エピローグ ── 登録者1
翌朝。
眠れなかった。
布団の中で三回寝返りを打って、四回目で諦めた。天井の染みが暗闇の中でぼんやり浮かんでいる。理由はわかっている。わかっているから眠れない。
昨日、25層の底で見たものが、まぶたの裏に焼きついて消えない。
それから——あの衝動。
地上に出て、遭難者が担架で運ばれていくのを見たとき。名前を呼ばれて泣いている人たちを見たとき。6人の配信者の顔に浮かんでいたのは疲労ではなく、達成感だった。彼らの笑顔を、少し離れた場所から見ていたとき。
胸の奥で、何かが動いた。
3年間、一度も動かなかったものが。
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カーテンの隙間から朝日が差している。時刻は5時47分。いつもより1時間早い。9層に行く日のルーティンなら、まず顔を洗って、装備を点検して、カップ麺を選んで、砥石を確認して——
今日は9層に行かない。
今日は、もっと怖いことをする。
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起き上がる。枕元の邪神像が目に入る。棚に7体。昨日まで5体だった。1体は25層に置いてきた。あの光の球が、いまも邪神像の頭の上で眠っているだろうか。
顔を洗う。鏡の中の自分を見る。D級冒険者の顔。特徴のない顔。配信映えしない顔。3年間ダンジョンに潜り続けて、苔の色と曜日ごとのモンスターの硬さに詳しくなっただけの顔。
——誰が見るんだよ。
その声が、いつものように頭の中で鳴る。
いつものように。3年間、毎朝聞いてきた声。「新規配信」のボタンを見るたびに鳴る声。登録者ゼロのまま3年が過ぎた理由。俺みたいなD級の冒険なんて、誰が——
でも今日は、その声のあとに、別の声が聞こえた。
カイトの声だった。
「誰もお前を足手まといだなんて思ってねぇよ」
ゴンザの声だった。
「……腹、減ったな」
リセの声だった。
「あれ、ちょっとおもしろかった」
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台所に立つ。
棚からカップ麺を取り出す。味噌味。シーフードは湿気で蓋の糊がやられる。醤油は悪くないが、スープが冷めるのが早い。味噌が一番もつ。3年かけて確認した、些末で確実な知識。
ケトルに水を入れる。火にかける。沸くまで2分半。この部屋のケトルは注ぎ口が少し歪んでいて、左に傾けると湯が跳ねる。右から注ぐのがコツ。誰にも教えたことがない。誰にも聞かれたことがない。
湯を注ぐ。右から。蓋を閉じて、箸を一本乗せて押さえる。3分。
待っている間に、スマホを手に取った。
配信アプリが開く。3年前にインストールして、一度も「配信する側」で使ったことがないアプリ。視聴専用。
画面の右上に、「新規配信」のボタンがある。
青い。小さい。ドローン妖精の起動スイッチを兼ねている。スマホのビデオをONにするのと同じだ。ただそれだけのこと。人差し指を一本、画面に触れるだけのこと。
3年間、やらなかった。
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ロックは椅子に座った。テーブルの上にカップ麺。横にスマホ。ポケットの中で、光の球がかすかに温かい。3年間、ずっと同じ温度だった。25層で触れたドラゴンの球と同じ温度。違うのは、こっちにはまだ主がいるということだけ。
タイトルを打つ。
指が止まる。何を書けばいい。D級冒険者の配信。誰が見る。何を見せる。ランクか。戦闘か。スキルか。全部ない。何もない。
——何もない?
本当に?
