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第七話 人間には無理だ

朝日が差し込んでいる。ロックは目の下にクマを作って起きた。


昨夜のメイの浄霊RTAのせいで、結局ほとんど眠れなかった。壁の向こうから聞こえた隣室の冒険者のいびきすらゴーストの呻きに聞こえて、三回ほど飛び起きた。


枕元にマギステルのサイン入りカード。昨晩、無意識にお守り代わりのように握りしめていたらしい。角が少し曲がっている。


「……持っていこう」


なぜかポケットに入れた。理由はない。捨てるのも違う気がしただけだ。


支度をして、宿屋を出る。今日はギルドでクエストを受注する。オフは終わり。いつもの9層ソロ周回。いつもの日常。


ギルドに向かって歩きながら、ふと考える。

9層への道中には、いつも避けているエリアがある。ワナダラケ遺跡。罠だらけの中層ダンジョンだ。


スライムとの戦闘も「武器が錆びるから」という理由で避けているロックは、いつも迂回して遠回りしているのだが。


「今日は、違うルートから行ってみようか……」


スマホを開いた。検索欄に「ワナダラケ遺跡 攻略」と入力する。


攻略動画がずらりと並ぶ。丁寧な解説付きの動画、マップ付きの図解動画、ギルド公式の注意喚起動画——


その中に一つ、異質なサムネイルがあった。


【30分前に投稿】リセ vs ワナダラケ遺跡 ※音量注意


サムネイルは、ブレブレのFPS視点で罠が発動した瞬間を捉えた静止画。画面の端に、もこもこ妖精の尻尾がフレームインしている。


ドローン妖精。リスのようなコアラのような、よくわからない生物。もこもこの尻尾で画面の3割が隠れている。


登録者数34万。C級。リセ。


ロックは知っている。罠解除のシーフ系配信者として有名だが、「攻略の参考にはならない」とも有名だ。身体能力と直感だけで罠地帯を突破するスタイル。解説は一切ない。語彙がない。あるのは音だけ。


「……まあ、どんな罠があるかだけでもわかればいいか」


ワナダラケ遺跡の入口までまだ距離がある。歩きながらイヤホンを挿した。再生ボタンをタップする。


画面が切り替わった瞬間、ロックの視界が揺れた。


もこもこ妖精の肩固定FPS視点。リセの右肩に張り付いたもこもこの目線で撮られているため、カメラはリセの頭の横、やや右寄り。リセが走ればカメラも揺れる。リセが跳べばカメラも跳ぶ。手ブレ補正など存在しない。


そして画面の右端に、常にもこもこの尻尾がちらちらと映り込んでいる。ふわふわの茶色い尻尾。感情に連動して膨らんだりしぼんだりする。


リセの声が聞こえた。


「はーい! リセでーす! 今日もワナダラケ遺跡、やっていきましょう!」


声が跳ねている。言葉遣いは子供のようだ。テンポだけが異常に速い。


「じゃ、行くよー。もこ、ちゃんと撮ってね」


もこもこの尻尾がぴこんと跳ねた。了解のサインらしい。直後にもこもこが自分の顔をカメラに映そうとして、画面が一瞬もこもこのアップになった。丸い目。ふわふわの頬。


「もこ! 自分映さないの!」


もこもこが不服そうに尻尾を膨らませた。カメラが渋々リセの視界に戻る。


『もこもこ今日も自己主張激しい』

『開幕セルフィーは伝統』

『かわいいから許す』

『いや許さん、罠地帯見せろ』

『語彙ゼロ配信の時間だ』


ワナダラケ遺跡に入った。


石造りの通路。床、壁、天井、すべてに罠が仕込まれている。矢、落とし穴、毒針、圧縮壁、感圧式の火炎放射——ここの罠地帯は、戦闘力ではなく観察力と反射神経が問われるエリアだ。


