第二十三話 父と子
フレティア歴 274年 10月31日
フレティア王国 ポート・ヴァール フォード名誉子爵邸
客室で、ワイルダーとマッカローが妙な空気に包まれていたころ、この屋敷の書斎でも二人の男が集まっていた。
屋敷の主ロレンスは、部屋の中央に置かれた立派な机で何やらモソモソとしながら書類と格闘していた。よく見ると彼が座っている椅子は、机と比べると不釣り合いなほどに小さな椅子であった。
そして元主アンドリューは、その脇で大きな背もたれ付きの椅子に、肥満した体を預け、腹を突き出して、いつの間にやら、ウィルから引っ手繰ってきた稲の生育記録を読みふけっている。
部屋にある光源は机に置かれた燭台一つ、文字を読む親子の距離は自然と近くなっている。
「父上」
書類仕事が切の良いところまで終わったのだろう。ペンを置きながらも、書類からは目を離さずロレンスは隣のアンドリューに話しかける。
「なんだ?」
アンドリューもまた、手元の生育記録から目を離さずそれに答える。ロレンスも目線を逸らさず、ただ、下を向いまま話す。
「私は商人に向いていないような気がしてなりません」
「さっきのことを気にしているのか?」
息子の深刻な相談事に対しても、アンドリューは手元から目を離そうとしない。
「はい」
そう答えたロレンスの声は、酷く気弱で、自信の欠片もない、弱々しいものだった。
「そういうことなら、心配はいらん。お前はよくやっている、この上なく、向いているさ」
小さな椅子を蹴飛ばすように立ち上がり、さきほどとは打って変わって、強い口調で言い放つ。
「何を根拠にそのようなことを! あの様を見たでしょう! 貴方や、リンメル! そして何よりウィル! それに比べて私などは……」
強めた口調に含まれるのは、怒気ではなく、劣等感や羨望が含まれていた。ロレンスの顔は、その美丈夫然とした美しい顔を歪ませ、酷く悲愴で、悩ましいような表情をしていた。
このロレンスの言葉でも、アンドリューは落ち着き払った様子で、視線を上げない。手に持ったものをペラペラとめくっている。
「何かお前は勘違いしとらんか? 商人がすべてわしのような連中だったら、半分は破産して鉱山奴隷にでもなっとるわ」
素っ気無く言い放ったようなその言葉は、やさしさと、厳しさが同居していた。それを聞いた、ロレンスは少しハッとした様子を見せたが、変わらず下を向いている。
「それになぁロレンス、今回の話もそうだが、それに使う金の工面は誰がやった? お前だろう、それも帳簿も見ずにリンメル商会の売掛と、ほかの商会の証書の残高まで諳んじていた。そんな芸当わしにはできんさ」
今回の取引の決済は、フォード商会のリンメル商会に対する売掛金と、フォード商会がほかの商人や貴族に対して貸付ている貸付証書でもって行う。現金という重量物を遠隔地まで運ばずにともよい、非常に便利なやり方だ。だが、このやり方は長年の取引と、信頼関係あってのものだ。長年と取引が無ければ売掛金は貯まらないし、信頼できない商会から証書を買い取るなど、不渡りの可能性があり怖くてできたものではない。大店同士であったとしても易々とできない真似事だ。
売掛金や証書の残高を憶えるいうことも、小さな商会であれば簡単なことであろうが、フォード商会のような、日々取引がある商会では容易なことではない。それを事細かに記憶するという才能はアンドリューの言うように稀有なものである。
「お前は、自分には商機を掴む力がないと思っとるんだろうが、それでいいんじゃよ。何も、今回のように客を見つけ、新しい商品を商うだけが商売じゃない、今までの得意先を大事にし、信頼を築いて商売をするのが、わしら以外の、大多数の商人がやっていることだ」
その言葉には、先程まで含まれた厳しさというものは、ほとんどなくなっていた。
「なぁロレンスよ、むしろそれが普通なんじゃよ、お前がほかの商人に『フォードの金庫番』と呼ばれているのを気にしてるのは知っている。気にするなよ、金庫番どころか自分の財布の管理もできん木端共の言うことだ」
金庫番、それはあまりに几帳面に帳簿をつけるロレンスに送られた、侮蔑と畏敬を込めたあだ名であった。最も、ロレンス自身はこのあだ名を、侮蔑の意を強く受け取っていたようである。
「デレク君もお前のことを高く買っている。「あれほど細かく帳簿を憶えて、記録している会頭はフレティアどころか、エイウスにもいない」と言っていたよ。『商人の帳簿は嘘をつかない』その言葉の意味が分からんお前ではあるまい?」
言っている人物のせいか、皮肉のように聞こえはするが、そのようなことはない、誉め言葉である。この言葉を聞くころには、ロレンスは表を上げ、アンドリューの方へ向き直っていた。
「少し、冷静さを欠いていました。父上やデレクさん、それに我が子にまで当たってしまった…… 商人どころか、父親として…… どうか、今のことは忘れてください」
その声にはもう、劣等感や弱々しさといったものはない。ただ己の失敗を恥じ入るようなはにかみだけが含まれていた。
その様子にアンドリューは、まるで懺悔を受け入れる司祭のような、優しげな言葉で応える。
「あぁ、なにも見なかったし、聞いていない。そしてしゃべってもいないよ」
「ありがとうございます。……私はこの書類を終わらせますので、父上はもうお休みください」
アンドリューの言葉に謝意を伝え、ロレンスは父の体を気遣ったのだろう、就寝を促す。
「そうさせてもらうよ」
そういうと身を預けていた椅子から素早く立ち上がり、ドアの方へと足を進めた。
(結局、顔を合わせてくれなかったな)
そんなことを考えながらロレンスが再び、手元の書類に目を移そうとすると、部屋から出ようとしているアンドリューが声を掛けてくる。
「……ロレンス、焦るなよ。わしが生きているうちは、お前はわしの子だ」
この言葉がロレンスにとって、励みになったのか、それとも、そのやる気を削ぐことになったのかは分からない。だが、アンドリューが去り、ロレンス一人になった書斎で聞こえるか聞こえないかわからない、小さな声で
「ありがとう、父さん」
と、小さな声が響いていた。
一日の話に五話も使ったのは初めてじゃなかろうか




