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 教会はただ平然とそこに立っていた。陽の光に照らされて、屋根のてっぺんに配置されている鐘は錆びついたただの置物になっている。もう誰も近づかない。窓ガラスは所々割れているし、壁面には奇妙な落書き、ひび割れも目立っている。


 悠斗は教会の扉の前で立ち止まっていた。乱れていた息もだいぶ落ち着き、今は深夜の砂浜のように世界に対して身を潜めている。割れた窓ガラスの隙間から中を覗けばいいのに、それをしない。

 金色のドアノブを掴んでみても、その扉は地獄へとつながる門のようで、手が動かなくなる。


「……何やってんだ」


 動かない自分自身の手から視線を切り、悠斗は強く目を閉じる。

 思い返す。過去の過ちを。

 想像する。新しい家族のことを。


「俺は……俺が……やらなきゃいけないんだよ! おわぁああああああああ!」


 言葉の勢いでもいいと思った。今は扉を開けることの方が、体裁や気持ちの整理なんかよりも大事だから。

 大声と共に手に力を込め、一気に開ける。隠密行動なんて知らない。扉を開けるために居場所を知らせるような行為をしてしまったので、悠斗は背中にぐっしょりと冷汗をかいていた。


「はぁ、はぁ……」


 悠斗の呼吸音だけが教会内にさざめきを与え続けた。深海を思わせるような静けさに思わず足が竦み、息を飲む。赤い絨毯を挟んで、二人掛けの椅子が左右に六列ずつ並んでいる教会内は、埃っぽくてどこか黴臭い。そんなことどうでもいい。


 悠斗の視線は一番奥に向かっている。背中から翼の生えた大きな人間の像が見下ろしていう台座の上と、その横の白衣を着た人物、そのさらに横の物体を一斉に俯瞰していた。

 一種の神秘性に悠斗は目を奪われていたのだろう。


「……綾?」


 台座の上で、仰向けで、顔だけ悠斗の方を向けている。穏やかなその表情は死に顔すら連想させてしまう。絶望と涙がとめどなく押し寄せてくる。

 悠斗は千鳥足で、綾の元に近づいて行った。


「綾? 目を覚ま――」


 瞬間。悠斗は後ろに吹っ飛んだ。腹部を殴られた衝撃で。

 人間のような形をしたその物体はいたるところが銀色に光っていて、呼吸音もしなければ、言葉も発しない。


「――がぁはっ」


 開けぱなしの扉の横。殴られて、背中と壁がぶつかるまで一秒もかかっていない。腹部の痛みと背中の痛みを同時に感じるくらいだった。

 腹を押さえて蹲るように倒れた悠斗の顔に、扉の隙間から差し込む日差しが照り付ける。


「何だ、弟の方か……まあそれも一興ってことだな」


 気持ち悪い笑い声が聞こえたと思ったら、白衣を着た男はそのポケットから見覚えのある注射器を取り出した。


「おま……えっ、綾に……何を」


 血を吐き出しながらも悠斗は必死で言う。


「何って、決まってるだろ? 手術は成功したんだから、次は能力を強化させないと。……あっ、でもいつかのお前みたいになっちゃうかもな」

「辞めろ! 浦添さか……きッ――」


 何とか立ち上がった悠斗に機械人間の回し蹴りが直撃。今度は真横に吹っ飛ばされ、右肩から壁にぶつかる。倒れた拍子に散らばっていた窓ガラスの破片が背中に刺さったのか鋭い激痛が走った。


「待て……やめ、ろ……」


 痛みに耐えながら声を絞り出す。手足に冷たい感覚が沸き上がる。

 これは自分の能力によってではない。

 いつの間にか、悠斗の手足は氷漬けにされ、その場から動けなくなっていた。


「死体でもこれくらいは能力が使えるんだよ。さすがお前のお兄様は違うなぁ……天才で、ムカつくんだよ!」


 浦添榊の憎悪を孕んだ声も凍てつくように冷たい。


「それに、こいつもいけないんだ。せっかく俺の計画を、天才の狂っていく様を……なのに! こいつは何もしやしない! 挙句の果てに……まぁでも、こいつが大切な存在になったのは嬉しい誤算だよ」

「ふざけるな!」


 叫びながら悠斗は浦添榊へ向けて先の尖った氷を五発飛ばす。もっと発生させたはずだったのに、能力は怒気の強さに比例してはくれなかった。これが、長年隠し続け、ろくに訓練しようともしなかった代償だというのか。

