兄弟と兄妹
悠斗が風呂から戻ってくると、部屋の中に綾の姿はなかった。
綾が来る前はこれが普通で何とも思わなかったのに、さっきまで誰か――家族がそこにいたという事実は、想像以上に重くのしかかるものだったのかもしれない。静まりかえった部屋の中を孤独感が席巻しているような気さえしてしまう。
悠斗は俯いて、首にかけていたタオルを頭の上にかぶせた。荒々しく濡れた髪を拭いて頭の中の邪念を取り払おうとしても、その動作が終わった後で綾が座っていたはずの空席を見つめてしまう。呟いてしまう。
「……そう言えばあいつ、優しいって」
色んな感情が込み上げてきて、嘲笑気味にため息をついてしまった。
風呂に入る前は、不意に綾から名前を呼ばれたことが恥ずかしかったのだが、冷静に考えてみると、優しいという言葉をそのままの意味で受け取ることはできない。
綾のことを信用ならない、犯罪者だから危険だと思ったのは事実であるし、何より根底が間違っている。
自分は優しくなどないのだ。嘘つきなのだ。
「……っん?」
目を覆う前髪の隙間から見えたのは、おそらくカレーライスではないだろうか。しかも二人分。
「えっ? ……あ、そうか」
しばらく机の上を見続けて、すんなりと納得した。
風呂に入っていた間に綾が作ってくれたのだろう。
「あいつ……料理できたんだ」
いつもは弟である悠斗が料理担当だった。兄は国のために忙しく、その役割分担は当たり前のように決まったのだが、結局作っていたのは男だ。
女の子が作った料理というだけで、そこはかとなく神秘的で美味しそうに見えてしまう。スパイシーな香りが部屋に充満して、鼻をつついているような気もする。
悠斗はタオルを首にかけ直し、席に移動しながらクスクスと笑っていた。
カレーライスを作られてしまうほど長い間、自分は湯船に浸かっていたのかと。
――それについては笑えないな。
そう思ったことが可笑しくて悠斗はまた笑う。そのまま席について、そのカレーライスを眺めてみると、うん。自分のいつもの料理とは違う。細かく刻まれている野菜は食べやすくしようとした結果だろうか。ルーが少しだけ濃い色なのは、使っている香辛料の種類や分量が違うのかもしれない。
悠斗は背もたれに寄りかかりながら背伸びをする。綾が来るのを待つ。
兄が家に帰ってくるのはいつも不定期で、食事を誰かと一緒に食べるというのは久しぶりだった。皐月さんが一緒に住み始めるのを楽しみしていたのはそういった面もあるが、それよりも先にこんなことが訪れるとは。
悠斗がふと視線をずらすと、ちょうどドアがゆっくりと開き始めるところだった。不自然すぎるくらい遅くて、かえって目立っている。半分ほど開いた扉の隙間から綾がひょっこりと顔を出した。
綾はゆっくりと部屋の中を覗き見して――目が合った。
「あっ」
綾の声は裏返っていた。自分でも変な声が出たとわかったのか、恥ずかしそうに一度顔を引っ込める。何事もなかったかのように手で乱れてもいない前髪を直しながら部屋の中に入ってくる。
「……自分の部屋でも見に行ってたのか?」
悠斗は綾の心情を鑑みて声をかけた。
「別に……ってか何で私が部屋にいたって知ってんのよ?」
「いや、この家でお前が行くところなんてそこくらいしかないだろ?」
「……ああ、まあ、そっか」
ドアを後ろ手で閉めた綾だったが、何故か一向に近づいてこない。
じろじろとこちらを見たり、急に目を逸らしたり、新米探偵のド下手な監視のようだ。
「どうした? 早く座れよ」
「何でよ?」
「何でと言われても……お前も待ってたんだろ?」
「ってか! それより……その、どう?」
今度は怒鳴ったかと思えば、細々とした声に変わる。いきなり、どう? って何がどうなんだ?
