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第十四話 スマホを返す旅

ロックは一台ずつ、持ち主のもとを歩いて回った。


25層の底は広かった。

廃神の残骸が灰色の石になって散らばり、天井から細い光が差している。崩落でできた裂け目か、あるいは元からある構造なのか、ロックにはわからなかった。ただ薄い光の筋が、まるで舞台照明のように6人を照らしていた。


---


最初に目についたのはヴァルトだった。


大剣を地面に突き刺して片膝をついている。肩が上下している。呼吸が荒い。フードがずれていた。汗で額に髪が張り付き、こめかみを伝った雫が顎から落ちた。


ロックがスマホを差し出す。


ヴァルトは受け取るより先にフードを直した。両手で、丁寧に。ずれた布を引き上げ、額を隠し、頬を覆い、口元だけが見えるいつもの状態に戻す。その3秒間、犬妖精はロックの足元から動かなかった。尻尾も振らず、耳も立てず、ただ廃神の残骸のほうを向いていた。主人の素顔を——いつものように、隠して。


フードが整ってから、ヴァルトはスマホを受け取った。


「……ありがとう」


犬妖精がゆっくりとヴァルトの横に戻り、斜め後ろ二歩半の定位置についた。


---


大盾を壁に立てかけて、座り込んでいた。


ロックが黙ってスマホを渡す。ゴンザも黙って受け取る。とりさんがロックの頭からふわりと飛び立ち、ゴンザの肩に移った。小さな鳥が首をかしげて、ゴンザの横顔を見ている。


ゴンザは画面を一瞥した。配信がまだ回っていることを確認して——切らない。コメント欄が流れている。「ゴンザ無事か」「生きてた」「よかった」。ゴンザはそれを読んでいるのか読んでいないのか、わからない顔で、ぽつりと言った。


「……腹、減ったな」


飯以外で喋ったのは今日二度目だった。


でも結局、飯の話だった。


---


壁際に座り込んでいた。背中を石壁に預けて、膝を抱えている。11ターンの大技の反動で指先が小刻みに震えていた。カードデッキを握ろうとして、握れなくて、膝の上に手を置いている。


ロックが胸ポケットからスマホを抜いて渡した。


マギステルは震える手で受け取り、画面を覗き込んだ。配信画面。コメント欄。スパチャの残骸。文字化けした「スイーツ無常」がまだ固定表示されている。


「……あっ、配信まだ続いてた」


声が少しかすれていた。でもすぐにいつもの調子を取り戻す。


「みなさーん、マギステルですよー。生きてまーす。指がちょっとプルプルしてますけど、大丈夫ですよー」


コメントが一気に流れた。「マギステル!」「生きてた!」「11ターンやばかった」「泣いた」「指大丈夫?」


マギステルは笑っている。いつもの笑顔。配信用の、元気な笑顔。


だがことね妖精は、配信に乗らない角度で——マギステルの震える指先を、ずっと撮り続けていた。配信には乗せない。乗せないけれど、撮る。


ロックだけが、それを見ていた。


---


首からぶら下がったストラップごと返した。


リセは受け取ると同時に、もこもこの尻尾の膨らみを確認した。パルクール中は危険度に比例して膨らむ尻尾。いま——平常時。安全。ぺたんとしている。それを見て、ようやく息を吐いた。


「ねー、ロック」


「なに」


「あんた、口でスマホくわえて撮ってたでしょ」


「……うん」


「あれ、ちょっとおもしろかった」


もこもこの尻尾がぴこっと一瞬だけ動いた。リセの肩の上で、ほんの少しだけ。それが笑っているのかどうか、ロックにはわからなかった。もこもこは一度もリセの肩から降りたことがない。だから横顔は撮れない。でも今、リセが笑ったことは——尻尾でわかった。


