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存在理由

 



 私は、彼を見誤っていたのかもしれない。

 いつもの参謀司令室。心なしか薄暗くて、空気が重く感じる。

 皐月がコーヒーを用意しないのは、そんな甘ったるい液体は無駄でしかないと分かっているから。


 吾妻冬獅郎は机に突っ伏し、その右手には酒の入ったグラス、床には瓶。英雄と呼ばれるには程遠いやつれた姿だ。救いようがないほどに精神がおかしくなっているのだと、皐月でさえも簡単に判断できる。

 人前ではそんな様子を微塵も見せないというのに。

 この男は、どこまでいっても吾妻冬獅郎ということだ。紛れもない天才であり、他の追随を許さない英雄なのだ。


 一人で敵軍を能力者もろとも殲滅した事実は、圧倒的な力の差を他国に知らしめる絶好の機会となった。冬獅郎の脅威ちからはすぐに他国を駆け巡り、それから数週間ですべての国がほぼ降伏という形の同盟を持ちかけてきた。

 事実上、吾妻冬獅郎という男一人に、この世界が白旗を掲げたのだ。


 しかし、彼は再度、力を失っている。それを悟られないように同盟を締結した手腕だってもっと評価されてもいいはずだが、目の前の有様がこれだ。

 彼の精神が崩れ、壊れ、それは皐月の望み通りだったのかもしれない。冬獅郎から懺悔のように零れてくる言葉は、これ以上聞きたくない。


「報われ、ない。鉄、お前は…………」


 皐月はいつの間にか耳を塞いでいた。もう何も聞きたくなかったのに、痩せ細った指の隙間を掻い潜って冬獅郎の声は聞こえ続ける。


「それもこれも全部!」


 その時の冬獅郎の声音に、憎しみが張り切れんばかりに詰まっていた。ふっと蒸発したその感情を、忘れないうちに酒に溶かした彼は、


「……ああ、俺は。違うのに、悠斗……すまん」


 弟に謝りながら、グラスに残った酒を一気に飲み干す。

 あの時、野々村皐月という人間が言った言葉で吾妻冬獅郎は戦場に向かった。

 その結果、吾妻冬獅郎は多くの人間を殺した。

 戦争を終わらせた。


「兄ちゃんはもうダメみたいだ」


 いつの間に自分は、人殺しになってしまったのだろう。こんな人殺しになるはずではなかった。


「ダメみたいって、どういうこと?」


 だから皐月は、死地に向かうのと同じくらいの覚悟を持って、冬獅郎の独り言に応戦した。


「だってそうだろ。俺は、ただの人殺しだ。」

「じゃあ、私を責めてよ! 私がいる意味ないじゃない!」

「……はっ?」

「私がいる意味は、今は、それなの」


 今日、皐月は見ていたのだ。翠川鉄の妹が王宮の前で泣きながら門番に頼み込んでいる姿を。門前払いにあっている翠川鉄の妹と偶然目が合って、恐ろしくなって逃げ帰った自分の臆病さが許せない。


 父も、母も、兄も、誰一人として望んでいないことを知っていた。その結末を迎えることを願う人物などいないと分かっていたのに、自分だけは呼吸をするみたいに自然と湧き上がる復讐心に従うことでしか救われることはないと思っていた。そう思い込んで、吾妻冬獅郎に近づいた。天罰を与えて、苦しむさまを間近で見て、自分の行為を正当化しようとした。


