第二十五話 町と酒場
フレティア歴 274年 11月2日
フレティア王国 ポート・ヴァール 市場
最近になって、よくヴァールの町まで出てくるようになったが、その印象というと、やはり、汚いの一言だ。
海辺の町ということもあり、独特の生活臭のほとんどはは潮風がさらってくれてはいるが、その発生源と言える場所からは、嫌なにおいが立ち込めている。流石に汚物は周りの農家が肥やしとして集めているらしく、二階から放り投げるということはないが、外に置かれた汚物溜めが臭気の主な原因となっている。
道はというと、表通りは砂利道でかろうじて整備の努力が見えるが、入り込んだ路地はというと、土がむき出しのままで、雨でも降ろうものならたちまち泥濘へと変わってしまうだろう。さらに始末の悪いことに、その路地には、ところどころに大きく、深い穴が開いており、雨が降り水溜りにでもなってしまえば、迂闊に足を入れることも危ぶまれることになるだろう。何故そんな穴があるのかというと、どうやら住民が家の土塀や壁を直すのに使うため、掘り返しているらしい。
衛生観念やインフラ、何より規模という点において、元いた世界の町に、大きく劣っている町ではあるが、そこに住まう人々の活気という点においては、勝るとも劣らない。イーデンの肩の上から町の端々を眺め見てみる。
港では、漁師や、沖仲仕たちが威勢のいい声で何やら指示を飛ばしながら、魚の詰まった箱や、荷揚げした荷物を運び、それを大店の商人たちが忙しく帳面つけている。その傍らでは、船から降ろされたものを買い付けるために、若い商人たちが、我先にと、仕入れ値の交渉を行っている。
住宅地に目をやれば、各家から炊煙が立ち上り、路地や庭先からは楽しげに遊ぶ子供たちの声が聞こえてくる。更によく目を凝らせば、井戸端話に花を咲かす主婦たちや、子供たちを楽しげに眺める老人たちも見て取れる。
市場では、各商店の主たちが、粗野ながら味のある声で、客引きを行い、道の傍らに置かれた屋台では、まだ日も高いというのに、男たちが酒を片手に管を巻く。市場の路地裏の工房では、小さな炉で野鍛冶たちが鉄を打ち、木工所では大工たちが鑿と槌を巧みに使い、大木から素晴らしく精巧な木工品を作り上げている。
私が町を少し覗いただけで、これだけ多くの人々が育ち、働き、作り、使い、そして老いて行っているのが分かる。この港町で行われる人の営みは、元いた世界よりも輝いているように思える。時代ということもあり、人の寿命が短いからであろうか? それとも、すべてのものが人の手によって作り出されているからだろうか? よくわからないが魅力的な何かがある。
そんなことを考えていると、グレックが立ち止まり、目の前には、ねずみの絵が描かれた看板をぶら下げた店が現れた。もう目的の場所へ着いたようであった。
「着きました、ここですよ」
「良さげな店ですねぇ、こんな辺鄙な…… いや、失礼」
店を眺めたイーデンは率直な感想を言ったようだが、気を使い訂正する。私はこの町しか知らないので、辺鄙かどうかは分からないが、大陸から見ればフレティアは辺境なのだろう。
「はは、良いんですよ。実際、わしも最初は、辺鄙なとこだと思っておりましたので」
そう言いながら、店へと入っていくグレック。それに続いてワイルダーが入り、イーデンが入ろうとするが、待て、待て! ちょっと待ってくれ! 私はイーデンの頭を軽く叩きながら、少し待つよう告げる。
「イーデン兄さん! ちょっと待って!」
「なんですかい、坊ちゃん? おっとこりゃ失礼」
そう言いながらイーデンは、私を肩から降ろす。
「いやぁ、間一髪でしたね。危うくぶつけるとこでした」
「いえ、……ありがとうございます」
ただでさえ背の高いイーデンが、私を肩車しているのだ。このままいけば頭をぶつけてしまうところだった。
