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恋愛照合理論(ラブマッチング)は嘘をつかない  作者: 田中ケケ
第二章 家族と居候の狭間
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無糖




「ふぅー。美味しかった」


 パンの上にトマトとかを乗せたやつを食べ終わった杏南は、砂糖をたっぷり加えたアイスコーヒーBを口にして一息ついていた。


「でも、本当に良かったの? コーヒーとケーキだけで」

「うん。あんまりお腹すいてなかったから」


 綾にとってその言葉は、本当でもあり嘘でもある。

 おしゃれな名前を言うのが恥ずかしいというちっぽけな悩みを持っている杏南が羨ましくて、注文は控えめになったのだ。

 綾はコーヒーAを口に含み、溢れ出ようとする感情と一緒に体内へ流し込んだ。


「綾ってさ、やっぱり大人って感じがする」


 言葉の意味がよく分からない。

 コーヒーAを飲む仕草が大人っぽかったということだろうか?


「ん? えっ? いきなり、何で? 別にそんな……」

「いや、だって普通に飲んでるじゃん、それ」


 杏南は綾が飲んでいるコーヒーAを指差す。


「えっ? コーヒーならさ、杏南だって飲んでるじゃん」

「そうだけど、そうじゃなくって。ここのコーヒーってさ、すっごい苦いって有名なんだよ? 通にはそれがいいとか何とからしいんだけど、私は砂糖いっぱい入れなきゃ飲めないって思ってたし実際そうだったし。なのに綾はそのコーヒーを無糖で……くぅー、羨ましいぜ!」

「そんなこと……ま、いずれ杏南も飲めるようになると思うから」


 この返し方で正しかっただろうか?

 綾には考える余裕もない。


「そうかなぁ……。でもそう言えば悠斗もコーヒー飲むときは何も入れないんだよね」

「ふーん、そうなんだ」


 悠斗という名前が聞こえてきて、無意識に綾の思考回路は外部から取り残されてしまう。

 家族、悠斗、お兄さん、今朝。


「やっぱり……綾みたいな大人っぽい人がタイプなのかな……悠斗って」


 不意に小さくなった声は綾の元まで届かなかった。


「えっ? 何?」


 聞きそびれて申しわけないと思った綾は、慌てて聞き返す。


「えっ?」


 杏南は綾が反応したことに驚いていた。

 誰にも聞こえないくらいの声で言ったつもりなのだろう。

 もしくは、自分ではそんなこと言ったつもりがなくて、零れていた心の声を綾に指摘されて初めて気が付いたのだろう。


「あっ、いや……今杏南が言ったこと、よく聞こえなくてさ」


 聞き返してしまった手前、それをなかったことにはできない。


「私が言ったこと? ……あっ! ううん。何でもない、何でもないんだけどさ……」


 何か言いたげな雰囲気を残しつつ、黙り込んだ杏南。


「……あのさ、まあ、その」


 俯いていく杏南が見せた影のある表情に、綾はある意味で見惚れてしまったのだ。共感したのだ。


「……綾ってさ、悠斗のこと好きなの?」


 コーヒーAの入ったグラスに水滴がびっしりと付着している。

 突然聞こえた静かな声に、綾は誰がその声を発したのか分かっていなかった。


「杏南?」


 もちろんこの場にそんな人は一人しかいない。

 底抜けに明るい性格の持ち主であったはずの杏南だ。


「……えっ?」


 疑問形で聞き返したのは純粋に何もわかっていなかったから。思わずグラスを掴んで水滴に驚き、そのまま持ち続ける。綾が聞き返しても杏南は目を伏せ続け、それ以上何も話さなかった。