---


ズボンのポケットに押し込まれていたスマホを返す。ロックの手が少し震えた。広告の残滓か、疲労か、それとも別の何かか。メイはロックの手を見た。


何も言わなかった。


ただ受け取り、画面を確認した。


「あら。浄霊数が増えていますね」


淡々と言う。廃神はゴーストではないが、配信システムが自動的に「浄霊」としてカウントしたらしい。メイはそれをちょっとだけおかしそうに見ている。浄霊RTAのタイムに影響するかどうか計算しているのかもしれない。


ぬりかべ妖精がロックの背後の暗闇をじっと見つめていた。何もいない。廃神はもう石になった。ドラゴンの歌も止んだ。何もいないはずだった。


だがぬりかべはしばらくそこを見ていて、それからゆっくりメイのほうを向いた。


メイだけが——あるいはぬりかべだけが——何かを見ていたのかもしれない。ロックには見えないものを。リスナーにも映らないものを。いつもの配信と同じように。


---


カイトは、まだ大の字で地面に寝転がっていた。


リーサルコンボの反動で全身の筋肉が悲鳴を上げている。指一本動かすのも嫌だという顔をしている。だが目は開いていて、天井の細い光を見上げていた。


ロックが歯型つきのスマホを差し出した。


カイトは寝転がったまま片手で受け取り、画面を見た。コメントが凄まじい勢いで流れている。リーサルコンボの切り抜きがもう出回っている。「神」「天才」「目押し全成功」「人間やめてる」の文字列。


「うわ、歯型ついてんじゃん」


「……ごめん」


「いや、いいよ。サムネにする」


阿修羅妖精の六本腕が、一斉にサムズアップした。六つの親指が天井を向いている。良いコンボが成功したときにだけ見せる仕草。廃神戦のリーサルは——阿修羅にとっても、過去最高のコンボだったらしい。


カイトは画面をちらりと見て、もくじんのテキストを探した。


「もくじーん、まだいるー?」


テキストが浮かんだ。


『います』


「だよな」


カイトは笑った。寝転がったまま。天井に向かって。返事がなくても「まあ、いるよな」と笑ういつもの配信後と同じ顔だった。


---


もくじんのテキストが静かに浮かぶ。


『全員の生存を確認しました。配信継続中:6チャンネル。リセさん、ポータルの状況を』


リセが跳ね起きた。


「あ——やば。張り直さないと」


ポータルの残り時間が削られている。リセはヴァルトの腕を引っ張り——「ちょっと来て、一番強そう」——ヴァルトが無言で従い、二人は穴のほうへ走っていった。


ポータルの撤去と再設置まで、15分はかかる。その間に、遭難者の救出が始まった。


崩落した岩の隙間に、3人がいた。ゴンザが瓦礫を盾で押しのけ、カイトが細い隙間に手を突っ込んで引きずり出す。骨折。脱水。何日ぶんかの恐怖が顔に刻まれている。


メイが回復をかけた。柔らかい光が傷を塞いでいく。意識はある。呼吸も安定している。生きている。


遭難者のひとりが震える声で言った。


「……来てくれたんですか」


ゴンザは何も言わなかった。


ただ、懐から干し肉を出して渡した。遭難者たちは、涙を流してそれを食べた。


---


撤収準備が始まる中、ロックだけが足を止めていた。


廃神だったものは完全に石になっていた。人の形はもうない。両手に剣を持ったヘルリザードマンの輪郭は崩れ、ただの灰色の岩になっている。戦っていたときの威圧感も、ドラゴンの歌の恐怖も、広告の嵐も——すべて消えて、冷たい石だけが残った。


その上に、小さな光の球がひとつ。


ドラゴン妖精だったもの。Lv.1に戻って、微かに明滅している。眠っているのか、起きているのか、わからない。主人を失った妖精は、行き場がないまま石の上に留まっていた。宿る先がないから。帰る場所がないから。