「さあ、中に入りましょうや、あっしもそろそろ小腹が空いたところです」
そう言ってイーデンは中に入ってしまった。何というか気の良い人ではあるが、細かなところは気にしない人なんだよなぁ、まぁ悪い人ではないことは違いない。そう考えながら店の中に入ると、昼飯時を過ぎたというのに、まだ何人かの客が残っており、台所では店員が忙しそうに働いていた。
勝手知ったるといった様子で、グレックは奥の机に腰を据えたので、私たちもそれに倣って席に着く。
「おーい、女将」
グレックが呼ぶと、奥から恰幅の良い女性が現れた。
「まぁ、スミスさん! 久しぶりね、今日はお連れ様をたくさん連れてどうかしましたか?」
まくしたてるような早口で、しゃべる女性だが、その言葉に聞き取りにくさはなく、客商売に必須の、愛想のよい笑みも忘れず浮かべている。
「こちらはアンドリュー様のお客人でな、そしてこちらは屋敷の坊ちゃんだよ」
聞くや否や、女将と呼ばれた女性は驚く。
「まぁ! フォードの坊ちゃんに、フォードのお客さんなんて! こんなことだったら亭主に言って、もっといいもん仕入れさせますのに!」
「いや、それでいい。客人と坊ちゃんにはありのままを見てもらいたいんでな、だからと言って手を抜かんでくれよ」
グレックの言葉に女将が笑った。
「いやですよ、スミスさん。それじゃあうちが、いつも手を抜いてるみたいじゃありませんか! いつもどうり丁寧に作らせてもらいますよ」
「うん、じゃあ軽いものを2、3品頼むよ、酒は……」
酒という言葉にイーデンがほくほく顔で答える。
「あっしはいただきます、グレックさんもどうですか?」
「ではわしも、ワイルダー殿もどうですかな?」
「いや、私は遠慮しておきます。何か酒精の無いものを」
「では、酒が二つと、何か酒精が無いものを二つ」
グレックがそういうと女将は「分かりましたと」軽く告げ、奥の厨房へと入っていった。
「お酒なんていいの?」と私が聞くとグレックとイーデンは「酔わなきゃ大丈夫だ」と自信ありげに言う。大丈夫か?
ワイルダーはその鉄面皮から分かるように真面目な性格らしく、昼間から酒を飲むという行為はしないようだ。
「どうでしたかな? フレティアは?」
グレックが唐突に切り出したその言葉に、二人はそれぞれ違う反応を見せた。
「いい国ですねぇ、酒も美味いし、女は美人、おまけに平和ときたもんだ。余所から来たあっしたちにも変な目を向けることはねぇし…… 兵隊稼業が続けられないことを覗きゃ、最高の国だと思いますぜ」
満足げなイーデンの言葉に「それは良かった」と笑顔でグレックはほほ笑み、次に「ワイルダー殿はいかがですかな?」と促す。
その言葉に、悩んだ様子でワイルダーは答える。
「……大陸に比べ遅れている箇所はあると思いますが、確かに平和な国です。だが、少々それに甘えた節があると」
「そう言いますと?」
「まず、王都からここまで来るのに、砦や関所の類がほとんど見えませんでした。あったのは崩れた城と、人のいない関所だけでした。では、代わりに兵士が巡回でもしているのかというとそういう様子でもない」
グレックは神妙な様子で聞き入っている。
「となりにエイウスという国がありながら、ここまで無防備でいられるというのは、正直なところ大陸ではありえないかと」
「そうですなぁ、エイウスは良くも悪くも、賢き隣人ですからな。生かさず殺さず、それでいて怒らせずに巧みに恩を売ってくる、そして兵馬で得たものは兵馬で失うということをよく理解している」
「攻め込んでも利がないのを分かっていると?」
「そういうことでしょう、あの国は商人の国です。通商を禁止でもしない限り、他国に矛を向けることはしないでしょう」
「へぇー、シローニュの王に聞かせてやりたい話ですね」と、イーデンが言うと、
