私がいる意味
その日、冬獅郎の苦悩はピークを迎えていた。毎日ピークを更新していた。
望が死んだときに嫌というほど打ちのめされて、ボロボロに砕け散ったはずの自尊心が、自分の意思とは無関係にまた形作られていく。周りが勝手に言うから、英雄だのとはやし立てるから、そのせいで苦しくなる。
どこか集中していなくて、それは必然だったのかもしれない。冬獅郎はいつもなら絶対にしないミスを犯してしまったのだ。そのせいで敵がすぐそこまで迫っていたのだ。
「あぁあああ!」
そんな状況で冬獅郎が導き出した打開策は、あまりにも無情なものだった。
自身の能力が出ないことを再確認し、机の上の地形図やペン、グラスなどを怒りに任せて払いのける。
それから一分と経たない内に大将クラスだけを集め、緊急会議で作戦の詳細を伝えた。
「その役目……俺の部隊が残る」
鉄が何を言ったのか分からなかった。
幻聴とか、そういう類のものだと思っていた。
「はっ? ……鉄? お前、何言って」
「今は時間がないんだ。冬獅郎は早く撤退の指示を出せ」
「でも……そしたら鉄が」
ようやく分かってきた。
今の状況は明らかに自分のミスだ。戦況を読み違い、敵の進行を許してしまった。
撤退しなければいけない。被害を最小限にするためには敵を食い止める部隊がいる。
鉄を失うことの損失、みんなを守るという利益。
全てを考えても、それが一番正しかった。
「大丈夫だ、心配するな」
「そういうことじゃない。それにこれは俺のミスだ。……残るなら、俺が一人で残る。こんなところで鉄の部隊を壊滅させるためには……ためには…………」
焦っている。他の解決策を探そうとして現実的でない案が自分の口から出てきた。
全滅ではなくて壊滅と言ったり、鉄の部隊と言ってみたり。
残忍な人間だけれど、今この状況で本当に守りたい人間はと問われたら、それはただ一人。
翠川鉄だけだ。
けれどそうしたならば、被害は格段に上昇する。決定打もない。
どうすればいいのだ。
「しっかりしろ冬獅郎。大丈夫だ。俺に任せろ」
「でもこれは俺のミスで……」
「冬獅郎がいなくなったら、勝てる戦いも勝てなくなるんだぞ!」
「だけど……だけど…………」
結論を出し渋る。そんなこと自分が一番分かっている。何をすべきでどういう指示を出すべきか。
「でも、鉄は……」
俺の親友だから無理だ――とは口が裂けても言える状況ではなかった。
「生き残ってもらわないと、だって重要な…………」
戦力でとも言えなかった。
「とにかく! だから……俺が残る」
直面した事実が冬獅郎の判断を頑なに鈍らせる。仮に鉄を戦力として考えたとしても、ここで残すべき人間は鉄なのだ。
そういう判断を下せるやつが、本当は参謀としてふさわしいのだ。
「……冬獅郎。冷静になれ」
「冷静になってるよ俺は」
「いい加減にしろ!」
鉄の張り手が冬獅郎の右頬を襲った。
痛みが体にじんと染みわたっていき、何かを悟ってしまった気がした。
「鉄……。でも……」
「大丈夫だ。俺なら大丈夫だ」
それは絶対生きて帰るから、という意味ではないのだろう。
「戦争に参加するって決めた時から、覚悟してる」
「だけど……」
「しっかりしろ! お前がそんな情けないやつだから、俺が残りたいんだ。俺がそう決めたんだ。みんなを守るため、何が一番いい方法か冬獅郎なら分かってるんだろ?」
「……それは、そうだけど」
「じゃあ、それでいい。俺が残りたいから残るんだ。お前を信じてるから、自信を持って残れるんだ」
鉄のまっすぐな目が語り掛けている。その確固たる決心がもう揺らぐことはないと。
「……それでも」
「冬獅郎!」
鉄の声を拒否するかのように強く目を閉じる。また思い出す。
望と鉄と自分の三人で遊びまわっていた日々を。楽しかったあの日々を。
悠斗を守ると決めた日を。
だから……俺は参謀として…………、
「――撤退だ」
その指示はすぐに伝達された。
「ごめん。鉄……」
「大丈夫だ。心配するな。今いるメンバーの中で俺が一番強いってことは、冬獅郎だってよく知ってるだろ?」