「どうって? 早くしないと冷めちゃうだろ。せっかく作ってくれたのに」
「えっ? まだ食べてないの?」
「ああ、一緒に食べようと思って。ってかお前だって待ってくれてたんだろ? 俺が風呂から上がってくるの」
「それは、その……」
それだけ言って綾は黙りこむ。ピンク色のパジャマの裾を小さな手で握りしめ、俯いたのは床板の木目を数えようとしたからだろうか。
「……でも、何で?」
その作業が終わったのか、綾がゆっくりと顔を上げる。
「べ、別に先に食べててよかったのに」
綾の声は上ずっていた。
「いや……せっかく一緒に住むんだから、一緒に食べようかと思って」
悠斗の声もぎこちなかった。
「えっ……でも」
「あ! そっか。どうって、味のことだったのか」
「なっ……違うわよ!」
「安心しろって。誰かと一緒に食べるだけでどんな料理も美味しくなるんだから」
「……それじゃあ、そんなんじゃあ、嬉しくないじゃない」
できそこないの腹話術みたいにぼそぼそと言われても聞こえるはずがない。
「ん? 何か言ったか?」
「何でもない! ああもうお腹空いた!」
機嫌の悪さを露骨に表したような足音を響かせながら、綾は悠斗の対角線上の席に座る。
「じゃあ、いただきます」
悠斗は綾が席に座ったのを確認して手を合わせた。
綾は横目で悠斗の方を凝視していた。やっぱり気になるんじゃないか。
女心というものを理解しているような人間ではないと自負しているが、ここは大袈裟に喜んでおこう。悠斗はルーとライスを半分ずつくらいスプーンに乗せ、そのまま口の中へパクり。
部屋に充満していたスパイシーな香りそのままに、口の中にピリッとした程よい痛みが走る。激痛になる。甘さやら酸っぱさやら苦さやら、ありとあらゆる感覚が同時に脳に伝わって、まるで様々な色を無秩序に混ぜ合わせた時にできる薄汚い灰色のよう。パレットを洗い終わった後の排水溝のよう。
悠斗は吐き出したくなる気持ちを何とか抑え、綾が不安そうな顔で見ている手前、無下に不機嫌な顔にもなれないので、
「独特な味だな……逆に病み付きになりそうだよ」
血の気の引いた顔でそれを言っても褒め言葉になるのかはわからなかったが、美味しいとは口が裂けても言い出せない味だった。
「ふーん」
言葉自体はそっけなかったが、綾の顔は嬉しさを隠しきれていない。
どうやら綾にとって、独特な味というのは褒め言葉になるらしい。きっと綾は芸術家気質なのだろう。変な人だね、が褒め言葉になる人たちをバカにしているわけではないが。
「じゃあ、私も。いただきます」
綾の声は控えめではあったが弾んでいるように聞こえた。
悠斗は生唾をごくりと飲み、綾がカレー……らしき食べ物を食べる様子から目を離さない。
見ためはカレー、味は……まあ、その何と言うか――、
「うん! おいしい!」
そう。おいしいよな。鶏小屋の臭いのような味が食欲を……そそらないよ! 鶏に失礼なくらいだよ! 本人がそうならいいんだけども!
予想に反して喜びの声を上げた綾の自画自賛な姿を見ていると、口のなかで蠢いていた排水溝の感覚はどこかへ吹っ飛んでしまった。
悠斗はそんな綾を見据えて、笑いながら一言。
「ま、料理はこれから俺が教えてやるから、作る時は言ってくれよ」
「……そ、それって、私の作ったカレーが美味しくなかったってことじゃない!」
「えっ、えええ? いや、そんなことは……」
さっきの言葉を褒め言葉と受け取って、どうしてこれは言葉の裏に隠れた真意を読み取ることができたのか。
やっぱり女心はよく分からない。
怒ってしまった綾に悠斗はカレーを取り上げられ、
「いや、美味かったって。本当に」
「もう食べなくて結構です」
機嫌を悪くした綾は、悠斗からぶんどったカレーライスも合わせて完食した。悠斗は休憩を挟むことなく食べ続ける綾の姿を見ながら、見せつけやがってこの野郎といった気持ちを抱かなかった自分に少しだけ同情する。
これに関しては、本当に申しわけない。不味かったんだ!