リセが立ち止まった。


通路の先を見ている。


ロックは思った。ここからが本番だ。攻略動画なら、まずは罠の位置を解説し、安全な足場を示し、順序立てて説明する。


リセは——走り出した。


「行っくよーー!」


解説なし。説明なし。走った。


もこもこ視点の映像が激しく揺れる。リセの足が床の感圧板を踏む——一瞬早く跳躍。背後で矢が射出される音。着地した場所の壁から毒針——上体を反らして回避。天井の圧縮壁が迫る——スライディングで潜り抜ける。


全部、直感でやっている。


もこもこが必死にしがみついている。尻尾が限界まで膨らんでいる。カメラがブレまくる。だがリセの動きの「軌道」だけは正確にフレームに収めている。もこもこは振り回されながらも、撮ることだけは諦めていない。


「おっとっと——ひょい——あぶな——よいしょ!」


語彙がない。状況説明がない。あるのは感嘆詞と擬音だけ。だが、その「音」が異常に正確だった。


「おっとっと」は足場が不安定な時。「ひょい」は跳躍。「あぶな」は回避。「よいしょ」は着地。リセの口から出る音は、言葉ではなく動きそのものだった。


ロックは歩きながら見ていたが、映像の臨場感に足が止まった。ダンジョン入口の前で立ち止まって、画面に見入っている。


通路を抜けた。


広い。平地。開けた空間。


目の前にぽっかりと開けた空間が広がった。天井が高い。壁が遠い。罠の気配がない。


「おおーっ! ここの中間ポイントあったけぇー!」


リセが嬉しそうに声を上げる。ポータルを展開できる安全地帯だ。ここを拠点に何度でもやり直せる。


画面の中でリセが着地し、振り向いた。FPS視点のカメラもぐるっと回る。


振り向いた先に、


白い腹が、あった。


頭上から落ちてきている。

丸くて、白くて、ぷくぷくしたフグだ。

なぜ天井からフグが落ちてくるのかは知らない。

この遺跡に仕掛けられる罠のひとつだ。


白い腹が、リセの頭に、

当たった。


ヒットした。


「魚ぁー!」


HP全快だったから死ななかった。

リセの身体が光って、一瞬の無敵時間のうちにポータルへと引き戻される。


「魚ぁー!」の音圧で、もこもこの尻尾が限界まで膨らんでいた。


ロックの耳もヤバかった。


リセは、ちょっとでも敵にかすったらすぐに手前のポータルに戻って、全回復して挑むタイプの冒険者だった。


この子はHPという概念がないのだ。

体力で粘るのではなく、ポータルで何度でもやり直す——リセにとってHPとは、言わば『残機』だった。


入口に戻って、リセは再び走り出す。

ポーションを飲む暇すら──いや、走りながら飲んだ。器用なのか不器用なのかわからない。


二度目のラン。スピードが上がる。もこもこ視点の映像が、もはやアクション映画の主観ショットになっている。


壁を蹴って跳ぶ。天井の梁を掴んでスイングする。落とし穴の縁を片足で蹴ってさらに加速する。矢の雨の中を紙一重で駆け抜ける。


「わーーー!」

「とぅっ!」

「ほっ!」

「わーーーーーーー!!」


語彙がない。だが「わーーー」の長さとピッチが、リセの体感速度と高揚感を完璧に伝えている。短い「わ」は助走、長い「わーーー」は全力疾走、ピッチが上がった「わーーーーーー!!」は最高速。


もこもこが必死で肩にしがみついている。カメラがブレる。だがブレの方向が一定——もこもこはリセの動きのリズムを体で覚えていて、ブレを「揺れ」ではなく「リズム」にしている。視聴者は酔わない。むしろ没入する。


