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ステップ・バイ

衣装なし、メイクなし。Tシャツ、ジーンズ。

作者: 時司 龍
掲載日:2026/06/07

 18時半。

 一日の中でもっとも忙しい時間帯だった。

「唐揚げ弁当お待たせしましたー!」

 レジの向こうへ弁当を差し出しながら、(さくら)は声を張り上げる。

「ありがとうございましたー! またお越しくださいっ」

 小銭を数えて渡し、次の客へ視線を向ける。

「お次のお客様、ご注文はお決まりですかーっ」


 店内には油の匂いが満ちていた。フライヤーの音。注文の声。レジの電子音。メニュー表を眺めるお客さん。

 ごく普通の弁当屋だ。


 そして、売れてない歌手 永見(ながみ)(さくら)の日常でもある。


 本業は歌手、アーティスト、芸能人。そう言いたい。だが現実問題として、生活費のほとんどはここのバイト代だ。

 CDは数枚出した。地方のイベントやラジオにも呼ばれるようにはなった。ライブもやっている。それでも知名度はほぼゼロ。自分で言ってて虚しくなるが、現実は残酷だ。永見櫻、誰?? 聞いた事ある~? 状態である。


 テレビ出演など夢のまた夢だ。

 最近では、自分が歌手なのか弁当屋なのか分からなくなる時さえある。いや、収入で考えれば、間違いなく弁当屋の方が本業だろう。そんな事を考えながらレジを打っていた、その時だった。


 店の前で。

 キィィィィッ!!

