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兄と弟




「……ただいま」


 闇を呼び寄せるような静かで孤独な声。悠斗ひさとはソファに座って本を読む兄の姿が見えてから、ようやく声を絞り出す。


「おお! やっと帰ってきたか。店閉めてたから家にいるかなぁーって思ったのにいなかったから、どこ行ってたのかと」


 兄は読んでいた本を閉じ膝の上に置く。

 見ている方が気の滅入る表情の弟を、兄はそれをもみ消すほどの明るい声で迎え入れてくれる。

 やっぱりこの方がいい。


「別に。汗拭く用のタオル買いに行ってたんだけど……」

「そっかー。鍛冶屋も大変だなぁ。見てるだけで暑そうだもんな」

「そこまで……でもないけど。多分兄ちゃん程じゃないから。客いないときとか暇だし」


 空き瓶で埋め尽くされていた部屋は、綺麗に整理整頓されている。そんな部屋の中で弟を出迎えた兄はお気楽ムードで笑っている。

 半年前の兄からは想像もできないほどの変わりよう。真っ黒に染まっていた兄の心は、家の中の埃っぽさと共にどこか遠くへ行ってしまったみたい。

 その変化の大きな要因は、兄の彼女である野々川皐月ののかわさつきさんの影響だろう。

 今度、皐月さんと兄は結婚するとか。その話をする兄の嬉しそうな姿を見たら、悠斗もまるで自分のことのように嬉しくなった。

 兄の落ちぶれた姿を見ることはもうない。兄の心を柔らかくしてくれた皐月さんには感謝してもしきれない。愛の力は、それだけで偉大なのだろうと分かる。


「……でさ、兄ちゃん。まあ、その、あのさ」


 しかし、今はそれとはまったく別の事案のために、悠斗の心模様は曇っている。ドアの前から動かないのは、怒りというかもどかしさというか。雨風にさらされた蜘蛛の巣のような感情を抱えてしまって、兄に愚痴を零さずにはいられなかった。


「どうした? スッキリしない奴だなぁ」


 背もたれに体を預け、背伸びをしながら兄は言う。

 兄はもともと先天性の病気かと思えるくらい明るい人間だった。そんな人間があの最悪な状態に陥っていたのだから、今の兄は前以上に明るい人間に思えてしまう。少々鬱陶しいくらいだ。


「実は今日、財布ひったくられてさぁ。同い年くらいの女の子だったんだけど、何かさぁ、やっぱ、そうなのかなって」


 悠斗はつい先ほどのことを思い出していた。日没前、絵の具のチューブから取り出したばかりみたいなオレンジ色の空を、追いかけるように見惚れて、暗くなったことに落胆して。すれ違いざまに薄汚い服を着た女の子にぶつかったと思ったら、持っていた財布を取られてしまったのだ。


「そっか……」


 流石の兄も口を閉ざす。表情に影が色濃く出ている。


「……うん」


 弟も同じように黙り込んでしまった。

 ただ、弟はそのひったくり犯に苛立っているわけではない。兄の性格を鑑みれば、弟と同じなのだろう。

 まだ不安定な国の情勢上、そういったことは日常茶飯事で起こっている。英雄と呼ばれる兄を持つ悠斗は生活に困っているわけではない。一五にして自分の店も持てている。

 だから、ひったくりをしなければいけないほどの状況に追い込まれた人間の気持ちを慮ると、被害者というだけで短絡的に苛立ったりはできないのだ。


 兄だってそういった現状をいち早くなくそうと奮闘し、ひったくり犯のことも、引いては自分のせいだと思っているのかもしれない。

 頭脳明晰な兄が国の政治を決定していて、解決できないことは他の誰がやっても解決できないことと同値であるし、むしろこのペースで復興が進んでいるのは兄のおかげでもある。


「すまんな。悠斗」

「いいって、発想の転換ってやつ? 俺がお金をあげたって思えば」

「……そうだな。でも、やっぱりそれじゃあだめなんだよな……。結局何の解決にもなってない。それで一時は助かってもまた」

「ああ! そうだ。お風呂入ってくる!」


 悠斗は逃げるように風呂場へと向かう。兄の暗い表情はもう見たくない。そうさせてしまった罪悪感が弟をその場に居辛くさせた。


「……ごめん。兄ちゃん」


 悠斗は階段を降りる途中で、立ち止まり、謝罪した。兄に聞こえないように、横の壁を二度、弱々しく殴りつけた。足音を消して、ゆっくりと階段を下りていく。ぼんやりとした視界のまま脱衣所に入り、服を脱ぎながら、


「……前向きなんだけどさ」


 と言葉が零れてくる。


 兄が自分を責める時間は明らかに減った。現状を変えるにはどうしたらいいのかと考えるようになって、そういった前向きな感情が兄の中で芽生えだしたのも、きっと皐月さんのおかげなのだろう。


 本当に、皐月さんはいい人だ。弟である悠斗にも優しくしてくれて、悠斗は皐月さんに母親の姿を重ねたこともあった。兄と皐月さんが結婚して、一緒に暮らすようになるのが楽しみだ。