ロックはギルドの入り口に座り込んでいた。他の冒険者が横を通り過ぎていく。ダンジョンに向かう人、帰ってくる人。ロックは動かない。画面から目が離せない。


罠地帯の最後の直線。


罠の密度が最も高いエリア。だがリセにとっては最後の「遊び場」だ。


リセが——鼻歌を歌い始めた。


メロディがある。どこかで聞いたことがあるような、ないような。リセのオリジナルかもしれないし、何かの歌の断片かもしれない。音程は正確ではない。だが、リズムだけは完璧だった。罠を避けるリズムと、鼻歌のリズムが完全に一致している。


跳ぶタイミングで音が上がる。着地で音が下がる。スライディングで音が伸びる。回避で音が途切れ、次の足場に着いた瞬間にまた歌い出す。


リセの鼻歌は、罠地帯のリズムそのものだった。


もこもこの尻尾がぴくっと反応した。


ゆらゆらと、尻尾がリセの鼻歌に合わせて揺れ始めた。もこもこもリズムに乗っている。カメラの揺れが、鼻歌のリズムと完全に同期した。


映像と音が一体になった瞬間だった。


ロックは息を止めていた。完璧だと思った。言葉は一つもない。解説もない。あるのは鼻歌と足音と風切り音だけ。なのに、すべてが伝わっている。


そして——


もこもこの尻尾が、ぴたりと止まった。


音が消えた。


ミュートになった。


画面右上に小さなミュートアイコンが表示される。映像は動いている。リセの口も動いている。足も動いている。罠を避け続けている。だが音がない。鼻歌も、足音も、風切り音も——すべてが消えた。


ロックはイヤホンを確認した。抜けていない。スマホの音量を確認した。正常。アプリのミュートボタンも押していない。


配信側のミュートだ。


リセの鼻歌が——妖精の規制判定に引っかかったのだ。


ヨウツベノミコトの意思による音声規制。妖精を通じた配信では、一定の音や映像が神の判定によって規制対象になる。リセの鼻歌の何かが——メロディの一部が、あるいはリズムの一部が——規制対象に該当した。


ロックには理由がわからない。だが、もこもこの尻尾の動きを見れば、もこもこ自身にもわからなかったのだろう。尻尾が困惑したように左右に揺れ、それからしおしおとしぼんでいった。もこもこは撮り続けているが、音を届けられないことに戸惑っている。


無音のまま、映像は続く。


リセは歌い続けている。口が動いている。自分がミュートされていることに気づいていない。罠を避けるリズムは変わらない。鼻歌のリズムで跳び、滑り、駆け抜けている。


だが視聴者には何も聞こえない。


『あれ、音消えた?』

『ミュートだ』

『規制入った』

『鼻歌が引っかかったのか』

『何の曲だったんだ』

『もこもこ困ってるw』

『リセちゃん気づいてないな』


ロックは音量を上げた。最大にした。無音。何も聞こえない。


映像だけが続く。リセが最後の罠ゾーンに突入する。大量の矢が射出される。リセの体が宙を舞う。もこもこのカメラが、リセの跳躍を下から煽りで捉える——ブレなかった。完璧な構図。リセの体が罠の矢の雨の中を泳ぐように抜けていく。


音がないことが、映像の美しさを際立たせていた。


スローモーションのように見えた。実際にはフルスピードなのに。音がないせいで、時間が引き延ばされたように感じる。リセの髪が宙で揺れる。もこもこの尻尾がなびく。矢が背後を通過する。


ロックは見惚れていた。音のない、完璧な罠地帯の走破。


そして——最後の罠。床全体が感圧式の大罠。踏めば通路全体が崩壊する。リセは壁を蹴り、天井を蹴り、もう片方の壁を蹴り——三角跳びで通路の反対側に着地した。


着地の瞬間、リセが口を開いた。


ミュートが、解除された。


音量最大のイヤホンから——ブレーキ音のような歓声が。


「キィィイイイイイイイ!!!!」


ロックの世界が割れた。


鼓膜を貫く衝撃。もはや人間の声なのか金属の悲鳴なのかわからない音が、最大音量で脳幹に直撃した。


ロックがイヤホンを引きちぎるように外した。引きちぎるどころか、スマホごと放り投げそうになり、寸前で両手で掴んだ。


ギルドの入口前のベンチに座っていたロックは、ベンチから転がり落ちた。


「ぎゃぁぁぁっ!!」


ロックの悲鳴が、ギルド入口の広場に響いた。周囲の冒険者たちが一斉に振り返った。受付嬢が立ち上がりかけた。隣のベンチで装備を整えていたベテラン冒険者が剣に手をかけた。