「ああ。もちろん」
強さを知っているから、どうなるかということも分かっているつもりだ。
「だったら安心して逃げろ。生きろ。……それで、もし俺が帰って来なかったら、頼むな。妹のこと……」
右肩に乗せられた鉄の手は随分と大きくてたくましい。
「そんな不吉なこと言うな。絶対返って来い」
鉄は冬獅郎の返事を聞くと、安心したように笑みを浮かべた。
「そうだな。弱気じゃ勝てる戦も勝てなくなるよな」
「ああ。俺の頭が、鉄なら帰って来れるって、そう言ってるから安心しろ」
「じゃあ死んでも帰って来ないと、冬獅郎に泥ぬっちまうな」
「鉄はそんなことしないだろ?」
「ああ。当然だ。だから、先に待ってるわ。なるべくもったいぶってから来いよ。色んな話聞きたいし、そうじゃなかったら承知しない」
「……俺の頭脳を舐めるな。びっくりする話ばっかり用意してやる」
最期くらいはと笑って、いつものように冗談っぽく、普段通りの会話のように。
「はははっ。それでこそ吾妻冬獅郎だ。昔から何も変わらない、吾妻冬獅郎だ」
「昔も何も、俺はいつでもどこでも、頭脳明晰で天才な吾妻冬獅郎だぜ?」
「ああ、そうだったな。すまん」
鉄は冬獅郎に背を向け、ゆっくり歩き出す。防具同士がぶつかり鈍い音がする。
五歩歩いて、立ち止まる。
「……俺が重荷になるなら、忘れたっていいから。……それじゃあ、またな」
鉄の去って行く後姿を最後まで見続ける余裕はなかった。
冬獅郎は他の味方と共に撤退した。
判断の正しさを証明するかのように敵軍は追いかけてこず、もちろん撤退の仕方だって工夫して、細心の注意を払って、足止めの作戦だって鉄には伝えてあって。
鉄は帰って来なかったが、最小限の被害で乗り切ることができた。
「おかえり冬獅郎。今回は、残念だったわね」
王宮の参謀室に帰ると、奥のキッチンスペースで皐月がティーカップにコーヒーを注いでいる最中だった。
無責任かもしれないが、撤退で随分と後退せざるを得なかった陣営に、冬獅郎は自分がいない間の作戦を託し、一人帰還していたのだ。
それは冬獅郎の判断ではなく、冬獅郎の疲労を考えた軍の大将たちの意見。
強引な説得を最初は否定していたが、最後にそれを受け入れたのは冬獅郎自身が安息を求めていたからだろう。
「……敗戦の知らせ。もう届いてたのか」
自身の帰還を知らせた覚えもないのに、用意されている二つのティーカップを冬獅郎は不思議に思う。
「いや、ただなんとなく……女の勘?」
「勘か……。そういうのが俺にもあったら、それを信じれたら、羨ましいよ」
凡人から見れば天才である自分の意見も、勘と同等のものとして扱われるのだろうか。
冬獅郎は黒革が張られている椅子に座り、机に突っ伏す。そこはいつも出兵前に基本の陣形や作戦を立てている机である。
「顔色。どうかした?」
コーヒーを注ぎ終わった皐月が、ティーカップを冬獅郎の顔の横に置いた。
「何で、俺は……」
皐月の言葉は聞こえていたけど、それに答えようとしたけど、出てきたのは自分を責める言葉だった。ゆっくりと顔を上げて、震える拳を何度も机に叩き付けると、ティーカップがカタカタと揺れた。
倒れはしなかったが、中の黒い液体は机の上に零れ落ち、カップの中もまだ揺れている。
テーブルの上に残されていた出兵者名簿一覧が、黒く湿っていく。
「ただ負けただけじゃないのね」
窓の横の壁に寄りかかってコーヒーを口に含む皐月は、夜空に浮かぶ月を見上げる。
こうやってどこか素っ気なく突き放すように言ってくれるところが、いつもの冬獅郎にとって安らぎなのだ。
「そんなに犠牲者、出したの?」
「そんなわけないだろ! 今回は……皐月が口出ししていいことじゃない! むしろ……最小限じゃない」
怒鳴ってみたり、矛盾した言葉を吐いてみたり。
確かに被害としては最小限だ。けれど鉄は死んだ。そもそもは自分の不注意が原因だ。
「……そう。冬獅郎って、人に向かって怒鳴ったりするのね。知らなかった」
皐月に意外な事を言われた。慰められたと感じた。
