どんなに悩んでも朝は変わらずやって来るのだ。いつもの日常は悠斗の気持ちに関係なく始まっているのだ。
勝手に時間が進んで明日になって、朝が来て……どんな権力者にも拒絶できないその繰り返しは、どれほど幸せな事だろうか。どれだけ残酷なことだろうか。
感慨にしばらく耽った後、悠斗は外の景色に見切りをつけて窓を閉めた。
頬をパンパンと二回叩き、気合を入れる。服を着替えたら、朝ごはんを作りに向かわなければ。
それに、どうやら兄は昨晩帰って来なかったらしい。
兄は一週間に一度でも帰って来られればいい方なので、いつものことではあるが。
「そっか。今日から常に二人分」
リビングへと向かう悠斗はドアの前でそれに気付き足を止めた。忍者のように息を潜めていた。悪意を持って凍死させようとする廊下の空気が悠斗に纏わり付き、心臓の鼓動がドクドクと響く。鼓動は駆け足になって、内側から悠斗の体を温める。血液が急速に全身を駆け巡る。
「……何やってんだ、俺」
悠斗は我に返った。意識を失っていたわけではないのに、記憶の空白が生じていた。その間に自分が考えていたことが分からない。顔の前で左手が右手首を掴んでいる。
悠斗は冷たくなっていた右手の指先を慌ててさすった。
「落ち着け、落ち着け……」
指先は否とが冷静さを取り戻すと同時に、暖を取り戻す。思わず安堵の息が零れた。肺に空気がなくなったので、何気なく鼻から息を吸うと、何故か食欲をそそる香りが空気に混じっている。
「いい匂いだ……って――」
悠斗は慌てて扉を開けた。
「おい! 教えるって昨日」
やはりキッチンには綾が立っていて、手に何かしらの瓶を持っていた。料理に調味料を加えようとしていたところなのだろう。
「えあ! ……いや、これはその」
綾は振り向き、驚きや焦りを体現したまま体を硬直させる。背後にはお椀型の容器が三つ置かれていて、そのうちの一つから湯気が出ていたため、完成した料理をよそっていたのだと推測できる。
「……あ、いや、だって料理くらい」
綾は持っていた瓶を背中で隠しながら、俯いて目を半分閉じる。一体何を入れようとしていたんだ。もう少し遅ければ、大惨事になっていたかもしれない。
「いいから。俺が先に味見して入れる調味料を決めるから。ってか何入れようとしてたんだ? もう完成してたんだろ?」
悠斗はカニが歩くみたいに横へ移動する綾を訝しげに見つめながら、ぐつぐつと煮立っている鍋の中を覗き込む。ほんわりと立ち込める湯気と共に見えたのは、ソーセージやジャガイモ、ニンジンなどが入った彩りが豊かなポトフだった。
「まあ、別にその……完成したヤツを味見したら、何か感覚的に? ちょっとインパクトが足りないかなぁ……って思い始めて、不安だったから、それで……」
綾は小さな声で釈明する。
「まあ、とにかく俺が味見するから……」
悠斗はお玉でスープを少量掬った。近くに置いてあった小皿に入れると、意を決して口に含む。空っぽの胃に染みわたる温もりはさながら暖炉のふんわりとした暖かさを思い起こさせる。
「……これ美味いじゃないか。もう何も入れる必要ないじゃんか」
「そう……? でもやっぱり、私にはインパクトが」
「いや、インパクトって何だよ? ほら。味付けはもういいから。棚の中のパン、机の上に出しといて。二人分。スープは俺がよそっとくから」
「えっ? 二人? お兄さんの分は?」
「ああ。兄ちゃんはたぶん帰ってこないから用意しとかなくても大丈夫。ほら、ああ見えて巷じゃ英雄って呼ばれるほどに忙しいから」
「……ふーん。そうだったんだ」
そう言った綾の顔はどこか一安心したようで、何故かため息も遅れてやってきた。
「……じゃあ、作りすぎちゃったかな。それ」
綾は笑みを零しながら、どこか傷心じみた声を出す。悠斗の指示通りに棚からバケットの入ったかごを取り出し、テーブルの中央にそれを置く。
「後はもう……座って待ってて」
綾は悠斗の声に反応してくれなかった。座り方を忘れてしまったみたいに怖々と椅子に座った綾は、背もたれに寄り掛からずに背筋をピンと伸ばしている。膝の上に視線を落としている。
「これくらいでいいか?」
そこに悠斗が熱々のポトフの入った器を持っていく。
「ああ、うん。ありがとう」
綾の前に器を置き、自身の分も用意してから悠斗も椅子に座った。昨日と同じように、向かい合わせでも隣り合わせでもなく、対角線で。
「じゃあ、いただきます」
「……いただきます」
掛け声が揃うことはなかった。綾が遅れた。