ロックは地面に転がったまま、両手で耳を押さえていた。耳が痺れている。じんじんする。右耳のイヤホンからまだ音が漏れている。かすかに聞こえるリセの声——


「——ッシャア! クリア!! クリアクリアクリアー!!」


歓喜の叫び。最後の罠地帯をノーダメージでクリアした喜びが爆発している。


画面の中では、リセが両手を突き上げて跳び上がっていた。もこもこが得意げに尻尾を振っていた。尻尾が画面の半分を占拠している。もこもこは自分の功績のように胸を(あるとすれば)張っていた。


『クリア!!』

『ノーダメ!!』

『ミュート解除と同時の叫びヤバすぎ』

『音量最大にしてた人、ご愁傷さま』

『犠牲者いそう』

『確実にいる』

『もこもこドヤ顔』

『あの無音パートの映像きれいだったな』

『鼻歌→ミュート→絶叫のコンボは反則』


ロックは地面に寝転がったまま、スマホを顔の上に掲げた。画面の中のリセが笑っている。もこもこが尻尾をぶんぶん振っている。


動画はまだ続いていた。


罠地帯をクリアしたリセが、安全地帯で座り込んでいる。息が上がっている。頬が紅潮している。


「はー……はー……つかれたぁ……」


もこもこがリセに頬ずりしている。カメラが完全にリセの顔のアップになっている。もこもこの自己主張だ。リセが手で押しのけようとすると、もこもこが抵抗して画面がぐちゃぐちゃになる。


「もこー! 撮れてないでしょこれ!」


撮れていない。だが、もこもこには撮りたいものがある。リセの顔だ。配信者を撮る妖精。主人が大好きで、主人の顔を世界に見せたくて仕方がない妖精。


リセがもこもこを肩から引き剥がそうとする。もこもこが尻尾でしがみつく。カメラがぐるぐる回る。視聴者は何も見えない。


『恒例のもこもこタイム』

『何も見えない定期』

『尻尾しか見えない』

『これが34万人のチャンネル』

『好き』


やがて、リセが折れた。もこもこを両手で包んで、顔の前に持ってきた。カメラが——リセの顔を正面から映した。


リセが微笑んでいる。さっきまでの爆発的なテンションとは違う、静かな笑顔。


「……今日もありがと、もこ」


もこもこの尻尾が——ゆっくりと、幸せそうに揺れた。


ロックは、その笑顔を見て少し胸が痛くなった。理由はわからない。


ロックは起き上がって、ベンチの砂を払った。周囲の冒険者たちの視線が痛い。受付嬢が心配そうにこちらを見ている。ロックは軽く手を振って「大丈夫です」と伝えた。大丈夫ではない。右耳がまだ痺れている。


イヤホンを外して、スマホを見た。


動画のシークバーは最後まで到達していた。再生回数がリアルタイムで回っている。リセの動画はいつも投稿直後から再生数が跳ねる。特にこういう「事故」が起きた回は。


ロックは動画を閉じた。


当初の目的を思い出した。罠を調べるんだった。


「…………」


一個も参考にならなかった。


一個も参考にならなかったのに、最後まで見てしまった。


しかも最大音量で耳を壊された。


罠を調べるために動画を見始めたのに、動画自体が罠だった。


だが、あの動画から一つだけ分かったことがある。


人間には、無理だ。


「……諦めよう」


けっきょく、いつもの迂回ルートを行くことにしたのだった。

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