確かに、皐月に怒鳴ったのは初めてだったかもしれない。
いつもは皐月に何を言われても、笑うことができていた。
自分を蔑む、そんな微笑みを。
だからこそ、今の自分に失望した。
「ははっ。俺はそんな人間に成り下がったのか……」
「冬獅郎のこと、初めて人間らしいって思ったけど」
「……それは光栄なことだな。参謀としては、失格だな」
冬獅郎は皐月の方を向く。
皐月はカップを右手に持ち、その中をじっと見つめていた。
その右手が震えていた。
「そうね。参謀としては、失格ね。思考が短絡的すぎる」
「皐月はミステリアスな人間が好きなんだもんな。今まで隠してて悪かったよ。本当の俺はそんな人間じゃないんだ」
「まあ、ちょっとはびっくりしてるかな? 冬獅郎ってバカみたいに色々な事考えて結局、短絡的なものに収まろうとする」
「失望しただろ? 俺も人間なんだ。どうだ? 別れるか?」
皐月から返事は帰って来なかった。
冬獅郎は机に置かれたティーカップに手を伸ばし、一口。
握った取っ手部分は少しべたついていて、いつもよりはるかに苦みを感じた。
「……そのせいで俺が、鉄を殺したんだ! 俺が殺したんだ!」
コーヒーカップを足元に叩き付ける。床と衝突した部分から亀裂が入り、甲高い音とともに破片が四方八方に飛び散る。液体は赤色の絨毯に黒い染みを作っていく。
「どういうこと?」
「それが最適だったからに決まってるだろ……」
本当にそれだけでしかない。
「何で? 親友だったんでしょ?」
皐月が言ったにしては頭の悪い返答だと思った。そんな分かりきったことを聞くような人間ではないはずなのだ。
「俺のミスで、俺が残るわけにはいかなくて……参謀だから」
「だからって、親友を易々と……?」
「……ああ」
「何で? 何で自分から壊すの?」
「だから最適解だったんだよ! でなきゃ、そんな指示出さない。親友に……俺は……そういう立場の人間だから、国のために、これ以上私情は挟めない」
悠斗のために私情を挟んでいる。
今回だって何とか私情を挟もうとした。
けど、今回は吾妻冬獅郎でなくても導き出せる、本人ですら悟ることができた事案だったのだ。
「何で……自分で壊すのよ」
皐月の言葉が胸に突き刺さる。
吾妻冬獅郎という人間と関わってしまったばっかりに、色々な人間の人生を狂わせた。壊してきた。
「俺がそういう人間だから」
「……そう」
皐月は少し黙っていた。
「でも……それだけが方法じゃないと思うけど」
続けられた皐月の声は刺々しくて、冷たくて。
恐怖すら感じた。続きの言葉を心待ちにしている自分がいた。
「冬獅郎は戦争に私情を挟めないって思ってるみたいだけど、それは違う」
「……何が言いたい?」
「憎いんでしょ? それは挟んでもいい私情だと、私は……思うけど?」
ゆっくりとした狡猾な声に、耳が勝手に傾いた。
「私だったらそうするよ」
「……なるほどな。確かにそうだな」
冬獅郎は笑っていた。
「今は戦争やってるんだもんな」
握りしめた拳の内側に冷たいものを感じる。
氷が、能力が元に戻っていた。
「それくらい……やったって当然だよな。負けたんだから、今度は勝たないと」
「ええ。そうよ」
いつしか立場が逆転している。産声を上げた冬獅郎の残虐性に皐月が怯えている。
「皐月、悪い。俺……もう行くわ」
拳を開くと、まだかすかに熱を持ったコーヒーの染みの上に、氷の粒がパラパラと落ちた。黒い染みの中に溶け、消えていった。
「……気を付けて」
冬獅郎は返事をしなかった。冬獅郎が出て行った後の部屋はしんと静まり返り、勝手に体が震え出すほど、何もかもが凍りついているみたい。
「これで良かったの」
皐月は自分の体を抱きしめる。この冷たさを求めていたのは自分だと、体に言い聞かせ、震えを止めようとする。
「何で……そんな理由で親友殺すのよ。私がいる意味ないじゃない!」
皐月は背後の壁を拳で叩き付け、
「自分で全部やっちゃうんだから……」
その壁にもたれかかるようにして、静かに座り込んだ。