 その氷柱は機械人間の出した氷の盾で防がれていた。


「くそッ……何で、この……」

「どうだ? お前ら二人が戦うなんて皮肉だな。こんなことなら早くこうしとけばよかったよ。まさか嘘の報告をしていたとは。通りで十年、研究を続けたのに分からないわけだ。あっ……でもそれが遺体を保存させることにも繋がったんだから、怪我の功名ってやつかな? 俺にとっては、な?」


 浦添榊の不気味な独り言を聞いている間にも手足の感覚がなくなる。挙句の果てに口も氷で覆われ、何も言えなくなる。

 注射針が綾の腕に向かっているのを見ていることしかできない。


「そんな顔するな。この薬は俺が改良したから。確実に能力が暴走するように。失敗はしない」


 胸糞悪い笑い声とともに、綾のきめ細やかな肌に注射針が入り込んでいく。刺さった場所から一滴、真っ赤な血が流れ落ちる。

 ――辞めろォ!

 どう足掻いても無理だった。綾の腕から流れ出る血液を見た瞬間に怒りは最高潮を迎えたけれど、それでも体は動いてくれない。

 さっきから出している氷も、機械人間の氷の盾で全て防がれる。


「くっふっふふふ……」


 愉悦の声を上げながら浦添榊は注射針を綾の上から抜き取る。


「ああぁぁ……。これで被験者番号3の実験も終了か。親友と弟と親友の妹。お前の兄は酷いことするよなぁ? まずはこいつがお前を殺して、街でも襲わせようか」


 浦添榊は童話に出てくる魔女のような笑い声をあげながら、悠斗を見下していた視線を台座の方に移動させる。


「おっ、やっとお目覚めか」


 浦添榊の目が銀色に光った。


「……ん、んんっ、……あっ…………ひさ、と」


 瞼を半分だけ開けた綾が悠斗の姿を見つけ、腕を伸ばす。力が入らなくて曲がった指先が必死で何かを伝えようとしてくる。覇気のない瞳から涙が零れ落ちている。


「ひさ、と……」


 その物憂げな表情で全てを悟った悠斗の視界はぼやけていた。涙のせいで、最後までしっかりと見てあげることができなかった。


「……私のせいで………ごめん――ッぐあぁあぁぁぁ」


 謝られて、綾の目が見開く。苦痛でもがき苦しむように奇声を発する。必死で抵抗しようと全身の筋肉に力が入り、指先まで伸びきって苦しんでいる。

 その姿も、悠斗は見ていることしかできない。

 綾の足元からは氷が発生し、蝕むように纏わりついていく。真っ白な冷気を立ちこませながら、綾の姿が悍ましく変わっていく。


「……綾! 綾ぁ!」


 口を覆っていた氷を根性で破壊し、今更名前を呼んでも、もう彼女の耳には届かない。

 遠く離れた場所に旅立たせてしまった彼女は、もう彼女ではない。


「ひゃはっはっはっ。どうだ? もうお前の言葉など、届くはずがない!」

「……綾? おい、綾?」


 台座の上に立つ氷の化身。綾の姿。至る所から生えている氷の棘も、真っ赤に染まったその瞳の中も、そこから零れ落ちているはずだった涙も。


「こいつはもう殺すしかないぞ。お前の手で……能力を使わないと」

「貴様あぁ!」


 悠斗は浦添榊の体に無数の風穴を開けようとした。氷の礫で全方位を覆い尽くし一斉に発射させた。


「……おい、狙うだろ相手が違うだろ? お前を殺そうとしているのは、こっちの女だ」


 しかし当然のように、機械人間が作った氷の盾で悠斗の攻撃は防がれる。バカにしたような笑い声とともに聞こえる、浦添の声は本当に忌々しい。


「ほら! さっさと殺せェ!」


 そして、綾が奇声を上げながら悠斗に突っ込んできた。

 悠斗は慌てて横に飛び回避する。

 手足の氷はなくなっていた。どこまで人を馬鹿にすれば気が済むんだ。


「辞めろ綾! 綾!」


 氷のかぎ爪が壁を砕き穴が開く。外からの日の光が差し込んでも、綾が纏った氷は溶けてくれない。

 獣のように唸り声を上げる綾の殺気を肌で感じながら、反撃などできるわけがない。


「目を覚ませ! 綾!」


 何度も飛びかかってくる綾の攻撃を悠斗はギリギリで交わしつつ、名前を呼び続ける。それしかできないのだから、いつか動けなくなって惨殺されることに変わりはない。

 機械人間を用心棒に従えている浦添榊は、目の前で繰り広げられている光景を見てゲラゲラと腹を抱えて愉しんでいる。


「綾! 綾!」