 耳障りな急ブレーキ音が響いた。


「うわっ!?」

 思わず顔を上げる。

 店の前に、一台のタクシーが斜めに停まっていた。

 ドアが開く。


 中から飛び出してきた人物を見て、櫻は目を丸くした。

加藤(かとう)さん?」


 担当マネージャーだった。だが様子がおかしい。髪は乱れ、ネクタイは曲がり、顔は真っ赤。全力疾走してきた人間の顔だった。


 そして次の瞬間。

「永見ぃぃぃっ!!」

 店内中に響く声で叫んだ。客も、外の通行人も一斉に振り返る。


「今すぐ来いっ!! ミュージックパレス出るぞっ!!」

「・・・・・・は?」

 櫻の思考が止まった。何を言われたのか理解できない。


 加藤さんは掴んでいた携帯電話を耳に当てる。

「はいっ! 永見櫻捕まえましたっ!」

 捕まえました? 私は逃走犯だっただろうか。

「今からすぐ局に向かいますっ! はいっ! はいっ! 永見でお願いしますっ! 絶っ対、間に合わせますっ!」

 怒鳴るように通話を終える。


 その騒ぎに、奥でとんかつを揚げていた店長まで顔を出した。

「どうした!?」

「店長! 永見連れてきますっ!」

「はぁ!?」

 店長も意味が分からない顔をしている。

 だが加藤さんは説明する暇すらないらしい。


「行くぞ!」

 カウンター越しに手首を掴まれた。

「え、ちょ、待っ・・・」

 待ってほしい。今からもうしばらくは忙しい時間帯だ。唐揚げもまだ揚がる。弁当に詰める必要もある。私はレジ担当だが勿論、容器に詰める仕事もする。


 色々ある。

 色々あるのだが。

 加藤さんの顔があまりにも真剣だった。いや、真剣というより必死だった。明日地球が滅びるとたまたま聞いてしまった人みたいだった。


 店長も状況を察したのか、小さく息を吐いた。

「永見さん」

「は、はい」

「すぐ行きなさい」

「え?」

「いいから」

 店長は頷いた。

「こういう時のために、ずっとバイトだったんでしょ」

 櫻は言葉を失う。

「でも店長・・・」

「店は何とかなる」

 そう言って親指で出口を示した。

「行ってらっしゃい」

 胸の奥が少し熱くなった。

「・・・ありがとうございます!」

 頭を下げる。そしてそのまま店を飛び出した。気づけばエプロンを外しただけだった。ジャンパーもロッカーの中。財布も置きっぱなし。


 とにかく加藤さんに押し込まれるようにタクシーへ乗り込む。ドアが閉まる。と同時に発進した。

 まるで誘拐だった。

 窓の外の景色が流れていく。


 櫻はようやく呼吸を整えた。

「・・・いきなり、何なんですか」


 加藤さんは携帯電話を握り締めたまま答える。

吉川(よしかわ)里奈(りな)がインフルでダウンした」

「へ?」

 意味が分からない。

 同じ事務所の人気歌手の名前だ。テレビでよく見る。ランキング上位常連。

 櫻とは住む世界が違う人間。言いたくないけど、・・・違う。

「だから代役だ」

「代役?」

「そうだ」


 加藤が振り向く。その目は本気だった。

「オマエ、今からミュージックパレス出ろ」


 櫻の思考が、再び停止した。

「・・・」

「・・・」

「・・・え?」

「だから」

 加藤は叫んだ。

「全国放送だっつってんだろ!!」


 タクシーが黄色信号で加速する。車のテールランプが幾つも連なっている。ビルの明かりが後方へ流れていく。


 櫻はただ呆然と窓の外を見た。

 長袖Tシャツ。色落ちしたジーンズ。

 準備ゼロ。

 それなのに。

 人生だけが、ものすごい勢いで走り始めていた。


「全国放送だっつってんだろ!!」

 加藤の怒鳴り声が再び車内に響く。


 櫻は口を半開きにしたまま固まっていた。全国放送。その言葉だけが頭の中をぐるぐる回る。


 フライデー・ミュージック・パレス。


 誰もが知っている音楽番組。歌手なら一度でいいから出たい、そう思う番組。自分も出たい。そう思ったことは何度もあった。

 だが、それはもっと先の話だったはずだ。

 新曲が売れて。

 知名度が上がって。

 ようやく呼ばれる場所。

 少なくとも、弁当屋のレジから直行する場所ではない。


「・・・あの」

「何だ」

「どの曲を歌えばいいんですか?」


 恐る恐る聞く。そこが一番重要だ。代役なら、本来は吉川里奈の持ち時間がある。だが櫻にはヒット曲はない。持ち歌は20曲くらい。それなりに思い入れもある。

 けれど、どれを歌ったところで、視聴者ほとんどは知らないだろう、悲しい事に。多くは、『誰?』で終わる。


 加藤さんは数秒黙った。

 そして前を向いたまま言う。

「好きなの歌え」

「・・・は?」

 意味が分からない。

「だから好きなの歌え」

「いや、そういう事じゃなくて」

 櫻は思わず身を乗り出した。

「テレビですよ?」

「知ってる」

「視聴者誰も知らない曲ですよ?」

「知ってる」

 話にならない。


「加藤さん!」

 叫ぶと、加藤さんはようやくこちらを見た。

 その目は血走っていた。何本も電話をかけたのだろう。この肌寒い中で、額にはうっすら汗が滲み、どこか疲れ切った顔をしている。


「こんなチャンスは」

 低い声だった。いつもより少し掠れていた。

「もう作ってやれないかもしれない」


 櫻は息を呑んだ。それが現実だ。売れていない歌手に全国放送の歌番組。次がある保証なんてない。

 加藤さんは笑わない。ただ唇を噛みしめていた。

「オマエは売れてねぇ」

 容赦のない言葉だ。胸に突き刺さる。

「分かってます」

「ああ、分かってる」

 加藤さんは頷く。

「局もレコード会社もスポンサーも、みんな数字しか見ない」


 窓の外の景色が流れていく。ビルの明かりが眩しい。街路樹には気の早いイルミネーションが光っている。


「だから本来なら選ばれない」

 櫻は何も言えなかった。反論できない。

「今回は、本当に偶然だ。吉川里奈が、ダウンした」

 低い声だった。言葉を選ぶように、途中途中言葉を区切る。

「勿論、他人の不幸を、喜ぶつもりはない」

 その声に嘘は感じられなかった。


「だが、チャンスに変わりはない。代役の話が出た瞬間、どのマネージャーも一斉に担当の所へ走った」


 想像できる。少しでも番組にねじ込みたい。少しでも名前を売りたい。そう思うのは誰だって同じだ。

「今回は俺の運が少しだけ味方した。オマエの運もあったかもしれねぇ。一番最初にオマエを捕まえて、一番に事務所に連絡入れられたのが、たまたま俺だったってだけだ」

 事故みたいなものだ。そう言われている気がした。

「でも」


 加藤さんは続ける。


「だからこそ好きな歌を歌え」

 その声は少しだけ震えていた。

「売れ線だからとか。局受けするとか」

 加藤さんの手が固く握りしめられているのが見えた。

「そういうの全部忘れろ」

 その言葉には、長年この業界にいる人間だからこその重みがあった。売れる曲。求められる曲。数字を取れる曲。そういうものが存在する事を知っている。

 知っていて、それでも言っているのだ。


「今のオマエが一番歌いたい曲を歌え」


 櫻は加藤さんを見る。本来ならあり得ない話だった。少しでも受けがいい曲。覚えてもらえるキャッチーな曲。そう言うのが当然だ。

 でも違う。

 売れないライブハウスも。客が十人しかいなかったイベントも。CDが全然売れなかった日も。

 全部一緒だった。

 誰よりも近くで、自分の現実を見てきた人だ。

 だから分かる。

 加藤さんも悔しいのだ。才能がないと思っているわけじゃないだろう。歌えないと思っているわけでもない。思っていたら、ここまで付き合ってくれない。むしろ逆だ。だから悔しい。だから腹が立つ。どれだけやっても届かない現実が。数字だけで決まる世界が。悔しくて仕方ないのだ。