ロックは指を動かした。
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『D級冒険者の朝メシ ——9層のカップ麺は味噌が一番もつ——』
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タイトルを打ち終えて、1分くらい画面を見つめていた。
ダサい。地味。誰が開く。サムネもない。概要欄も空。カテゴリは「冒険」にすればいいのか「料理」にすればいいのか。そもそもカップ麺に湯を注ぐだけの映像は「料理」なのか。ゴンザの飯配信とは比較にならない。比較しちゃいけない。比較するものじゃない。
これは、ただの練習だ。
配信者を撮る配信者になるための、第一歩。
ゴンザが出汁を取るとき。ヴァルトが剣を振るとき。カイトがコンボを組み立てるとき。マギステルがネタデッキを回すとき。リセが走り出すとき。メイがゴーストに手をかざすとき。
全員が持っていたもの。ロックがずっと「見ていた」もの。登録者数でもランクでもない、それでも撮りたいという、ただの衝動。
ロックの指が、ボタンに触れた。
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押した。
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何も起きなかった。
——いや。
ポケットの中で、何かが動いた。
光の球が浮き上がる。ポケットの布を透過して、ふわりと目の前に現れる。Lv.1。丸い。小さい。3年間眠っていた——いや、起動されなかっただけだった。配信ボタンが押された瞬間、ドローン妖精の起動シークエンスが走り、光の球は目を覚ました。
球体の表面に、まぶたのようなものが開く。
中に、光がある。
ロックは息を呑んだ。3年間、ポケットの中で同じ温度だった球。25層のドラゴンと同じ姿だった球。眠っていると思っていた球。
球がロックを見ている。
それからゆっくりとロックの顔から離れ、テーブルの上をふわふわと漂い始めた。カップ麺の湯気を追いかけている。蓋を押さえている箸に近づいて、離れて、また近づいて。湯気が立ち昇る軌跡を、興味深そうに追っている。
初めて外に出た子供みたいだった。
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配信画面が立ち上がっている。ドローン妖精の視点がカメラとしてスマホに転送され、ロックのテーブルの上——カップ麺と箸と、朝日の差す台所——が映し出されている。
同接:0。
当然だ。登録者がいない。通知が誰にも届いていない。タイトルもサムネも地味で、検索にも引っかからない。世界の誰も、この配信が始まったことを知らない。
ロックはそれでいいと思った。
それでいい、これから配信者を撮る配信者になるのに、配信の仕方が分からないのではいけない。
3分が経った。蓋を開ける。湯気が立つ。味噌の匂い。光の球が湯気に突っ込んで、ぱっと弾かれたように飛び退る。熱かったのか。幽体のくせに。
「……熱いのか、お前」
声が出た。配信で初めて発した声が、それだった。
箸を割る。麺をつまむ。すする。
うまい。
いつもと同じ味噌味。いつもと同じ朝メシ。9層の安全地帯で食べるのと同じもの。ただ一つだけ違うのは、今日はカメラが回っていること。光の球が、湯気のそばでふわふわしていること。
それだけだった。それだけで——十分だった。
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光の球が、歌い始めた。
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最初、ロックは箸を持つ手を止められなかった。麺をすすりかけた姿勢のまま、固まった。
聞き覚えがあった。あの旋律。25層の底でドラゴンが歌い、妖精を狂わせ、世界から音を消した歌。廃神の共生妖精が、主が怪物になっても歌い続けていた古い歌。もくじんが「懐かしい」と言って沈黙した歌。
光の球が、それを歌っている。
「あるー晴れーた日のー空ー♪」
声は出ないはずだった。ドローン妖精に声はない。全員が自分なりの方法で「ここにいる」と伝えている——その一環として歌うこともある。光の球の歌は音というより振動に近い。空気が震えて、旋律の形をしている。
「魔法使いーのハミングー♪」
ロックの箸が、ゆっくりと下りた。
聞いていたのか。
3年間。ポケットの中で。眠っていたんじゃない。起動されなかっただけで、ずっと——ずっとそこにいて、ロックの冒険の音を聞いていた。剣を振る音。苔を踏む音。カップ麺の蓋を開ける音。配信を見ながら笑う声。一人でダンジョンに潜る足音。帰り道の沈黙。そして25層の底で、ドラゴンが歌った古い旋律。
全部、聞いていた。
全部、覚えていた。
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棚の邪神像が、がたがた揺れ始めた。
ロックは二度目の硬直をした。
7体。角のある頭。短い腕。ずんぐりした体。棚の上で微動だにしなかったはずの邪神像が、一体ずつ、ぎこちなく立ち上がった。
一体目が頭をかくかく振る。歌に合わせている。
二体目が短い腕をぱたぱた動かす。踊っている。たぶん。
三体目が棚の端まで歩いて、ぶつかって、向きを変える。
四体目が三体目にぶつかって、二体とも倒れて、起き上がって、また踊る。
五体目が一番小さくて、一番下手くそに揺れている。リズムが半拍ずれている。でも一番楽しそうに見える。
光の球はカップ麺の湯気のそばで、くるくる回りながら歌い続けている。
「♪ ——————— ♪」
歌詞のない部分はハミングになる。振動が台所の空気を揺らし、窓ガラスが微かに共鳴し、邪神像たちがその振動でいっそう激しく踊る。
ロックは邪神像を見た。光の球を見た。カップ麺を見た。
そしてスマホを見た。
配信中だった。
