第十一話 廃神(スタレノカミ)
リセが動いた。
穴の縁にポータルの起点を設置する。青白い光の輪が地面に浮かんだ。
パルクール用のポータルなら余るほど持っている。
ここが帰還地点。14層の安全地帯まで走れば、あとは地上に戻れる。
「いってくるね」
リセが穴に飛び込んだ。
垂直の壁を蹴り、反対側の壁を蹴り、ジグザグに降りていく。パルクールの延長線。だが規模が違う。直径30メートル、深さ11層ぶんの垂直空洞を、壁面だけを足場にして降りていく。もこもこが肩にしがみつき、尻尾を限界まで膨らませている。
一分。
二分。
三分。
リセの姿が暗闇に消えた。
配信だけが動いていた。リセの配信はもこもこの肩固定カメラだから、FPS視点で穴の壁面が下へ下へと流れていく。視聴者のコメントがまばらに流れる。
『怖すぎる』
『底なしに見える』
『リセちゃんの握力どうなってんの』
五分が経った。
リセの配信画面の中で、ふいに景色が変わった。壁面が終わり、広い空間が開けている。底に着いたのだ。
青い光が画面を満たした。
地面が光っていた。古い紋様のような模様が床一面に刻まれ、淡い青で発光している。天然の照明のように、広大な空間を照らしている。
穴の底からリセの声が反響した。
「ついたー! ポータル置いたー!」
カイトが耳を澄ませた。「……聞こえるな。意外と近い」
もくじんのテキストが浮かんだ。
『ポータルが設置されました。持続時間のカウントが始まります。残り——57分です』
57分。降下に3分かかった。帰りも同じだけかかる。実質的な活動時間は50分程度。
全員が顔を見合わせた。
ゴンザが最初にポータルに足を踏み入れた。
青い光に包まれて、消えた。
ヴァルトが続いた。カイトが続いた。マギステルが続いた。メイが続いた。
ロックは、ポータルの前に立った。
青い光が顔を照らしている。
ポケットの光の球が、ほんの少しだけ温かかった。気のせいかもしれない。
踏み込んだ。
青い光が消えて、別の青い光が現れた。
床の紋様が足元で光っている。広い。天井が見えないほど広い。ダンジョンというよりも、地下に埋もれた神殿のような空間だった。
柱がある。何十本もの巨大な石柱が、等間隔に立っている。柱の表面にも紋様が刻まれ、淡く光っていた。空気は——古い。十三層の比ではない。何千年も、何万年も、人の手が触れなかった空気だ。
六人はすでに警戒態勢に入っていた。
ロックは暗闇に目を凝らした。前方に崩落した岩の山が見える。その向こうに——気配があった。遭難者か、それとも。
ゴンザが盾を構えた。ヴァルトが大剣を抜いた。カイトが双短剣を回した。
リセが先行して岩の山を駆け上がり、向こう側を覗いた。
「——いた。3人。生きてる」
全員が息を吐いた。
「でも」
リセの声が変わった。もこもこの尻尾が、ロックがこれまで見たどの瞬間よりも大きく膨れ上がっていた。
「——すぐそばに、なんかいる」
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岩の山を越えた。
崩落した柱の陰に、遭難者3名がいた。冒険者の装備を身につけた男女。一人が足を折り、一人が意識を失い、一人が二人を庇うように座っていた。意識のある一人がゴンザの配信画面にコメントを書いた人間だろう。目が合った。首を横に振られた。来るなと。
その理由は——すぐにわかった。
神殿の中央に、それがいた。
体高4メートル。両手に剣を持ったヘルリザードマン。鱗は黒く、赤い筋が稲妻のように走っている。二本の剣はそれぞれロックの身長より長い。筋肉の一つ一つが鋼鉄のように盛り上がり、呼吸のたびに胸郭が軋む音が聞こえる。
そして——肩にドラゴンがいた。
小さなドラゴン。ヘルリザードマンの巨体に比べれば、猫ほどの大きさ。だがその存在感は本体に劣らなかった。古い鱗。褪せた翼。瞳だけが妙に澄んでいる。
ドローン妖精だった。
ロックにはわかった。あのドラゴンは——かつて誰かの配信を撮っていた妖精だ。進化した姿。主人と共に戦い、主人と共に育ち、主人が——いなくなった後も、まだここにいる。
コメント欄が一斉に動いた。
『廃神だ』
『まじかよ廃神』
『おいおいおいおい』
『気をつけろ、ドラゴンが歌う』
『全員逃げろ!!!!』
『廃神戦のデータは存在しない。人類未踏だぞ』
さすがヴァルトのリスナーはガチ勢が多い、よく訓練されている。
カイトのリスナーの方も負けてはいなかった。
もくじんのテキストが浮かんだ。長い。
『廃神——配信神ヨウツベノミコトから分かたれた、配信世界の闇。アカウントを廃止された配信者たちの怨念が長い年月をかけて沈殿し、凝集し、一つの神格にまで練り上がったもの。正式名称は廃配信邪神。
ただし、配信者の正式名称が配信神信者ですので、正しくは廃配信神信者神になります。しかし皆からは——』
もくじんのテキストが一拍置いた。
『廃神、と』
「最初からそれでいいよもう」
カイトのリスナーも、別の意味でよく訓練されていた。
ロックは廃神を見つめていた。コメント欄も、もくじんの解説も、カイトの軽口も——耳に入っていなかった。
肩のドラゴンを見ていた。
古い妖精。主人がヘルリザードマンの邪神に変わり果てても、まだその肩にいる。まだ古い歌を歌おうとしている。くちばしが——いや、顎が微かに動いている。歌い出す直前の、あの動き。
ロックは自分のドローン妖精を見た。光の球。3年間、一度も目覚めていない。ロックの肩の少し上を漂い、ぼんやりと光っているだけ。
登録者ゼロ。視聴者ゼロ。配信歴なし。
廃神も——かつてはそうだったのだろうか。登録者がいて、視聴者がいて、配信を撮ってくれる妖精がいて。それが全部なくなって。なぜアカウントを消されたのかもわからないまま、ここまで落ちて、邪神になった。
リュックに入れている邪神像が、かすかに重くなった気がした。
「——同じだ」
声に出ていた。自分でも気づかないうちに。
ゴンザが振り返った。
「ロック?」
「……いや、なんでもない」
なんでもなくはなかった。だが、言葉にできなかった。
残り時間は、52分。
廃神がゆっくりと首をもたげた。二本の剣が地面を擦り、火花が散った。
肩のドラゴンが——口を開いた。
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そして、歌が始まった。