 皐月さん。ありがとう。

 兄を元に戻してくれて。

 それはどれだけ大変なことだったのだろうか。考えるだけでもあなたを尊敬せずにはいられません。

 今度、皐月さんに会う機会があれば、この気持ちを伝えておこう。


 服を脱ぎ終わり、悠斗は浴室の扉を開ける。中に入る。

 まずシャワーを浴びようとして、何故かすでに立ち込めている湯気の多さに違和感を覚えた。兄が浴槽の蓋を閉め忘れたのかなと思い、視線を浴槽に動かすと、悠斗の体が無意識に反応した。


「なっ……」


 体が硬直し、その姿に釘付けになった。


 湯船の中で、火照った体よりも顔を真っ赤にしている女の子……と裸体。大きく見開かれた両目で悠斗の存在を認識し、肩まで伸びている癖毛の黒髪が艶やかに細い首筋を隠したり隠さなかったり。慌てて腕で胸を隠し、膝を立て、体を小さくすることで胸よりももっと大事な部分を隠す。


「ひやぁ!」


 その照れとも驚きとも取れる声に、悠斗は目を疑う。混乱する。男の性なのか恥じらう彼女の姿から目を逸らすことができない。


「……おま、何で?」

「いつまで見てんのよ! この変態!」


 悠斗の視線が逸れないことに、彼女は沸々と怒りを蓄えていったらしい。湯船に浮かんでいた木製の風呂桶を掴むと、それを悠斗向けて剛速球。きっと一八〇キロはくだらない。世界新記録だ。


 もちろん、動揺する悠斗はその隕石と化した風呂桶を交わすことなどできなかった。額にジャストミートし、後方に思い切り倒れ込んで苦悶の表情を浮かべる。風呂桶が床のタイルにぶつかる音は甲高いものだったが、悠斗の尻が床にぶつかる音は、まさに鈍いそのものだった。


「……ってえ」


 痛がりながらもまた裸の彼女を見てしまう。しかし、今度は自身が座っていることで浴槽が彼女の下半身を隠し、胸から上の部分しか見ることができない。

 ようやく冷静になれた。はずはなかった。


「……あ、あ、ああ、わざとじゃないんだ。ってか何でお前? 俺ん家の風呂に」


 慌てて顔を横に向けたが、眼球がどうしても彼女の姿を追ってしまう。

 恥ずかしさと怒りが混在している彼女の顔は、噴火直前の活火山も白旗を上げることだろう。


「あ、あんたいつまでそんなもの見せてんのよ! 早く出てって! 早く!」


 彼女は悠斗の股間から目を逸らし叫ぶ。しかし、その目がちらちらと股間に向かっているのもわかる。ああ、女性が胸の谷間を見ていることに気付けるのって、こういう原理か。それともお化け屋敷にあえて入るような感覚だろうか。


「わわ悪い。すまん!」


 先程の転倒でグラビアアイドルのポーズのように足を開いてしまっていた悠斗。その体位はむしろ局部を自分から見せようとしている恰好であった。


「わざとじゃないんだ!」

「いいから早く出てけ! 変態!」


 股間を手で隠し、謝りながら悠斗は脱衣所へと逃げ帰る。

 まあ、女子の入浴現場を目撃してしまったことは謝らなければならない事案なのだが、男子のチンアナゴをチラチラ見て勝手に恥ずかしがるというのは、相手の意思やら興味やらのせいだろうと思う。


 言っておくが、その光景が快感だったわけではない。


 それに、恥ずかしがる彼女にさっき気が付いたことを聞く暇は、この時にはなかった。

 風呂のドアを閉めそこに背中を預けながら、力の抜けた体が下へ落ちていく。

 ようやく兄である吾妻冬獅郎あがづまとうしろうがやってきた。


「悠斗。風呂には今、あやが……」

「もう遅いよ! 先に行ってくれよ!」

「いやぁ。すっかり忘れてたよ」


 うんざりしながら怒る悠斗をよそに、冬獅郎はたいした事でもないかのように笑みすら浮かべている。

 悠斗はため息だけで全てを済ませた。

 今のあっけらかんとした兄にこれ以上責めても時間の無駄だ。もう一度ため息をついて悠斗は立ち上がる。水滴の付着した体をタオルで拭くこともせず、服を着ながら、


「……ってか、何で女の子がこの家に? それに……あいつ」


 素直な疑問を口にした。あえて少し大きな声を出してしまったのは、蓄積されたもやもやを、どこかに吐き出したかったのだ。

 そっちの意味ではなくて。


「それは、まあ……何ていうか……ちょっと部屋に戻って話す」


 兄は浴室内に声が伝わらないよう配慮して小声で言った。


「……分かった」


 悠斗も兄の真意が何となく理解できたので、その後は黙って脱衣所から出て行った。脱衣所の扉を閉める前に一度だけ、浴室へとつながる扉の擦りガラスを見つめてしまったことは記憶から抹消する。


 脳内で思い返していたなんて、そんな破廉恥なことは絶対にしていない。

 破廉恥を漢字で書けるほどには、悠斗だって頭がいいのだから。





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