石の表面に、消えかけた配信画面のインターフェースが浮かんでいた。


登録者数:0

総再生回数:0

最終配信:---


誰にも届かなかった配信の残骸。


ロックはポケットの光の球に触れた。自分の妖精。3年間、一度も起動されなかった光の球。Lv.1のまま眠り続けている球。


同じ温度だった。


——こいつも、配信者だったんだよな。


どんな配信だったのか。何もわからない。飯を作っていたのかもしれない。剣を振っていたのかもしれない。コンボを研究していたのかもしれない。罠を走り抜けていたのかもしれない。ゴーストを祓っていたのかもしれない。全部消えた。アカウントが消え、アーカイブが消え、コメントが消え、名前が消え、最後に体まで消えて、ゼロだけが残った。


ロックはリュックから邪神像を一体取り出した。


ドロップ率0.9%。年に2個ペースで引く体質。家の棚に5体。今回の探索で得たのが3体。何の価値もない、誰も欲しがらないレアアイテム。


石の横にそっと置いた。


意味はない。供養のつもりもない。ただ——ここに誰かがいたことを、何かで示したかった。それだけだった。


何も起きない。


当然だ。意味のない行為だ。邪神像は石像であって、祭具でも依代でもない。ドロップテーブルの端に載っているだけの、売値12Gのジャンクアイテムだ。


——と、思った。


石の上の光の球が、かすかに動いた。


ロックは息を呑んだ。


ドラゴン妖精だったもの。Lv.1に戻った、主のない光。廃神の体が石になっても、ずっとその上で漂っていた。行き場がないから。宿る先がないから。冷たい石の上で、ずっと。


光の球がふわりと浮き上がった。


ゆっくりと、降りてきた。


邪神像の頭に——ちょこん、と乗った。


邪神像の頭は丸い。角と角のあいだに、小さなくぼみがある。設定資料にもドロップ表にも載っていない、造形上のただのくぼみ。光の球がちょうど収まる大きさだった。


球がそこに収まると、光がふっと弱くなった。


眠った。


石の上では眠れなかったのだ。冷たくて、何もなくて、誰のものでもない場所で——ずっと起きていた。ロックが置いた、たった一つの邪神像。何の意味もない、売値12Gのジャンクアイテム。その頭のくぼみに、ほっとしたように、丸くなって眠った。


ロックはしばらく動けなかった。


供養のつもりはなかった。意味なんてなかった。


でも——この球は意味を見つけた。


ロックが置いたものに、勝手に意味が宿った。


ポケットの中で、自分の光の球がぴくりと震えた。同じ温度。同じ大きさ。同じ形。


違うのは——こっちにはまだ主がいるということだけだった。


---


背後で足音がした。


カイトだった。起き上がったらしい。全身がまだ軋んでいるはずだが、ロックの横まで歩いてきて、しゃがみ込んだ。邪神像の上で眠る光の球を見た。石の表面のゼロを見た。


「——ごめんな、ロック。ファンだったんだろ?」


ロックの思考が止まった。


「……は?」


「だって邪神像最後までずっと持ってたじゃん。もうコメント欄でも『邪神像の人』で通ってるし」


カイトは石の上の——いや、もう邪神像の上の——眠る光の球を見た。


「こいつのファンだったんだよな。いま気づいたよ。で、最期は俺が倒しちゃったからさ。推しの退場を見届ける気持ちっていうか——まあ、天才の俺にはあんまりわかんないけど」


ロックはぽかんとしていた。口が半開きのまま、何秒か固まって——それから、声にならない声で笑った。


「……違ぇよ」


「え、違うの?」


「違う。あれはただのレアドロップだ。年に2個ペースで引くだけだ」


「引きすぎだろ」


「知らねぇよ。体質だ」


カイトは「なんだ」と肩を落とした。だがすぐに顔を上げて、石の表面のゼロをもう一度見る。


「——じゃあさ、ファンじゃなかったんなら、なんで供えたの」


ロックは答えに詰まった。


邪神像は廃神のグッズではない。ファンだったわけでもない。でもゼロを見たとき、体が勝手に動いた。なぜかはわからない。ポケットの光の球が同じ温度だったから。3年間眠り続ける球と、永遠に眠る球が、同じに見えたから。


