兄の言葉
「……あ、ああぁ」
目の前に広がる光景を理解することができない。ようやく慣れてきた薄暗さの中で光っているものは、見開かれたままの母さんの瞳と、部屋中に飛び散った真っ赤な血液。天井にあるはずの電球も粉々になって床に散らばっているし、いつも四人で囲んでいるテーブルも原形をとどめていない。
「お父さん? お母さん?」
確かあれは六歳の時だったと思う。それ以前の記憶はなくて、それ以降も曖昧で、色々な事を後から思い出しては現実の悲惨さをまざまざと思い知らされた。
胸の辺りに大きな穴の開いた父親は力なく座っていたし、右腕がない母親は床に這いつくばって息絶えている。
新調したわけでもないのに、水飛沫のような赤い斑点を纏う群青色のカーテンを見ていると、地震が起こっているかのように視界が歪む。部屋の中で聞こえる乱れた呼吸音が、自分のものだなんて意地でも認めたくない。
幼い悠斗は部屋の片隅で、なおも両親の死体から離れようと、流れ出る血から逃れようと、背中を壁に押し付け続けていた。頭を抱えて、喉が擦り切れるほど奇声を発し続けなければ、途端に何かを理解してしまうな気がして体が竦む。
兄がようやく駆けつけた。
「悠斗? 何があ……ったん…………」
悠斗の悲痛な叫びで異変に気が付いたのか、それともその前の両親の声で異変に気が付いたのか。そんなのはどうだっていい。タイミングよく帰ってきただけかもしれない。
苦しそうに弟の名前を呼んだ兄の声が、掠れて、目を見開いて、死体とか血とかは兄の瞳に映っている。惨劇の一つ一つに目を向けながら、そのたびに顔を歪め、兄は慌てて口を手で抑えた。
その後で喉仏が上下した意味を、悠斗はしばらくしてから理解した。悠斗自身が夜中に何度も思い出して、嘔吐してしまったから。
でも、兄がその時に飲み込んだものはそれだけではないはずだ。
「……悠斗? 無事か?」
か弱い声でも、それは悠斗より十歳ほど年齢が上だったからだろうか? 早く産まれたからだろうか? 兄だからだろうか?
弟の元に駆け寄って、兄ちゃんは震える体を抱きしめてくれた。
「兄ちゃん……。あぁ、二人とも……、あぁああ…………」
悠斗は兄の体に抱き付くことができず、床の上に落ちたままの手先は冷たくて、指先にはさらに冷たくなった血液が流れている。
「大丈夫、大丈夫だから」
弟を強く強く抱きしめ、耳元で優しく、兄は繰り返す。
「悠斗は生きてる。大丈夫、大丈夫だからな」
「ごめん。兄ちゃん……ごめん」
「だから謝るなって。兄ちゃんの方が……ごめん。悠斗は絶対、何があっても、兄ちゃんが守ってやるからな……ごめんな。絶対、守ってやるから」
もしかしたら、その時に兄が発した声が一番なのかもしれない。決意に満ち溢れた悲しい声が、悠斗にとって一番のトラウマになっているのかもしれない。
それから兄はその日のことを一度も弟に尋ねたことはない。ただひたすら、仕事の合間に犯人を捜すだけ。両親を殺した犯人を、逃げた犯人を、自分の力で捜しているのだと思う。
だから弟は、その日のことを一度も兄に話したことはないし、色んなことを思い出すから、話したくもないと思ってしまう。