第十話 かみ合わない歯車(後編)
13層を踏破した。
14層手前の安全地帯。ダンジョンの壁が開けた広い空間に、古い石のベンチと枯れた噴水がある。天井から差し込む薄い光が、埃の粒子をきらきらと照らしていた。
ロックは壁に背中を預けて座り込んだ。足が震えていた。
正直に言えば、13層の後半はついていくのが精一杯だった。戦闘で斬れる敵はほぼいなくなり、声を出すことと、コメント欄を読むことと、戦況を見ることだけが自分の仕事になっていた。体力的にはとっくに限界を超えている。9層ソロ周回の体力で13層を駆け抜けるのは、D級用800円の砥石でS級の大剣を研ぐようなものだった。
荷物を腰の後ろに挟んだ。石の冷たさが直接こない。3年間で体に染みついた座り方。
ゴンザが焚き火を起こした。
背嚢から鉄鍋を出し、水を汲み、乾燥野菜と干し肉を放り込んだ。火にかける。誰に聞かれたわけでもなく、淡々と。配信は切っていない。同接が静かに上がり始めている。
7人が焚き火を囲んだ。
リセが地面に大の字に寝転がっている。もこもこが肩の上で丸くなっている。カイトが壁にもたれて天井を見ている。阿修羅妖精が六本腕を下ろして、珍しくじっとしている。マギステルがカードを一枚ずつ確認している。ことね妖精がその手元をペンライトで照らしている。メイが目を閉じて呼吸を整えている。ぬりかべがメイの隣で微動だにしない。
ヴァルトが焚き火の向かい側に座っていた。フードの奥の顔は見えない。犬妖精がその足元に伏せている。
鍋が煮立った。ゴンザが味噌を溶き入れた。
味噌の香りが安全地帯に広がった。13層の先にある未知への恐怖も、D級の体の限界も、初対面のぎこちなさも——味噌汁の湯気の前では、少しだけ遠くなった。
とりさんが鍋の縁にとまり、味噌が溶ける瞬間を見つめていた。首をかしげた。
ゴンザが無言で椀を配った。7つ。自分の分も含めて7つ。ロックが受け取ると、椀の温かさが指先から体の芯に染みた。
誰も喋らなかった。焚き火の爆ぜる音と、味噌汁をすする音だけが響いていた。
ヴァルトが椀を口に運んだ。フードの隙間から、ほんの一瞬、口元が見えた。犬妖精が——その瞬間だけ、焚き火の方を向いていた。ヴァルトの顔からカメラを逸らして。
コメント欄にはゴンザの配信画面が映っている。同接が14,000人を超えていた。味噌汁の瞬間。いつもの数字だ。コメント欄が「いただきます」で埋まっている。
ロックも呟いた。「いただきます」。声にはならなかった。
椀を空にしたところで、ゴンザの配信画面に不穏なコメントが流れた。
文体が違った。配信のコメントではない。誰かが——ダンジョンの中から書き込んでいる。
『来ないでください』
一瞬、コメント欄が静まった。
『いま来てもボス部屋はありません』
『突然穴が開いて、地下に落ちた』
『いまどこにいるのかもわかりません』
遭難者の仲間——14層の先に取り残された冒険者が、ゴンザの配信のコメント欄に助けを求めていたのではなかった。来るなと言っていた。
「……今のは」
沈黙が落ちた。焚き火が爆ぜた。
「分からない、急ごう」
ゴンザが椀を洗い始めた。黙って。丁寧に。一つずつ。とりさんだけが、その手元を見ていた。
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14層に到着した。
ボス部屋があるはずの場所に、それはあった。
直径30メートルの垂直の穴。底が見えない。冷たい風が下から吹き上がってくる。穴の縁は滑らかで、何かに削り取られたように綺麗だった。自然にできたものではない。
リセが穴の縁に這いつくばって下を覗き込んだ。もこもこの尻尾が最大まで膨らんでいる。
「……暗い。底が見えない。でも——風がある。空間がある」
もくじんのテキストが浮かんだ。
『地質構造と魔力密度から推定します。深さ——約11層ぶん。25層相当。人類未踏です』
25層。14層ですら高ランク冒険者のパーティが挑む領域だ。その11層先。地図もない。データもない。何がいるかもわからない。
全員が穴を見つめていた。
もくじんのテキストが続いた。
『遭難者のコメントの発信座標は、この穴の底付近です。生存の可能性は——ゼロではありません。ただし、帰還手段は限定されます。セーブポイントの持続時間は1時間。設置後1時間で消滅します』
「俺、格ゲー勢だからセーブポイントとかよく知らんけど、元に戻って張りなおすとかはダメなの?」とカイトは訊いた。
「無理かも。ポータルは撤去してすぐ張りなおすことはできないの」