「……わからない。ただ——」


言葉が出なかった。


ここに誰かがいたことを、忘れたくなかっただけだ。


その言葉は声にならなかった。代わりにロックは黙って立ち上がり、カイトに背を向けた。


カイトはしばらくしゃがんだまま石を見ていた。阿修羅妖精の六本腕が、珍しく全部降りている。サムズアップもしていない。ただ、六つの掌をそっと合わせていた。


「——まあ、いいよ」


カイトが立ち上がる。


「お前がファンだったかどうかは知らねぇけどさ。こいつの最後の配信、お前はちゃんと見届けてた。それでいいだろ」


ロックは振り返らなかった。


でも——「最後の配信」という言葉が、ずっと耳に残った。


---


穴の上にポータルを設置し終えたリセが、もう一度穴の底に飛び降りてきた。


「ねえみんな、もうサムネ用の素材撮った?」


「は?」


ロックは最初意味が分からなかった。

マギステルが乗った。


「配信者がボスを倒したら、やることは決まっていますよ」


そうして、倒したボスを前に、6人がサムネ用のポーズを取り始めた。


ロックが撮影を任された。


最初は不謹慎な、と思ったが、ロックはスマホを構え、画面越しに6人の顔を見た。


笑っている。


でもその奥に、同じものがあった。

背後に石になった廃神がある。登録者数ゼロの残骸がある。

誰の目にも当たらずに怨霊と化してしまった仲間を、誰かの目に当てないといけない。


不謹慎なんじゃない。


こいつらなりの——弔い方なのだ。


6人のサムネ。背景に25層の底。天井からの光。散らばった瓦礫。その端に、邪神像の上で眠る小さな光。


全員を撮り終えて、ロックは最後に——石になった廃神にカメラを向けた。


登録者数:0。総再生回数:0。最終配信:---。


誰にも届かなかった配信者の、最後の画面。


ロックは小さく呟いた。


「……伸びるといいな」


---


再設置されたリセのポータルは、残り時間も十分にあった。


遭難者3名を先に通した。メイが付き添い、ゴンザが担架代わりに盾を使った。次にマギステル。指の震えがまだ止まっていない。「大丈夫ですよー、ちょっと手がプルプルしてるだけですよー」と言いながらポータルに吸い込まれた。


ヴァルトが無言でくぐる。カイトが「じゃ、お先ー」と軽く手を挙げて消える。


ゴンザがロックの肩を叩いた。何も言わず、先にくぐった。


ロックの番が来た。


ポータルの青い光が顔を照らす。25層の底が、青く染まっている。


振り返った。


25層の闇。崩れた石。散らばった瓦礫。その向こうに、灰色の岩と、その横の邪神像。角と角のあいだのくぼみで、小さな光の球が静かに眠っている。


もう漂っていない。もう迷っていない。


ロックのポケットの球が、同じ色で光っていた。


---


光。


目を開けると空があった。


雲が流れている。風が吹いている。日差しが眩しくて、ロックは思わず手で目を覆った。地下25層から出ると空気の味が違う。冷たくて、乾いていて、肺が痛いくらい新鮮で、咳き込んだ。


ダンジョン入り口の広場には人が集まっていた。ギルドの救護班が待機している。報道の配信者たちがカメラを回している。野次馬。ギルド職員。そして——遭難者の関係者たち。


遭難者3名が担架で運ばれていく。その横を走る人たちがいた。名前を呼んでいる。泣いている。崩れ落ちるように抱きついて、何度も何度も名前を繰り返している。


6人の配信者たちは、その様子を少し離れた場所から見ていた。


その配信者たちの笑顔を見た時。

ロックの中に、今まで感じたことのない衝動が生まれた。


この笑顔を配信したい。


誰にも知られずに消えて、廃神に飲み込まれてしまう人を、一人でも減らしたい。


このときロックははじめて、『配信者を撮る配信者』になるという、自分の道筋が見えたのだった。


彼のポケットの中の妖精が、ふわりと動いた。

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