 加藤さんは前を見たまま言った。


「俺は」

 一度言葉を切る。

「オマエなら歌えると思ってる」

 その一言が、胸の奥へ真っ直ぐ落ちた。

 櫻は膝の上で拳を握る。爪が食い込む。


 悔しい。

 悔しい。悔しい。私だって歌える。ライブハウスでだって。商店街のイベントでだって。客が三十人しかいない会場でだって。ずっと歌ってきた。

 誰にも見つからなかっただけだ。チャンスがなかっただけだ。

 それだけだ。


 タクシーの窓に映る自分を見る。長袖Tシャツ。ジーンズ。弁当屋から直行。テレビに出る人間の格好じゃない。

 それでも。上等じゃないか。

 今だけは。

 今だけは胸を張って言える気がした。

 私は歌手だ。

 永見櫻は、静かに顔を上げた。


「・・・じゃあ」

「ああ」

「一番好きな曲、歌います」

 加藤さんは小さく笑った。今日初めて見た笑顔だった。

「そうしろ。後悔だけはするな」


 タクシーは夜更けの街を抜けていく。


 テレビ局の正面玄関へタクシーが滑り込む。止まるより早くドアが開いた。

「永見さんですね!?」

 待ち構えていたスタッフが駆け寄ってくる。

「はい!」

「こっちです!」

 返事をした瞬間には走っていた。加藤と並んで局内へ飛び込む。


 自動ドアを抜ける。長い廊下。エレベーター。スタッフ用通路。どこにいるのかは正直わからない。

「本番まで三十分!」

 前を走るスタッフが叫ぶ。

「リハはもう終わってます!」

「三十分!?」

 櫻は思わず聞き返した。

「はい!」

 短い。短すぎる。普通なら局入りして、楽屋に通されて、メイクをして、衣装に着替えて、音合わせをして。そんな流れがあるはずだ。

 だが今日は違う。

 全部が吹き飛んでいた。


「他のアーティストとの立ち位置確認は最低限です!」

「はい!」

「カメラ割りも簡易でいきます!」

「はい!」

「紹介コメントはこちらで対応します!」

「はい!」

 気づけば返事しかしていない。頭が追いつかない。

 それでも足だけは止めなかった。角を曲がる。また廊下。また階段。


 途中で別のスタッフが合流する。

「衣装は!?」

 矢継ぎ早に聞かれた。

 櫻は自分の格好を見る。長袖Tシャツ。ジーンズ。スニーカー。つい一時間前まで弁当屋で働いていた格好だ。

「ありません」

「えっ」

「持ってきてません」


「メイクは!?」

「してません」

「メイクさん!」

 スタッフが叫ぶ。別方向から別のスタッフが走ってくる。

「今から間に合う!?」

「無理です!」

「五分も取れません!」

「最低限だけでも!」

「無理です!」

 全員が走りながら会話していた。まるで戦場だった。

 櫻は少しだけ笑いそうになる。

 こんな現場が本当にあるのか。テレビ業界は華やかな場所だと思っていた。だが今見えているのは必死な大人達の背中だった。


「永見さん!」

 スタッフが振り返る。

「衣装どうします!?」

 櫻は一瞬だけ考える。そして首を振った。


「このまま出ます」


 一斉に空気が止まった気がした。

「え?」

「このままで大丈夫です」


 自分でも驚くほど声は落ち着いていた。不思議だった。さっきまで震えていたのに。今はもう震えていない。

 加藤が櫻を見る。櫻も加藤を見る。目が合った。

 加藤は何も言わない。

 ただ小さく頷いた。

 それだけで十分だった。


 腹はくくった。どうせ誰も知らない歌手だ。高い衣装を着たところで変わらない。派手なメイクをしたところで変わらない。

 だったら。

 今日の私は今日のままでいい。弁当屋直行でも。長袖Tシャツでも。ジーンズでも。


 歌だけは変わらない。


「こちらです!」

 スタジオ入口の扉が開く。スタッフに連れられ、櫻はスタジオへ飛び込んだ。

 眩しい照明。巨大なセット。

 そして、憧れだった大階段。

 何度テレビ越しに見ただろう。出演アーティスト達が横一列に並ぶシルエット。紹介されるとスポットが当たり、階段を下りてくる。


 その光景が今、目の前にあった。


「永見さん!」

「はい!」

「立ち位置だけ確認します!」