「まあ、ようはあれだ。見た目は美味しそうなんだから、調味料とかの問題かもな? ほら? 本当に料理下手な人は、見た目もグロテスクなもの作ったりするから。何が問題か分かってるだけましだって。すぐに美味い料理作れるようになるって」
「私はこれで美味しいと思うんです。そんなの気にしてないんです」
「まあ、そう言わずにさ、ね?」
それでも悠斗が今後の吾妻家の未来を案じて、説得を続けると、
「……じゃあ、まあ、その……仕方なくよ! あなたの意味不明な味覚に合わせてあげるために、本当に仕方なく付き合ってあげる」
「……そうしてくれると助かるよ、ありがとう。でもどちらかというとお前の方が」
「何? 何か文句あるの?」
鋭い視線で睨み付けられ、悠斗は竦みあがる。
「はい。何でもございません」
綾は満足したのか笑みを浮かべた。立ち上がり食器を流しへ持っていく。
綾との物理的な距離が広がった。
「ああ、洗うのは俺がやるから。一応料理作ってもらったわけだし」
「別に……。居候させてもらってるんだから、料理くらいは、するわよ」
その言い方も、背徳感を漂わせる小さな背中も、やっぱりどこか気に食わない。
悠斗の善意を無視して食器を洗い出す態度も、スポンジとお皿が擦れるわずかな音だって耳障りだ。笑顔作ったんなら、立ち上がる時に表情を戻すなよ。
「居候じゃなくて、家族、だろ?」
綾の動作がビクッと止まり、また動き出す。
「……家族」
しみじみと呟くように、自分の心に言い聞かせるようにして呟いた彼女の背中が印象に残った。
それを振り払うように、首を左右に振った彼女の姿がもっと印象に残った。
「でも、私は……私は…………」
「まあ、とにかく! 俺の兄ちゃんが決めたことだからさ」
何であせっているんだろう。
「お前も知ってるかもしれないけど、俺の兄ちゃん凄いからさ。頭良すぎて、時々考えてること分からなかったりするけど、でも……兄ちゃんがやってきたことに間違いは……その、まあ……ないと思うから」
断定できなかった。兄のやってきたことは一方では完璧、もう一方では間違い。それは五〇パーセントずつといったわけではなく、どちらも一〇〇パーセント。完璧であり、間違いでもあるということ。
「……わかってる」
綾の言葉が腹の底にたまって膨れる。何も言い返せない。
その間に綾は食器の泡を落とし終わり、蛇口をひねって水を止めた。手に付いた水滴は自身のパジャマで拭き取り、振り返る。
「けど、そう言ってくれて、その……ありがと」
無理やり笑って、無理やり感謝して、女心は本当によく分からない。綾がゆっくりと歩き始めて、距離がまた縮まる。悠斗は奥歯を噛みしめる。
さっきみたいに照れてくれよ。どうして憂いに沈んだ顔が垣間見えるんだ。
そもそも感謝されるのだってお門違いだというのに。
悠斗の脳裏に言い返す言葉が浮かんでこなかったせいで、椅子の背もたれに手をのせた綾は、侘しさを含んだ表情を続けながら話を続けた。
「本当に、あなたは優しい。こんな私を家族だと認めてくれて、一緒に住まわせてくれて。何か……あなたの優しいところって、私のお兄ちゃんに似てる気がする。だから……本当に申しわけないって思うし、ありがたいと思わなくちゃなんだけど」
「……お前にも、兄妹いるのか」
悠斗は話題を逸らそうと必死だった。その先の言葉を聞きたくない、言わせてはいけない気がしていた。
すぐに自分の推測力のなさに、後悔することになってしまったのだが。
「えっ? ああ、まあ、もう死んじゃったんだけどね」
椅子に座りながら、自分を蔑むように笑った綾のことが、信じられないような信じられるような。
そういうことは冗談みたいに言わないでくれ。自虐ネタみたいに言わないでくれ。
「……ごめん」
悠斗には、謝る以外の選択肢はなかったと思う。