 必死で名前を叫ぶ。届かないなんて信じたくない。

 だって、氷は固体なのだ。日の当たる場所に出た綾の体はダイヤモンドのように輝くのだ。


「綾! 綾ぁ――っあ」


 不意に足がもつれて壁に左肩をぶつけた。そのまま倒れてしまった。

 そこは日の当たらない場所で、ものすごい勢いで迫ってくる綾の体から氷の輝きが失われる場所。

 手のひらが今とてもチクチクするのは、ガラスの破片が突き刺さったせいだ。


「綾……」


 綾の攻撃をかわせないと悟った。

 だから、それでいいと思った。


 心がチクチクと痛いのは、苦渋と一緒に凍りついている綾の瞳から流れるものがずっと輝いているから。液体として流れるそれを、流れるままに受け止めてやればいいだけなのだから。

 悠斗の脇腹に、冷たくて悲しい、綾の手に纏わり付く異形のかぎ爪が突き刺さった。

 貫通して、後ろの壁にも穴が開いたと思う。

 悠斗は痛みを必死で堪えた。


「……帰ろう。家族が、待ってるからさ」


 綾の体を抱きしめる。氷に覆われている綾の体が冷たい――わけなどない。かぎ爪が突き刺さった腹部が痛い。

 でも、湊は避けもしなかったのに、今生きているのだから。


「ぐぁああぉがぉぉぉ……」


 綾がまた攻撃に走らないように、離さないように、ずっと抱きしめる。

 抵抗されても、今度こそ離さない。

 誰も手出しができないように、綾と自分の周りを分厚い氷で覆った。


「おい! さっさと壊せ! 何やってる!」


 浦添榊の焦った声は、氷の壁の中にいる二人にはくぐもってしか聞こえない。


「皐月さん。料理、凄く美味いんだ。……だから、綾も教えてもらえよ? 別に綾の料理がまずいって言ってるわけじゃないぞ?」


 内部に震動が伝わる。機械人間が氷の防御壁を壊そうと攻撃しているのだろう。


「勇気出して家族になったんだ。綾が自分で言ったんだ」


 どれだけ氷が纏わりついていても、口から零れる息遣いは人間のものだ。暖かい心臓の鼓動は人間のものだ。


「綾。帰ろう。みんな待ってる。独りぼっちは嫌なんだろ?」


 悠斗は痛みを忘れていた。出てくる言葉を素直に、脳のフィルターを通さずに紡いでいた。


「独りぼっちにさせたくないんだ」

「……うん」


 それだけ聞けて良かった。

 やっと綾の体を覆っていた氷が溶けて、直接綾の体に触れられる。

 多分だけど今、頬が少し赤くなっているんじゃないかと思う。

 情けないな。本当に。

 綾の表情を見たくなってしまったのは、ちょっとした悪戯心だ。

 二人を覆っていた防御壁はその瞬間に崩れ落ちる。目の前には機械人間が迫っている。


「もういい! 二人とも殺してしまえ!」


 その声が聞こえても、体が言うことをを聞かないんです。

 不思議と仕方ないなって思えるんです。

 でもやっぱり、まだ生きていたいって思うんです。


「ごめん……綾、兄ちゃん」


 冷気をともなった風が、悠斗の髪も綾の髪もなびかせ、毛先は少し凍っていた。


「遅くなった」


 悠斗は目の前の光景を理解するのに時間を要した。機械人間はもういない。いるのは見覚えのある英雄の背中。機械人間に蹴りを食らわし、二人を――家族を守った兄の姿。


「兄ちゃん……ごめん」

「謝るなって。俺が守るって言ったろ? 嘘じゃなかったろ?」

「ああ……兄ちゃんやっぱり天才だ」

「その言葉……言われて初めて嬉しいって思ったよ」


 兄にそう言われて、気恥ずかしくなった。


「吾妻ァ……貴様、ようやく表れたな」

「お前、凄いな。その研究まだ続けてたのか」

「当然だァ! お前ができなかったことを俺ができれば……なのに、それすらお前は」

「悪かった。嘘ついて」

「そういうところがムカつくんだよ! 殺せェェ!」


 浦添榊は命令する。痛みすら感じていないのだろう機械人間は、声を発することもなく、悠斗たち目掛けて突進してくる。


「兄ちゃん! あれ、きっと兄ちゃんの」

「大丈夫。分かってる。でも、だからそんなことさせない」


 そう宣言した兄の背中から氷の翼が生える。氷で覆われた体から発せられた冷気で、一瞬にして教会にいる誰もの呼吸が白くなる。兄の体を包む氷の鎧は、美しく綺麗だ。とても格好いい。