「何で自分で全部壊すのよ……」


 言いながら下を向くと、絨毯に黒い水玉模様がいくつも浮かび上がる。


「皐月……?」


 吾妻冬獅郎は立ち上がって、心配そうに皐月の名前を呼ぶ。すぐに自身の気持ちを棚に上げて、他人を思いやる。涙や自責の念は微塵も感じさせずに。

 どうやったら、そんなにも気持ちの切り替えが上手くなるのか。自分の心を隠せるのか。

 だから皐月は顔を上げ、頬を赤くしながら唸るように言った。


「私は別れない。冬獅郎と別れるつもりはない。だって仕方ないじゃん。そうなんだから、だから……」


 これはあれだ。一種の吊り橋効果だ。特殊な状況下でこんなにも一緒にいて、英雄のすべてを見てきて、


「私はあなたから全てを奪うために近づいた。あなたを壊すために、苦しめるために」


 皐月の言葉に面喰ったのか、冬獅郎はその場で立ち止まった。

 吾妻冬獅郎という人間はこの世で生きるべき人間、英雄だと呼ばれるにふさわしい人間。

 皐月はその事実を今はっきりと理解した。 

 兄も母親もそれを知っていたから、この英雄のせいにしなかったのだ。

 英雄の純粋すぎるほどの心と、何もかもを自分のせいにしてしまう自己犠牲の心が、嫌が応にも他人の醜さを引き立たせてしまう。


「私はそのために近づいたの……私は、あなたたちに、最初から」

「何となく……知ってたよ。それくらい。だから俺も安らいだ。皐月が、俺のことを貶すように接してくれるし」


 目の前の英雄はどこまでも人のせいにすることを知らない。

 人のせいにした方が楽なのに。そうやって生きた方が楽なのに。

 きっと彼を表現するのに最もふさわしい言葉は英雄でも天才でもない。

 彼は正真正銘のバカ真面目なのだ。

 そんな人ほど損をする。バカ真面目だから、天才なのにその事実に気がつかない。


「そんなこと言うから……あなたのことが、本当に、心の底から憎かったの。あなたといると、自分のことが嫌になるの……」

「そっか。よく言われるよそれ。お前が近くにいると、自分の才能のなさに嫌気がさすって」

「そういうことじゃない! それは違うの。みんな結局、妬んでるだけなの」

「でも俺は……多くの人の命をこの手で奪ってきた。そういう対象にならないといけない存在だから」


 自分を蔑んで、すべてを自分の責任にする。自分が悪い方に持ち込んでいく。そうやって天才である自分を保ってきたのが、吾妻冬獅郎という男なのだろう。


「あなたがそうやっていくら人の下に自分を位置付けようとしたって、意味ないの」

「いや……俺は実際そうだし。英雄の自分は虚像だし」

「それも自分自身なんだよ!」


 皐月はギリギリのところで保ってきた感情を崩壊させていた。


「笑ってるのも実像なの。笑ってる方がいいの……笑って欲しいのに、天才なのに……何で気付かないの? 責めないの? 怒らないの?」

「そんな資格ないよ。俺には」

「資格って何? 私は……翠川鉄って男と付き合ってたの。あなたとの仲を裂くために」

「……えっ」


 驚いた声を上げたけ英雄は、けれども、


「そっか。言ってたもんな。俺を苦しめたいって」


 無条件で納得して怒りもしない。挙句の果てには、


「その気持ち、俺にもよく分かるよ」

「分かるはずない! あんたなんかに……私の気持ちが」


 堪忍袋の緒が切れた。同時に、抑えていた感情が溢れてしまう。


「……ごめん」

「ほらまた謝る。……何で聞かないのよ。気付いてたなら、何で恨んでるとか……聞かないのよ」

「恨まれるようなことなら俺は死ぬほどしてきてるから、ありすぎて思い当たらないだけだ」

「じゃあ他のことに、何で気付かないの? 年齢も嘘ついたけど、苗字も変えたけど、名前だけは変えてない……前と同じなのに、そこだけは……本当のこと教えたの?」


 言いながら自分がそんなことを考えていたなんてと驚く。

 皐月は座り込んで、ぽろぽろと涙が落ちていく先には、黒いコーヒーの染みがあった。


「ごめん。……思い出せない」


 そんなの当然だ。会ったこともない。あなたは兄の友達だったというだけ。

 でも、天才なんだったら、陰で兄と遊ぶあなたのことを見ていたのだから……気が付いてくれたっていいのに。


「私は、桐ケ谷望の…………妹です」


 冬が来ることを拒絶して、必死で木の枝にしがみついている枯葉のような自分。格好悪い。


「……えっ? 望の妹……なの?」

「そう! だから私は! あなたのことを許さない。今でもまだ、全然恨んでるから……」


 口が勝手に動く。抱えていた、抑え込んでいた思いが止められない。


「あなたを絶望に追いやりたかった。あなたにも同じ気持ちを味合わせたかった。家族を壊したあなたを恨んでいた」


 皐月は立ち上がって詰め寄る。英雄の両肩を掴んで、顔を逸らそうとする吾妻冬獅郎と真正面から対峙する。


「ねぇ? 私の兄が死んだことはどうでもよくなったの? こんな人間じゃなくて……いつまでも兄に誇れる人間でいてよ」

「……どうでもよくなってなんかない」

「だったら! いつまでそんな惨めな姿晒すの? あなたが兄の死を、鉄の死を忘れて悩んでるだけなら、私が……今すぐにでも復讐のためにあなたを殺す。私が、私のために、あなたを殺すから……英雄なんだったら、親友だと思ってるなら、私に……そんなことさせないでよ。あなたを殺しちゃったら私は、死んだ父に、母に、兄に、合わせる顔がないじゃない」


 大粒の涙が止まらない。舌を噛み切る準備もできている。地獄にも行けないと分かっている。

 皐月は英雄の胸に額をよせ、子供のように泣き続けた。


「独りぼっちは……もう嫌なの」

「皐月……?」


 声色で英雄が戸惑っていると教えてくれる。自分が英雄を困らせていると分かっている。


「だから、お願いします」


 それでも、皐月は顔を上げられない。直接顔を見るのが怖くて、心に直接語り掛けるように、俯いたまま、


「こんな私に……ちゃんとした存在理由をください」


 涙で声が滲む。

 ちゃんと届け。

 かすれないで、伝わって。


「お願いします……。あなたのことが好きでした」


 そう告げた後、図ったように沈黙が訪れる。その時間は地球の自転も感じるし、宇宙の呼吸も感じる。時間の流れに取り残されていくみたいに、長く長く感じた。


「皐月」


 名前を呼ばれて、皐月は顔を上げる。英雄と目を合わせる。

 英雄の目には、あの頃とな時ような輝きが灯っていた。


「俺にも、存在理由をくれ」

「……はい。よろしくお願いします」


 英雄が皐月の体を優しく抱きしめる。暖かな日向に包まれているみたいに心地よい。

 皐月の涙腺は、どんな手練れの医者が手術しても治せないだろう。


「今までごめん。俺、大切なこと忘れてたよ」

「ううん。私も……ずっと忘れてた」





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