それでも悠斗は朝食を一緒に食べ始めようとして、
「って、スプーン出してなかったな、悪い」
悠斗は立ち上がり、食器棚の引き出しからスプーンを二つ取り出す。
そのスプーンは悠斗が作ったもの。持ち手の部分が手にフィットするように、それでいて高級感とデザイン性も追求して作ったものだった。
「ほら」
「あ、ありがとう」
綾にスプーンを手渡し、悠斗は椅子に戻る。スプーンでポトフを口に流し込む。
「んー。やっぱり普通に美味いな。……ってか、インパクトってどんな衝撃求めてたんだよ」
「それは……インパクトはインパクトよ」
綾はそう言いながらも悠斗から渡されたスプーンをじろじろと見つめていた。
「どうした? スプーンに何かついてたりしたか?」
「いや、そうじゃなくて。このスプーンって独特な形してると思って」
「そうか?」
「うん、私、このデザイン結構好きかも」
「……それ、俺が作ったんだ」
誇らしげな心模様を悟られないように言う。
「えっ?」
目を丸くして悠斗を見つめていた綾だったが、
「……あっ、そっか。鍛冶屋って」
納得したようにスプーンへと視線を戻す。きっと兄から聞いていて、それを思い出したのだろう。
「ああ。今はスプーンとかそういうの、作ってる。結構繁盛してるんだぜ」
まだまだ十代の若僧であった悠斗だったが、持ち前の器用さと勘の良さは天才の域であった。客が来るのは英雄と呼ばれる兄の弟だからという理由も含まれているかもしれないが、悠斗はそうであっても日用品や農具などを作っている方が好きだった。
「へぇ。……でも今は、って、昔は何を作ってたの?」
スプーンに掬われたニンジンが綾の口の中に消える。きっと、綾にとっては何気なしに聞いたことなのだろう。
「……まあ色々と」
悠斗は声を出さない理由を探すようにパンに手を伸ばすと、少し大きめに千切って口の中へ放り込んだ。
「色々って?」
「それは、まあ、ざっくり言うと、ほら」
口の中で噛んでいたはずのパンがなくなったようだった。咀嚼の抵抗力が消え、味が消え、悠斗は強引に口の中のものを飲み込んだ。
言い出すことが自分に対するけじめであり、言わないことは許されないことなのだ。
思い知らしめて、苦しむことが自分にとって重要なのだ。
「戦争、やってたから。防具とか」
思ったよりも低い声で、項垂れてしまったのだと思う。綾の慌てたような声も嫌だった。
「あっ、その……」
「いや、いいんだ。仕方なかったし、それに……」
悠斗の声は消えていった。
防具とか、と他にも作っていた風を装って言った悠斗だったが、実は防具しか作ったことがない。
「そうよね。戦争……」
綾もその先は追及してこなかった。綾も兄のことを思い出しているのかもしれない。それであるならば黙っていた方が互いにいいだろう。
しばらく黙り合っていると、綾がスプーンをテーブルの上に置き、憂いを背負い込んだような表情で俯きながら、
「じゃあ、悠斗の店には小刀とか置いてあるの? 悠斗が作ったって一目でわかるような……って、何聞いてんだろ私。ごめん。今の、ちょっと忘れて」
綾は突然取り乱し、ポトフを口の中に掻き込む。
「熱っ!」
綾は咳き込んで胸の辺りを苦しそうに叩く。
悠斗は何も反応しない。目を閉じているわけではないのに、脳裏に浮かんだ兄の姿が体を震わせた。
「俺は、刀とか、そっち系は全然作れなかったんだ」
作れないのではなくて作ったことがない。おそらく作れるけれど、作らない。作りたくない。
「だから、小刀とかそういうのは、置いてない」
悠斗は、兄とは違って断れる立場にいる自分を利用して生きてきたのだ。自分が名刀と言われた刀を作れたかもしれない、そうであったならば、もっと人を――自軍の人間を救えたかもしれないと思うところはあるのだが。
「……そう。不思議なこともあるのね」
「本当に。全くだ」
悠斗は強引に笑顔を作って、あからさまな空元気を披露していた。そうでもしないと、自分に対して空元気を披露してくれる綾に申しわけない。
笑っている時も苦しそうな時も泣いている時も、綾の瞳は全部、あの頃の兄と同じだから。
悠斗にとって笑顔を作るのは、刀を作るのと本質的に同じなのだと思う。傷つける対象が相手か自分かの違いだけ。
だったら笑顔は作れるに決まってる。綾と悠斗は無言のまま朝食を食べ終えた。
食後の片づけを綾に任せた悠斗は、一階へと降りて行き、開店の準備を始めた。
本当は、疑問形ではなく確実に、悠斗は名刀以上のことができる。