婚約破棄の現場で「魅了」と呟いたら、浮気相手の男爵令嬢が私にすりすりしてきました
シャンデリアがまばゆく輝く、王立学園の大広間。
音楽がぴたりと止んだ。円形に開いた人垣の中央で、第一王子エドアルドが私の名を高らかに叫ぶ。
「セレスティア・フォン・グレンビル! 貴様のように冷酷で傲慢な女は、王太子妃にふさわしくない! 本日をもって、貴様との婚約を破棄する!」
エドアルドの腕には、小動物のように震える少女がしがみついていた。ふわふわと波打つ桜色の髪に、潤んだ瞳。男爵令嬢のコレットだ。
彼女は「怖いですわ」とでも言いたげに、王子の胸元へ顔を埋める。伏せたまつ毛の隙間から私を盗み見て、唇の端をほんのわずかに吊り上げた。
勝ち誇った、あざとい笑み。
彼女が身にまとう香油には、微弱な精神誘導の香料が仕込まれている。甘い香りに気づかぬまま、男たちは彼女の望むように心を傾けてきた。殿下をたぶらかし、私を陥れる冤罪劇を仕立てた手口も、とっくに見抜いている。
「聞いておるのか、セレスティア! 貴様がコレットに働いた数々の悪辣な嫌がらせ、もはや看過できん! 彼女は純真で無垢なのだ。貴様のような毒婦とは違う!」
エドアルドの怒声が大広間に響く。貴族たちは息を呑み、憐れみや好奇心のこもった視線を私に向けた。
私は背筋を伸ばしたまま、扇をパチンと閉じる。
「……私の言い分をお聞きになるつもりは、最初からおありでないのですね」
「当然だ! コレットの涙が何よりの証拠だ!」
腕の中で、コレットが「ひっ」と可愛らしく息を呑む。王子の言葉に合わせ、彼の胸へいっそう身を寄せた。
完璧な被害者の演技。けれど、完璧すぎる演技は、ときに隙を生む。
私は静かに息を吸い、唇だけを動かした。
「――『魅了』」
グレンビル公爵家に伝わる、禁忌の精神干渉術。その術式は、対象の心を特定の相手へ強く傾ける。
コレットの香油に含まれる精神誘導の香料は、術を増幅させる触媒になる。彼女が男たちへ仕掛けていた誘導を、彼女自身に向けて返す。それだけのことだった。
術式が発動した瞬間、エドアルドの胸にすがっていたコレットの身体が、びくりと跳ねた。
潤んだ瞳の焦点が、ゆっくりと私に定まる。頬が朱に染まり、喉から熱っぽい息が漏れた。
「こ、コレット……? どうしたんだい?」
異変に気づいたエドアルドが、優しく声をかける。
コレットは答える代わりに、彼の腕を勢いよく振り払った。
「邪魔よ。離して!」
「うっ……!」
突き飛ばされたエドアルドが、コレットのドレスの裾を踏んでよろめく。コレットは振り返りもしない。裾を持ち上げ、迷いのない足取りで私のもとへ駆け寄ると、勢いよくドレスの腰元に抱きついた。
「あぁん……セレスティア様ぁ……っ!」
「なっ……な、何を……!?」
エドアルドの顎が外れんばかりに下がる。
コレットは私の腰にしがみついたまま、頬を腕にすり寄せた。まるで極上のまたたびを見つけた猫のように目を細め、うっとりと身悶えている。
「セレスティア様、すごくいい匂いがしますぅ……凛としていて、お美しくて、強くて……私、ずっとセレスティア様のことばかり見つめてましたぁ……!」
「ちょ、コレット!? その女は君を虐めた悪女だぞ!?」
取り乱したエドアルドが手を伸ばす。コレットは威嚇する猫のように振り返り、王子を鋭く睨みつけた。
「うるさいわね! あなたなんかに、セレスティア様を悪く言われたくないですぅ! 虐められたなんて嘘に決まってるじゃない! セレスティア様に構ってほしくて、殿下を利用して気を引こうとしただけよ! 勘違いしないで!」
「う、嘘……!? 利用……!?」
エドアルドは床に膝をつき、真っ青になった。
周囲から、失笑とざわめきが湧き起こる。コレットの告白を聞いた者たちは、今度は彼女を憐れむことなく、値踏みするような目を向けていた。
私は優雅に微笑み、すり寄ってくる桜色の髪にそっと手を置いた。柔らかな髪を撫でると、コレットは幸せそうに目を閉じる。
「あらあら。素直で可愛らしいこと」
彼女の頭を撫でたまま、私はエドアルドに向き直った。
「殿下。彼女自身が、嫌がらせはなかったとおっしゃっています。私とグレンビル家の名誉を傷つけようとしたことについては、相応の責任をお取りいただきますわね」
「待て、セレスティア! これは何かの間違いだ!」
「私の言い分を聞く必要はないとおっしゃったのは、殿下ですわ」
冷ややかに告げると、エドアルドは言葉を失った。
周囲の貴族たちは、被害者のはずの男爵令嬢が、どうして急に公爵令嬢へ執着し始めたのかと囁き合っている。その光景の裏に潜む術の気配を悟った者たちは、戦慄を浮かべて後ずさった。
足元では、コレットが蕩けた声を漏らしている。
「セレスティア様のお手、ひんやりしていて気持ちいいですぅ……もっと撫でてくださいぃ」
「ええ、いい子ね」
ハニートラップを仕掛けるなら、相手を選ぶべきだったわね。
操り人形となった獲物の髪を、私はもう一度、優しく撫で下ろした。
この『魅了』の術式は、二、三日もすれば綺麗さっぱり解ける。
大勢の前で王子を突き飛ばし、彼を罵り、これまでの企みまで自ら暴露した。術が解けたコレットは、自分が何をしたか思い出して、さぞ絶望することだろう。
けれど、時すでに遅し。
この場にいた貴族たちは、彼女の言葉を聞いた。被害者を演じていた彼女が自ら嘘を認めた以上、これまでの噂をそのまま信じる者はいない。彼女の甘い香油に惑わされていた男たちも、真相を知れば、以前のように彼女を守ろうとはしないだろう。
自業自得という言葉の意味を、せいぜい噛み締めるといいわ。
「セレスティア様ぁ……」
足元で無邪気にすり寄ってくるピンクの頭を、私は愛用の扇の先で冷ややかに押し戻した。
「もう、十分ですわ」
私は振り返ることなく、優雅にその場を後にした。