 スタッフが走りながら説明する。

 櫻も走る。

 周囲ではスタッフ達がインカム越しに怒鳴り合っていた。


「オープニングは全員、大階段に並びます! 最初は逆光なので顔は映りません。名前を呼ばれた方から順にスポットが当たりますので、そのまま階段を下りてください!」

「はい!」

「吉川さんの位置そのまま使います!」

「はい!」

「紹介振られたら、適当に返事をお願いします!」

「えっっ!?」

「時間ないんで!」

 本当に時間がないらしい。生放送なのだ、全てが秒単位で動いている。大階段へ案内された。


 一瞬、櫻の足は止まる。番組の象徴ともいえる大階段。何度もテレビ越しに見た憧れの光景だった。すでに他のアーティスト達が並び始め、お喋りしている。そんな余裕まである人達に自分が紛れ込む。

 櫻だけが、その華やかな光景の中で浮いているように感じた。実際、きちんとした衣装を着ている中に紛れ込んだ一般人にしか見えない。


「永見さん、ここです!」

 スタッフが空いている場所を指差す。

 有名アーティストと有名アーティストの間。明らかに本来は自分の立つ場所ではない。

「ここ!?」

「ここです!」

「本当に!?」

「本当です!」

 そんな事を言っている余裕もないらしい。背中を押される。


 隣の男性アーティストがちらりとこちらを見る。一瞬だけ目が合った。軽く会釈を返す。多分、誰だろう・・・と思っている。櫻だって逆の立場ならそう思う。仕方ない。永見櫻って、誰? だ。


「歌唱位置だけ確認します!」

 スタッフがステージ中央を指差した。

「イントロが始まったら下手袖から入って、あの茶色テープの位置まで歩いてください!」

 床を見ると、小さな目印が貼られている。

「あそこですか?」

「そうです! サビまではそこで歌ってください!」

「はい!」

「二番から前に三歩!」

「三歩!」

「そのあとセンターカメラ!」

「センターカメラ!」

「赤ランプが点いてるやつです!」

「分かりました! 多分!」

「多分!?」

「大丈夫です! 多分!」

「エンディングもそのまま!」

「はい!」


 スタッフは次の場所を指さす。

「曲終わったら、こっちのカメラ見てください!」

 指差された方向を見る。

「赤ランプ付いてるやつです!」

「分かりました! 多分!」

「多分!?」


 スタッフが頭を抱えた。だが次の瞬間には別方向へ走っていく。

「お願いします!」

「お願いします!」

 まるで嵐だった。

 櫻は思わず笑いそうになる。全国放送なのに。夢だった場所なのに。

 こんなにも慌ただしい。

 こんなにも必死だ。

 胸が高鳴る。心臓は落ち着かない。だが不思議と怖くはなかった。


「永見さん、大丈夫ですか?」

 通りすがりのスタッフが心配そうに声を掛けてくる。

「え?」

「顔色、悪いですけど」

 櫻は思わず自分の頬にふれた。大丈夫と思っていたが、どうやら一丁前に緊張はしているらしい。指先が少し冷たい。

「だ、大丈夫です」

 そう答えた声は、自分でも分かるくらい上擦っていた。いつの間にか手のひらには汗が滲んでいる。足も少し震えていた。


 当たり前だ。


 人生初の全国放送なのだから。しかも数十分前まで弁当屋でレジを打っていた人間が、今は日本中が知るアーティスト達と同じステージに立とうとしている。

 緊張しない方がおかしい。多分、今の自分は相当酷い顔をしているのかもしれない。スタッフが声をかけるほどに。


 けれど。

 それでも逃げたいとは思わなかった。


 ここまで来たら、もう歌うだけだ。ショッピングモールの特設ステージでも、地方イベントの小さな会場でも。どこでだって、歌うのは同じだ。

 ずっとそうしてきたように。


 スタジオの照明が落ちる。背後からの照明がやけに眩しく感じる。

 観客の歓声が上がる。


 そして・・・

『Friday Music Palace!』

 櫻はもう周囲の騒めきなんて気にしていられない。


 名を呼ばれ、階段をゆっくり降りた。


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