「シローニュが戦争を止めるのは、息を止める時だ」とワイルダーが冷たく言った。
一体全体どんな国なんだ? そんなことを考えていると、先程の女将が、料理を運んできた。
「話は一旦止めにして料理を頂きますか、熱いうちに食べないと料理に失礼ですので」と、グレック。運んできた女将は「そんな大したもんじゃないですよ」と謙遜するものの、確かに運ばれてきた料理は、昼食からあまり時間の経っていないことを差し引いても、どれも食欲をそそるものばかりであった。
一皿目は生牡蠣、15個ほど盛られたそれは、やや小粒なれど、光量の少ない店の中でも、てらてらと美しく輝いており、見ただけで新鮮だということが分かる。皿の脇に盛られ、半分に切られた緑の柑橘類は見ただけで口の中に涎がたまる。絞ってかけて食えということだろうが、見ただけの悪魔的なその味の融合が想像できる。
二皿目は海老、人差し指ほどの大きさの海老を茹でたもので、殻は剥かれているが、湯気を立てているということは、茹で上げて熱いままのそれを素早く、丁寧に剥き身にしたのだろう。味付けはというと、見て取れる範囲では、溶けかけた大粒の粗塩が降りかかっている、甘みのある海老の身をさらに引き立てていることだろう。
そして最後の皿には、素揚げした小魚が盛られている。低温の油でじっくり揚げられたのであろうそれは、きれいなきつね色に揚がり、骨まで食べられるということが容易に想像できる。
ただ一つ、不服があるとすれば自分の前に置かれた飲み物が、並々と注がれた白い水牛の乳だということであろう。さっぱりとした乳であるとはいえ、乳臭さのあるそれは、この料理のどれにも合わないこと請け合いの飲み物であった。サービスということであろうか、水牛乳と一緒に置かれた小皿に乗せられた四粒のサイコロ状のカラフルなゼリー菓子が余計哀愁を誘う。
グレックが「では、食べましょうか」と言った途端、各々目当ての皿へ手を伸ばす。食器などというものはない、無論手づかみだ。イーデンは最初から目を着けていたのだろう、いの一番に生牡蠣に手を伸ばし、盛られていた柑橘を、キュッとそれに振りかけ、つるりと飲み込み数度噛み締め、酒で飲み下したのち、この上なく幸せそうな顔になる。羨ましい。生牡蠣の濃厚さとそれを引き締める酸味、そして酒! そのマリアージュ知っているこそ羨ましい! 何より歯がゆい。まさかこのようなことで子供であるこの身を呪うことになるとは!
負けじと盛られた剥き海老へと手を伸ばす、それを口に入れた瞬間、ぷりぷりとした触感とともにほのかな甘さが広がる。茹で時間もちょうどいいようで、中が半生であるとか、茹ですぎてうま味が流れスカスカといった、つまらないものということはない。それを飲み下してやろうと手元のコップに口をつけると、乳臭さと、何とも言えない生臭さが口に広がる。……悲しい、この悲しみは何だろう。
呑兵衛二人はというと、この上なく幸せそうに、鉄面皮さんはというと表情は変わらないがもりもりと料理を平らげている。意外と健啖なのだろうか?
私は何とも言えない悲しみを背負いながらも、四人で料理を平らげ、再びの歓談の後、店を出ると、再びイーデンは私を肩車する。
都合、五杯のお替りを要求した男に、肩車されるというのは甚だ不安である。
「イーデン兄さん、大丈夫なんですか?」
「えぇ、大丈夫ですよ、あれぐらいじゃあ酔いません」
確かに顔色も正常で、足取りも軽やかだ。自信ありげに言うだけあって、相当の酒豪なのだろう。
それから、また街をぐるりと一周したのち、屋敷に戻ることとなったが、その日の夕食があまり進まず、父や祖父に心配されることになるなってしまった。申し訳ないが子供の胃はそこまで大きくないのだ。
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