 英雄の名にふさわしい、吾妻冬獅郎という人間にふさわしい。


「兄ちゃん……かっけぇ」

「そうだろ。なんたって俺は英雄だから」


 飛びかかってきた桐ケ谷望にんげんへいきの攻撃を正六角形の盾で受け流し、バランスを崩した相手の右足を氷で包み込むと粉々に粉砕。そしてすぐに腹部を蹴り飛ばし、桐ケ谷望にんげんへいきを後方に吹っ飛ばす。

 その体は怒り狂う浦添榊の真横を通過し、壁に衝突すると動かなくなった。

 焦りで取り乱す浦添榊の顔から余裕は完全に消え去っていた。


「ここの場所を伝えてくれた杏南ちゃんに後でお礼言っとくんだぞ?」


 悠斗が返事をする間もなく兄の姿は消える。悠斗が兄の姿を探すと、すでに兄は浦添榊の背後に立って、首元に氷の剣を突きつけていた。


「落ちぶれたな。こんなことまでするようになっていたとは」

「貴様に何が分かる? 天才のお前に、天才だった俺を引き摺り下ろして、貴様さえいなければ、今頃俺が貴様のように」

「確かにな。天才は挫折に弱い。だからお前の気持ちも少しは分からんでもないが……それでもお前はもう人間じゃない」

「こっちは人間ですらないがな。あっ、お前もそうか」

「ああ。でも俺は人間じゃなくても、天才じゃなくても、家族を守れるだけの力があればそれでいい」

「そうか……じゃあここでそれも終わりだなぁあああああああ!」


 浦添榊は突然狂ったように、愉しそうに、金切り声をあげた。


「ああ。ここでお前を俺が殺して、終わりだ」

「兄ちゃん! 後ろ!」


 悠斗は兄に事の次第を伝えようと必死だった。桐ケ谷望にんげんへいきの機械部分から何故か蒸気が立ち込め、肉体が小刻みに振動しているのだ。


「……浦添、まさか?」

「ふっはっはっ……そうだ。もうすぐここにいるみんな、爆発の巻き添えになって死ぬのだ。逃げてももう遅い」

「貴様……」

「みんなで仲良く死のうじゃねェエエエかぁああああああ……ああァぁ――」


 浦添榊の声をかき消すように、桐ケ谷望にんげんへいきを中心に眩い光が発生する。条件反射的に目を閉じた悠斗は必死で綾のことを抱きしめる。

 綾も強く、生にしがみつくように悠斗から離れなかった。


「間に合え!」


 そう言う兄の声が聞こえた気がする。気のせいだったと思う。

 だってその時にはもう爆風と、衝撃と、命の終わりが――――


「――へへっ。だい……じょうぶ……か? 二人とも」


 聞こえた声は紛れもなく、兄の声だった。

 綾を抱きしめている自分の上から、身を挺して二人の家族を守った英雄は、確かに目の前にいる。氷の翼を広げ守ってくれたのだろうか。氷の鎧ももうぼろぼろで、教会なんて跡形もなく消え去って、浦添榊の肉体も爆発とともに消し飛んだのだろう。


「……兄ちゃんこそ……大丈夫なのか?」

「ああ。大丈夫だ。でも……もう動けないな」


 兄ちゃんは顔を引き攣らせながら、笑って見せた。


「あの……お兄さん。あの……私」

「ああ。俺は昨日から……綾のお兄さんだよ。家族だよ」


 頭上から照りつける日差しを遮る兄の体。全面には傷一つなくて、苦しそうな息遣いだけが浮いている。背面はどれほど傷ついているのだろう。

 それでも……兄は笑顔を崩さなかった。


「兄ちゃん……ごめん」

「謝るな。約束したろ? 守るって。悠斗も約束守ってくれたしな。だから――」


 息も絶え絶えな兄が言おうとした言葉は途中で止まった。

 それを遮ることができたのは、きっと彼が兄の親友だったからだろうと思う。

 肩より上しか残っておらず、黒く爛れている皮膚は見ていて痛々しい。それが爆発の震源だったのだとはっきりと理解させてくれる。

 けれど、そんな顔でも、きっと桐ケ谷望は笑っていた。


「とう……し、ろう………ありがとう」


 それをしっかりと見届けた兄の目から涙が零れ落ちるのを、悠斗は目撃していた。

 英雄はそのまま安らか顔で意識を失った。





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