同接:0。だが、配信中だった。初配信の、最初の映像が、これだった。「D級冒険者の朝メシ」のはずが、邪神像が踊り狂う配信になっている。タイトル詐欺だ。概要欄に「※邪神像が踊ります」と書くべきだったのか。いや、誰がそんなことを予測できる。
どうしたらいいのか、まるでわからない。
わかるのは二つだけだった。邪神像たちは踊っているだけで害はないということ。そして、はやくしないと麺が伸びるということ。
確かに「伸びたらいいな」と言ったが、こんなダブルミーニングは意図していない。
配信を切るわけにはいかない。初配信だ。邪神像を止める方法もわからない。光の球に「やめろ」と言っても歌をやめる気配がない。
つまり——この状況で、ラーメンを食べ続けるしかない。
ロックは麺をすすった。
なんだこれ。
味噌のスープがうまかった。邪神像が踊っていた。光の球が歌っていた。朝日が台所に差していた。
ロックは半笑いになった。
「……なんだこれ」
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1分が経った。
同接の数字が変わった。
同接:1。
コメントが流れた。
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> ハッチ:「ロックさん配信してる!!!!!! ていうか棚のやつ動いてない!?」
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ロックは麺をすする手を止めた。
「……見てわかんねぇのか。俺にもわかんねぇよ」
コメントの勢いが止まらない。1人しかいないのに、1人ぶんとは思えない速度で文字が流れてくる。
> ハッチ:「え!?!?!?え!?声出てる!!初配信!?」
> ハッチ:「ずっと通知ONにしてました!!!!」
「登録者いないのに誰が通知ONにしてんだよ」
> ハッチ:「います!!!!1人!!!!」
> ハッチ:「だから絶対面白いって言ってたでしょ!!!」
ロックは画面を見た。登録者数の欄。
登録者数:1。
いつ登録したんだよ。配信を始める前から登録していたのか。登録者ゼロのチャンネルに、通知をONにして、毎日「新規配信」の通知が来るのを待っていたのか。3年間。一度も配信しなかった3年間。
> ハッチ:「ていうかそれ邪神像ですよね!?7体もどうしたんですか!?」
「普通に7体拾ったんだよ……1体は、25層に置いてきた」
> ハッチ:「」
> ハッチ:「かっこよ」
「かっこよくねぇよ。邪神像を供えただけだ」
> ハッチ:「いや絶対かっこいいですよそれ」
> ハッチ:「というか麺伸びてませんか」
「伸びてる」
邪神像がまだ踊っている。光の球がまだ歌っている。味噌のスープがまだうまい。画面の端で、同接「1」の数字が光っている。
たった1人。
でもその1人は、3年間待っていた1人だった。
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ロックはスープを飲み干した。カップの底に残った味噌の粒を見る。ゴンザなら味噌の溶け残りを許さないだろう。でもロックのカップ麺はそういうものだ。D級の、800円の砥石で研いだ剣で、火曜日の硬い個体を斬る程度の冒険者の、味噌のカップ麺。
それが、今、配信に映っている。
空のカップを置く。光の球が歌い終わる。邪神像たちが動きを止め、棚の上でことんと倒れ、そのまま静かになる。祭りのあとみたいだった。
ロックはカメラに向かって——正確には光の球に向かって——言った。
「……ごちそうさまでした」
コメントが流れた。
> ハッチ:「ごちそうさまでした!!!」
配信を切った。
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部屋が静かになる。光の球がふわふわとテーブルの上を漂っている。眠る気配はない。3年間眠り続けた反動なのか、あちこちを見回して、棚の邪神像をつついたり、窓の光を追いかけたり、忙しそうにしている。
ロックはそれを見ながら、ぼんやり考える。
配信者を撮る配信者になりたい。6人の横顔に光を当てたい。誰にも知られずに消えてしまう人を、一人でも減らしたい。
でもそれは、明日からだ。
今日はまず——カップ麺を食べた。初配信をした。邪神像が踊った。光の球が歌った。登録者が1人できた。
それだけの朝だった。
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スマホの通知が鳴る。
> ハッチ:「次の配信いつですか!?」
ロックは少し考えて、返事を打った。
「明日の昼ぐらい。たぶん。味噌」
> ハッチ:「絶対見ます!!!!!!」
ロックはスマホを置いて、窓の外を見た。
空が青かった。雲が流れていた。いつもと同じ朝だった。ただ一つだけ違うのは——
光の球が、隣にいること。
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玄関で靴を履く。今日は9層に行く。いつもと同じルーティン。ただし今日は——スマホの「新規配信」ボタンを、もう一度押すかもしれない。押さないかもしれない。まだわからない。
わからなくていい。
昨日までは「押さない」しかなかった。今日は「わからない」がある。それだけで、十分だった。
ドアを開ける。光の球がふわりとついてくる。3年間ポケットの中にいた球が、初めてロックと並んで外に出る。
朝の街。通勤の人波。配信者たちのドローン妖精が、あちこちでカメラを回している。ロックの光の球は、その中で一番小さくて、一番地味で、一番何もできない。
でも、ここにいる。
「ゴンザ、もう7層にいるかな……」
ロックは歩き出した。ダンジョンの入り口に向かって。いつもと同じ道を。いつもと同じ速度で。
ポケットの中はからっぽで、隣に光が浮いている。
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——登録者数:1。
——同接:1。
——再生回数:1。
——それが「七人目のダンジョン配信者」の、始まりだった。
---
(了)




