第40話 離れるという決断――それでも選ぶ理由
人は、守るべきものができた時に変わる。
けれど本当に難しいのは、
守るために何を選ぶかなのかもしれない。
そばにいること。
離れること。
戦うこと。
どれも簡単な答えではない。
幸之助は未来のために決断する。
八年が過ぎていた。
工場は動いている。
完全ではない。
止まることもある。
予定はずれる。
人も揉める。
それでも、続いていた。
朝。
工場の音が響いている。
金属音。
人の声。
足音。
揃っていない。
だが、それが普通になっていた。
幸之助は機械の前で立ち止まる。
動いている。
問題はない。
数値も正常。
記録も一致している。
それでも、違和感だけが残る。
手を伸ばす。
停止。
再起動。
同じ結果。
誤差はない。
だが、視線が離れない。
「問題ありますか」
作業員が声をかける。
幸之助は少しだけ考える。
「……ない」
事実だった。
問題はない。
それでも、何かが揃いすぎている。
昼。
事務所。
ヘレンが帳面を開いている。
数字を書く。
止まらない。
迷いがない。
ページをめくる。
前の月と同じ。
次も、ほとんど同じ。
幸之助の指が止まる。
帳面を閉じる。
「どうしたの?」
ヘレンが聞く。
「……いや」
幸之助は答えない。
うまく説明できなかった。
夕方。
家に戻る。
扉を開ける。
リビングから声が聞こえる。
「だから、そこ違うって」
惣太郎だった。
八歳になっていた。
ソファの上でゲーム機を持っている。
「惣太郎、宿題が終わっていないわよ」
ヘレンが言う。
「あとでやるー」
即答だった。
幸之助は立ったまま、その様子を見る。
惣太郎の動きは一定じゃない。
集中したかと思えば、急に別のことを始める。
間違える。
飽きる。
戻る。
非効率だった。
だが、人間的だ。
「おかえり」
ヘレンが言う。
幸之助は小さく頷く。
その時、惣太郎のゲーム画面が止まる。
「あっ」
「また失敗したな」
幸之助が言う。
惣太郎は不満そうな顔をする。
「今のはいけたんだよ」
「ちょっと操作ミスっただけ」
同じ場面。
同じ操作。
だが、毎回違う。
幸之助の視線が止まる。
違う。
工場とは。
帳面とも。
ログとも。
揃っていない。
だから、人間的だった。
その夜。
惣太郎は眠っていた。
少し開いたままの本。
途中で投げ出された宿題。
消し忘れた電気。
整っていない。
幸之助は部屋の入口で立ち止まる。
寝息が聞こえる。
一定ではない。
わずかに揺れている。
大学の白い研究室が頭をよぎる。
揃ったログ。
完全な一致。
外部からの介入。
目の前には、惣太郎がいる。
不安定で。
非効率で。
予測できない。
それでも、守らなければならないと思った。
「……行く」
後ろでヘレンの動きが止まる。
「ロサンゼルス?」
幸之助は頷く。
「確認する」
「今なら、まだ止められるかもしれない」
ヘレンはしばらく黙っていた。
「いつ?」
「すぐに」
幸之助は惣太郎のそばへ行く。
小さな寝息。
不規則な呼吸。
揺れている。
生きている。
手を伸ばす。
髪に触れる。
柔らかい。
「……守る」
小さく言う。
誰に向けた言葉でもない。
だが、確かに決まっていた。
外では、夜の音が続いている。
工場。
風。
遠くの車。
犬の鳴き声。
その中で、一瞬だけ、世界の流れが揃う。
そして、すぐに崩れる。
誰も気づかない。
それでも、残る。
選ばれないままの最適が。
静かに広がっていた。
惣太郎はまだ八歳。
父親が何を見て、何を恐れ、
何を守ろうとしているのかは知らない。
けれど幸之助には分かっていた。
目の前の家族を守るためには、
見えない脅威から目を背けるわけにはいかないことを。
離れることは、見捨てることではない。
守るために選んだ道だった。
そして、この旅立ちは、
やがてハル子とリョウ子、
そして春川家の未来へと繋がっていく。