リセは、珍しくまっすぐな声で言った。
「30分は間を置かないと、その土地の魔力が回復しないの……ここは安全地帯じゃないボス部屋だから、その間に1人きりで頑張るのは、ちょっと厳しい」
『つまり、その間の安全を確保するために、25層に降りている戦力を割く必要があります。現実的ではありません。——降りてから1時間以内に、全員がポータルまで戻る事を推奨します』
1時間。25層相当の未踏領域で、遭難者を救出し、何がいるかわからない環境から脱出する。1時間。
沈黙が続いた。
ゴンザが口を開いた。
「みんな、ここまで来てくれてありがとう。俺はひとりでもこの先に行きたい」
焚き火のときと同じ声だった。静かで、低くて、味噌汁の話をするときとは違う——本当にまずいときだけの声。
「コメントしてくれたやつは、きっと腹を空かせているだろう」
誰も笑わなかった。ゴンザがそう言うなら、本当にそういうことなのだ。
ヴァルトが一歩前に出た。何も言わず、穴の縁に立った。犬妖精が尻尾を振った。
「私も――」ヴァルトは、言った。「ゴンザの配信、よく見てる」
全員が、えっという顔でヴァルトの方を向いた。
「休憩時間、いつもハムチーズサンドとか、卵サンドとか、食べてる……いつも一人だけど、ゴンザの配信を見ていると、一人で食べている気がしない」
犬妖精は、何も食べない。
ヴァルトは、焚き火が消えてもゴンザの配信を見続けている、4人の視聴者の一人だった。
「あんたの配信がなくなったら、きっと寂しい」
それだけで十分だった。
カイトが腕を組んだ。「25層相当? 未踏? データなし? ——最高じゃん。天才の出番だ」
マギステルがカードデッキを二つ——ネタデッキとテンプレデッキを、両方取り出した。「両方持っていきます。おもしろい方で勝ちます」
リセが穴の縁で屈伸を始めた。「速さで言ったらあたしが一番だからね。ポータルのことはあたしに任せて」
メイが目を開いた。穴の底を見つめている。ぬりかべが同じ方向を、同じ顔で見つめている。
「あの下に何がいても、わたしの仕事は変わりません。傷を癒して、穢れを祓う。それだけです」
穏やかな声だった。浄霊RTAで50体のゴーストを素通りするときと同じ声。怖がっていないのではない。怖さの基準が違うのだ。
全員が行く意思を示した。
ロック以外の、全員が。
ロックは穴の縁から二歩離れたところに立っていた。手が震えている。剣の柄を握り直しても止まらない。13層の後半、ただ歩くだけで限界だった体が、正直な答えを出している。
「すまない」
声が掠れた。
「俺にはもう、無理だ……俺自身、よくここまで頑張って来れたなと思う。邪神像なんて3体も拾ったし、そろそろ引き際じゃないかと思うんだ」
「毎回思うんだけど、なんでそんなに引き強いの」
「分からない、体質だと思う。ここの層の雑魚モンスターでも俺にはきつい。25層なんて——足手まといになるだけだ」
誰も責めなかった。ゴンザが黙ってロックを見ていた。ヴァルトのフードが微かに揺れた。メイが何か言いかけて、口を閉じた。
正しい判断だった。D級が25層に行くのは自殺行為だ。リスナーの大半もそう思っているだろう。コメント欄を見れば——
カイトは、すぅーっと息を吸い込むと、ゴンザや他のメンバーのカメラを自分に向けさせ、にやりと笑った。
「はいアンケとりまーす!」
コメント欄に向かって手を挙げた。
「邪神像のロックも俺たちと一緒に25層まで行くべきだと思う人ー!」
コメントが爆発した。
『行け』
『行け行け行け』
『邪神像ニキ行けよ!!!』
『お前がいなかったら13層で全滅してたわ』
『目がS級のD級は行くべき』
『コマンダーなしでどうすんだよ』
『ロック行け---!!!!』
流れが速すぎて読めない。だが一つだけ、固定表示のスパチャが光った。
100G。ハッチ。
『ロックさん行ってください!!!ぼくもし9層まで来れるようになったらカップ麺届けます!!!味噌がいいんですよね!!!』
ロックは黙ってスパチャを見つめた。ハッチ。どうやら無事に地表まで帰還したらしい。
画面にはまだコメントが奔流のように流れている。
カイトが言った。静かに。配信用の声ではなく、ロックだけに届く声で。
「誰もお前を足手まといだなんて思ってねぇよ」
それから、いつもの調子に戻って、
「天才の俺が保証する、お前の冒険は最高に面白い」
阿修羅妖精が六本腕でサムズアップした。
ロックは剣の柄を握った。まだ震えている。だが——握れた。
「……行く」
声が出た。掠れていたが、出た。
「行く。俺も行く」




