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第六話 壁越しの悲鳴

夜。


剣を受け取り、宿に戻り、風呂に入った。ギルド安宿の共同浴場は狭くて天井が低い。湯気がこもる。


「9層の湿度とだいたい同じだな」


誰にも伝わらない比較をして、上がった。


部屋に戻って寝支度をする。明日は9層の周回日だ。火曜日は硬い鱗の個体が多い。理由はわからないが、3年間の統計で有意な差が出ている。剣の手入れを念入りにしておく。


荷物を確認する。カップ麺は味噌味が3個。回復薬が5本。1本1,200ゴールド。カップ麺8杯分。妖精は光の球のまま、ポケットの底で眠っている。


布団に入る。壁が薄い。


隣の部屋で誰かがくしゃみをした。下の階では誰かが歌っている。音程が壊滅的だ。


目を閉じる。


——眠れない。


理由はわからない。体は疲れているはずだ。訓練場で二連斬りを30回やった。明日も朝から9層だ。寝なければ。


目を閉じたまま、スマホを手に取った。おすすめ動画の一覧が光る。


一つの動画が目に入った。


サムネイルには美しいシスターの顔。柔らかな微笑み。タグは「癒し系」「ASMR」「ヒーリング」。


癒し系か、とロックは思った。ヒーラーの配信は回復魔法の光が綺麗で、寝落ち用に見る人が多い。今夜はちょうどいいかもしれない。


再生した。


画面が暗転した。


音がない。光もない。


3秒後、画面の奥に二つの光が灯った。目だ。人間の目ではない。虚ろな蒼い燐光が、闇の中でゆらゆらと揺れている。


ゴースト。


ロックの眠気が一瞬で吹き飛んだ。


タイトルは、「【深夜ゲリラ】今夜も浄霊していきます【50体目標】」。


騙された。登録者28万人。B級ヒーラー、メイ。


いつも深夜にゲリラ的に始まる、サムネ詐欺動画だった。


画面が切り替わる。旧魔王城地下施設。B級指定ダンジョン、推奨パーティ4名。壁は黒い石で、天井から水が滴り、通路の奥に無数の蒼い光が蠢いている。


その通路を、一人の女が歩いていた。


シスターの服。白と黒。サムネイルの微笑みと同じ顔。穏やかで、静かで、怖いものなど何もないような顔。


「こんばんは。シスター・メイです。今日も魔王城やっていきますね。先週のアプデでゴーストの配置が変わったので、ルート修正版を試します」


その背後を、ゴーストが14体、追いかけている。


メイは振り返らなかった。


歩調も変わらなかった。


「はい、ここは左に行くと宝箱部屋ですが、右の方が浄霊ポイントが密集しているので、先にこちらから回収しますね」


通路の突き当たりに、レイスがいた。ゴーストの上位種。実体を持たず、物理攻撃が通らず、触れたものの生命力を吸い取る。B級冒険者でもパーティで挑む相手だ。


「あ、レイスさんいますね。この子は視界に入らなければ追ってこないので──」


メイはレイスの横を、すっ、と素通りした。


コメント欄が悲鳴を上げていた。


『えっ』

『素通り!?』

『素通りした!!!!!』

『この人怖くないの!?!?』

『レイスさん呼びやめろ』

『あいつ即死攻撃持ちだぞ!!!!』

『メイさんの判定知識どうなってんの』


メイの隣を、ぬりかべ型妖精が浮遊していた。巨大な壁のような妖精。表情がない。感情が読めない。浄霊RTAに付き合わされ続け、感情が欠落してしまったかのように見える。廊下の先をじっと見つめたまま、ゴーストの群れにまったく動じない。


メイが、突然止まった。

言葉はなかった。

ただ、すっと体を右に滑らせ、柱の陰に隠れた。修道服の裾が石の床を撫でて、それきり動かなくなった。


配信を見ていると、メイにしか分からない感覚があるのがわかる。長年の浄霊で培われた第六感。B級ヒーラーの勘。それがどういう原理で作動しているのか分からない。分かるのは、メイが隠れたときは、何かが来る、ということだけだ。