「別に謝らなくても。戦争……やってたんだし。鉄兄だって、私だって、そうなるかもしれないって覚悟してたことだったから」
「……えっ?」
悠斗は耳を疑うしかなかった。『鉄』という言葉だけが意味ありげに強調されていたような感じさえしていた。
「何?」
「鉄って……お前の兄ちゃんって、鉄って名前なの? もしかして、俺の兄ちゃんと同い年だったり……する?」
「……うん。たぶん、そうだけど」
「ははっ、そっか」
悠斗の口からは乾いた笑いが聞こえ始めていた。
「何よ? 気持ち悪い笑い方して」
「いや、何て言うか……その、悪かったなって。その……」
悠斗は目を閉じて、遠慮がちに頭を下げた。ひっそりと唇を噛んで、瞼の裏に張り付いた空き瓶だらけの部屋がどうしようもなく忌々しい。
「はっ? 何であんたに謝られるのよ?」
綾の双眸は小刻みに震えている。目の中にある色が白と黒の二色だけみたいで、人間のように見えない。悠斗を見つめる綾は、全体的にどこかぎこちなくて、声も、体の動きも、それは悠斗が兄妹いるの? と聞いた後からずっとそうだったような気もする。
「いや……だって、お前の兄ちゃんって……犠牲者だから」
「……えっ?」
「だから、俺の兄ちゃんが指揮を執ってて、そこで犠牲――守れなかった人の中に……鉄って人がいて、それがお前の兄でもあり、俺の兄ちゃんの親友だった人だから」
悠斗は顔を上げることができない。綾の表情を確認することができない。
「……嘘でしょ?」
呟やいた綾は口を閉じることも忘れ、瞬きをすることも忘れ、ただひたすらに悠斗のことを見ている。呆然とした彼女は、何を頭の中で思い返しているのだろうか。
「……兄ちゃん。ずっとそれ後悔して、家に帰っては酒ばっかり飲んで、お前の兄ちゃんのことばっかり話してて」
「そう……」
綾の返事に生気が全く込められていない。
「俺の兄ちゃん頭いいからさ、お前の兄ちゃんの強さを理解してて、その時は奇襲受けて、撤退戦でしんがりがどうしてもいるってなって。兄ちゃんの頭でふさわしい人物として……お前の兄ちゃんが導き出されたんだと思う。生存率とか、最小限の被害とか、考えて……」
「そう……」
からくり人形みたいに、同じ言葉しか繰り返さない綾。
「兄ちゃんは抵抗したんだと思う。何度も考え直したんだと思う。でも、自分の私情のために最も適した方法を選ばないなんてありえないだろ? ましてや戦時中で、参謀で、そんなこと……できるはずがなかったんだ」
「そう」
「だからさ、何か、今分かった。兄ちゃんが……お前をこの家に迎え入れた理由が、探し出した理由が……分かった気がする。だから……ごめん」
頭はすでに下を向いているから、目線をさらに下げる。
「……何で? 何で悠斗が謝るの?」
「それは……」
「だってそうでしょ⁉」
綾はいきなり立ち上がった。床板と椅子の足が擦れた音が、耳鳴りとして悠斗
の耳の中で暴れている。
「悠斗は何も悪くないじゃない。悠斗のお兄さんだって……何も、悪いことは……そんなの、戦争してたんだから、仕方ないことで……。そういうものなんだから、戦争って……」
綾の目から零れる涙が机の上に真っ直ぐ落ちる。拳はとめどなく震え、下唇を噛みしめる彼女の姿を見て、悠斗の呼吸は荒くなる。
「……ごめん。綾」
「だから何で悠斗が謝るのよ?」
「うん……ごめん」
「もういいから。ちょっと、一人になりたい」
綾は倒れた椅子を起こし、その上に力なく座る。足を座面の上に乗せ体操座りのような恰好で、顔を両膝の上にうずめて喋らなくなった。
「……ああ。分かった」
悠斗はそれだけを残して、部屋を後にした。
廊下を歩くときは、なるべく足音を立てないよう慎重に、けれど早く。自分の部屋に入るとすぐにベッドの上に倒れ込んで仰向けになり、頬を伝わる涙など気にもせず、ただ天井に右手を突き上げてその手を強く握りしめていた。
しばらくするとその手は自身の胸の辺りに、落ちてきた。