 笑った顔ではなく、真顔でもなく、憂いを感じずにはいられない表情が、見ていて切ない。


「……あっ、いや、それは……その」


 綾は頭の中で何度も杏南が言ったことを復唱してみる。繰り返して、ようやくその意味を理解する。戸惑ってしまう。


「私は……その……」


 場を繋ぐために言葉を発しながら、とにかく否定の言葉を探して、それが適切かなんて考えもせず、


「……ないけど」

「私は好きだよ」


 綾が言い終わってすぐ杏南は宣言した。綾の言葉の余韻を掻き消すように、力強く覆いかぶさるように。


「……そうなんだ」


 綾はそれだけ言って目を逸らす。

 杏南の言葉は続いていく。


「私は小さい頃からずっと、悠斗のことが好き。子供の頃から、悠斗とずっと一緒にいて、でも、勇気がなくて気持ちを伝えられなくて」


 杏南は喋りながら、まだ半分ほど入っているアイスコーヒーBのグラスを掻きまわす。溶けかけで少し丸みを帯びた氷がカラコロとグラスにぶつかっていた。


「悠斗は、杏南のこと好きなんじゃないの?」


 その音を聞く綾は、必死でその言葉を紡ぐしかないのだ。

 希望論的な発言。笑顔じゃない杏南を見ていると息苦しくなる。

 励まさなければ、自分の感情が伝わってしまったのではないかと、焦りが募る。


「ううん。きっとそんなことない」


 杏南はため息を吐いてから、ゆっくりとした口調で否定した。


「でも、杏南には遠慮しないで話してるし、それくらい近い存在ってことなんじゃないの?」

「それは、友達だから……、そう思ってるからってこともあると思うんだ」


 杏南のグラスを回す手が止まった。

 綾はその言葉に何も言い返すことができなかった。口の中が何故か乾き始めて、なのに目の前にあるコーヒーAを飲もうとはしない。


「悠斗って、誰に対しても優しいからさ」


 杏南の消え入るように呟かれた声は、誰に対して言っているのだろう。

 そっぽを向くように顔を横に向け、綾にもようやく聞こえるくらいの小さく沈んだ声。


「そうなんだ。……いや、そうだよね。分かる」


 綾も杏南とは反対側。窓ガラス越しに街を行き交う人々を眺めるしかなかった。

 二人の間には静けさしかなくて、店員がせわしなく動き回る音と、他の席に座っている客の会話が、騒音のように耳につく。

 それくらいその喧騒を聞いていただろう。

 綾は耐え切れずに立ち上がろうとした。杏南が先に立ち上がっていた。


「あっ! そうだった! そう言えば私ママにお使い頼まれたんだった。すっかり忘れてた」


 先程までの霧雨みたいな感情を微塵も感じさせず、杏南はただただあたふたしていた。


「ごめん、綾。私もう行かないと。ってかそれで出かけたんじゃん」


 言いながら慌てて席を立つ杏南を見て、綾は何とか笑顔を作る。


「そう、だったんだ。何か、ごめんね」

「ううん。だって楽しかったし。じゃあまた。あっ、お金ここ置いとくから。また一緒に話そうねー」


 手を振りながら、「やべぇ、ママに怒られる」と呟いた杏南の顔には、あせりという言葉がいくつも引っ付いていた。


 ――私も楽しかった。今日はありがとう。


 言う前に杏南は去っていたので、声には出さなかった。


「うん。今日は楽しかった……と思う」


 綾は杏南を見送ってからようやくため息をつき、しばらくそこに座って窓の外を眺めつづけた。

 思い出すのは昨晩の悠斗との会話とか、その少し前の出来事とか。


「……言わないつもりだったのに」


 悠斗から兄のことを聞かれ、どうして正直に言ってしまったのだろう。聞かれた相手が弟だったから、自分と一緒に苦しんでもらおうと思ったのかもしれない。

 当てつけもいいところだ。


「知らない方が……よかったなぁ。親友……後悔……。だから一緒に住もうって、あんな顔で」


 そのおかげで、聞きたくないことまで聞いてしまうことになった。心に引っかかっていた何かを知る羽目になってしまった。

 綾は他の客にばれないように、心の中で泣いた。


「コーヒー飲めるの……もう味が分らなくなっただけだよ」


 街を行き交う人を眺めたって、気が休まることはなかった。





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