『え?』

『何もいなくない?』

『いや画面に何も映ってないんだが』

『怖い怖い怖い何が来るの』

『ドローン妖精ちゃん置き去りで草』

『ぬりかべちゃんの画角だけになるのほんと怖いんだって』


廊下の先。

暗闇の奥から、最初に聞こえたのは足音だった。

足音というのは正確ではない。霊に足はない。だが、石の床を叩くような、ばたばたという振動が近づいてくる。


次に、叫び声。

一つではなかった。

二つでもなかった。

十を超える声が重なり、反響し、増幅し、廊下全体が振動するような咆哮になって、こちらに殺到してきた。


ゴーストの群れ。


先頭の一体が、真正面からカメラに突っ込んできた。

すり抜けた。

二体目。すり抜けた。

三体目、四体目、五体目──

すべてがカメラを通過していった。

ぬりかべの石の体が一瞬だけ青白く光り、ゴーストたちの断末魔のような叫びが内側を通り抜けるたびに、レンズが僅かにぶれる。


『わああああああああ』

『画面いっぱいに顔顔顔顔顔』

『いたああああああああ』

『聖職者の目すごすぎる』


「はい、行きましたね。あれはバンシーですね。巡回型なので 周期を覚えれば避けられます。約47秒周期です」


『47秒て』

『計ってんの?』

『ストップウォッチ勢』


メイは立ち止まった。


通路の中央に、古い魔法陣がある。浄霊の起点だ。メイは杖を地面に突き立てた。


「——浄めなさい」


声は静かだった。


光が爆発した。画面が白に染まる。浄化魔法。14体のゴーストが同時に消滅した。残留怨念ゼロ。浄霊率100%。レイスだけが遠くの暗がりで蒼く揺れている。


メイは次の通路へ歩き出した。


ロックは布団から半身を起こしていた。


これは癒し系ではない。ホラーだ。完全なホラーだ。


だが、恐怖の配置が普通と違った。


普通のホラー配信なら、配信者が怖がる。悲鳴を上げ、逃げ惑い、視聴者と恐怖を共有する。だがメイの配信には、配信者の恐怖がない。ゴーストが迫ろうがレイスが現れようが、メイは微笑みを崩さない。ぬりかべは微動だにしない。


怖いのは視聴者だけだった。


30分後。浄霊カウントが50体に達した。


リザルト画面が表示される。ランクSSS。ソロクリアボーナス。タイム記録更新。


メイが小さく息を吐いた。


その瞬間——ほんの一瞬——メイの口元が動いた。笑ったのだ。50体浄霊した後にだけ現れる、かすかな微笑み。サムネイルの作り物の笑顔とは違う、本物の表情。


コメント欄は誰も拾っていなかった。画面が暗いのと、一瞬すぎるのと、みんなリザルトの数字に目を奪われているからだ。


ロックだけが見ていた。


そしてもう一つ。


リザルト画面の背景に、見覚えのある建物が映っていた。


「あれ……? この建物、見たことがあるような……」


ギルド安宿。ロックの宿。


旧魔王城地下施設の出口が、安宿のすぐ近くだったのだ。


ロックは恐る恐る窓に近づいた。カーテンを少しだけ開ける。


道の真ん中に、メイが立っていた。


シスターの白と黒の服。杖を右手に持ち、夜空を見上げている。レイスを素通りしているときと同じ顔で、星を見ていた。穏やかで、静かで、怖いものなど何もないような顔。


メイの視線が、ゆっくりと降りてきた。


窓に。


ロックの顔に。


目が合った。


「ぎぃやぁぁぁぁぁ!」


ロックの絶叫が、夜の安宿に響き渡った。


壁の薄い安宿の、その絶叫が、まだ配信を切っていなかったメイのマイクに乗った。


コメント欄が軽いパニックになった。


『なに今の!?』

『悲鳴!? 安宿から!?』

『メイさんの配信に一般人の悲鳴が混入してるの怖すぎる』

『これが本当のホラーコンテンツ』

『逆にメイさん全然動じてないの草』


メイは窓を見上げたまま、小さく首を傾げた。


「……おやすみなさい」


配信が切れた。


ロックは布団を頭まで被った。心臓がばくばくしている。メイの配信を見ているハッチのコメントはなかった。怖くて見ていないのだろう。正しい判断だ。


眠れない夜が、さらに眠れなくなった。

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