第十話 かみ合わない歯車(前編)
9層の安全地帯を出発したのは、負傷者の仲間が担ぎ込まれてから1時間後のことだった。ゴンザが焚き火を消し、鉄鍋を背嚢に括りつけ、大盾を構えた瞬間が合図だった。誰も「行こう」とは言わなかった。全員が立ち上がっただけだった。
隊列はこうだ。
最前にリセ。罠処理と偵察。配管工のレンチのような武器を腰に引っ掛け、壁を蹴り、天井を走り、通路の先の気配を嗅ぎ分ける。もこもこが肩に張りついたまま、尻尾をぱんぱんに膨らませている。
前衛にゴンザ、ヴァルト、カイト。大盾、大剣、双短剣の三枚壁。A級、S級、A級。数字だけ見れば、14層程度で苦戦する面子ではない。
中衛にマギステル。カードデッキを扇のように広げ、いつでも切れる状態で歩いている。
後衛にメイとロック。ヒーラーと——D級。
ロックは剣を抜いていた。9層までの雑魚なら二連斬りで仕留められる。10層以降はわからない。3年間9層をソロで回し続けた剣士の限界が、あと数分で試される。
10層に入った。
空気が変わった。湿度が上がり、苔の色が青から灰に変わる。ロックの体が覚えている知識が途切れる境界線だった。ここから先は、配信でしか見たことがない。
最初の遭遇はすぐだった。
岩蜥蜴が三体、通路の曲がり角から這い出してきた。10層の序盤モンスター。配信で何百回と見た。ゴンザの盾が受け、カイトが横から斬り込み、ヴァルトが——
止まった。
ヴァルトの大剣が、振り下ろされなかった。
カイトが斬り込んだ角度と、ヴァルトの振り下ろしの軌道が重なっていた。当たる。味方に。ヴァルトは剣を途中で止め、半歩退いた。その間に岩蜥蜴が一体、前衛の隙間をすり抜けた。
ゴンザが盾の端で弾き返した。事なきを得た。だが、三体の岩蜥蜴に、三人がもたついた。
ロックは黙って見ていた。
次の部屋。甲虫型が五体。ゴンザが二体を盾で受け止め、ハンマーで叩き潰す。完璧。いつもの配信と同じ——いや、違う。いつもの配信ではゴンザは前に出ながら叩く。今日は半歩退きながら叩いている。
カイトが残りの三体に突っ込む。双短剣の連撃が唸る。一体目を瞬殺、二体目を浮かせて叩きつけ——三体目に、手を出さなかった。振り返って後衛を確認している。三体目がそのまま直進し、マギステルの足元に転がり込んだ。
「ひゃっ」
マギステルがカードを一枚切った。「フロストランス」。氷の槍が甲虫を串刺しにした。処理はできた。だが、カイトが後ろを気にしなければ0.5秒で終わっていた戦闘に、3秒かかった。
ヴァルトは黙って歩いている。犬妖精が斜め後ろ二歩半を走っている。フードの奥の表情は見えない。
彼らの配信をずっと見てきているロックには、わかった。
ヴァルトが大振りを控えている。カイトが連撃の途中で手を止めて後方を確認する。ゴンザが前に出ずに、壁になることを優先している。
三人の動きを一言でまとめるなら——遠慮。
A級の前衛が10層の雑魚に遠慮している。配信では見たことがない動きだった。
理由は簡単だった。
後衛にいるのはB級ヒーラー、E級魔法使い、そしてD級剣士。前衛がうち漏らしたモンスターが後衛に流れたら、処理できるかわからない。だから前衛は一体も漏らさないように、慎重に、安全に、確実に殺している。
それが、全体の速度を殺していた。
コメント欄が流れている。ロックの位置からはゴンザの配信画面が見えた。
『前衛もっと前出ていいだろ』
『いつものゴンザじゃない』
『カイト後ろ気にしすぎ』
『ヴァルト全然振ってなくね?』
リスナーが気づいている。だが前衛は戦闘中にコメントを読む余裕がない。6人は初めてパーティを組んだのだ。配信ジャンルが違いすぎて、お互いの実力を正確には把握していない。飯配信のゴンザはカイトのコンボ動画を見ない。パルクールのリセは浄霊配信を見ない。それぞれが自分の世界で最高の配信者であっても、隣に立つ人間の呼吸は知らない。
10層の中盤に近づいてきて、ロックは口を開いた。
「ゴンザさん」
ゴンザが振り返った。
「前衛、遠慮してるだろ」
沈黙。ゴンザは何も言わなかった。それが肯定だった。
「後ろは大丈夫だ。メイさんの回復がある。マギステルさんのカードがある。俺も——9層の雑魚なら二連斬りで倒せる。10層のやつはまだわからないけど、足止めくらいはできる」
「10層の甲虫は9層より硬い」ゴンザが短く言った。
「知ってる。火曜は特に硬い。このダンジョンに潜ったのが月曜だったから、もうじき火曜になる」
ゴンザの眉が微かに動いた。
「どうして知っているんだ?」
「いや。9層ではそうだったから、推測しただけだ。隣り合う層は、まったく無関係なわけじゃない」
ゴンザはしばらくロックを見つめていた。それから、とりさんに目をやった。とりさんは首をかしげていた。いつものように。
「……わかった」
ゴンザが前を向いた。大盾を構え直した。今度は——半歩、前に出た。
ロックは振り返って、メイとマギステルに言った。
「後ろに来たやつは俺が受ける。メイさんは回復に専念してくれ。マギステルさんは——」
「もちろん焼きますよ!焼き加減はミディアムレアでよろしいですか!?」
「……お願いします」
ロックは剣を構え直した。
そしてコメント欄に目をやり、深く息を吸い、腹の底から叫んだ。
「みんな!後衛は大丈夫だ!俺を信じて、いつもみたいに全力で戦ってくれ!」
ただの虚勢だが、勝算がないわけではなかった。
声が通路に反響した。
カイトが振り返った。ヴァルトのフードが微かに揺れた。リセが天井からぶら下がって「おっ」と声を上げた。
次の部屋で、前衛の動きが変わった。
ゴンザが前に出た。盾で受け、そのまま押し込み、ハンマーで叩き潰す。いつもの配信の動き。退かない壁。
カイトが後方確認をやめた。目の前の敵だけを見て、最短距離で斬る。双短剣が弧を描くたびに敵が崩れ落ちる。
ヴァルトが——大剣を振った。
遠慮なく。
風圧だけで小型の敵が吹き飛んだ。大剣が振り下ろされた地面に亀裂が走り、衝撃波が通路の壁を揺らした。犬妖精が嬉しそうに尻尾を振りながら斜め後ろ二歩半を駆けている。
前衛が全力になった。うち漏らしが出る。想定通りだった。
蜥蜴が一体、前衛の隙間を抜けて後衛に突っ込んできた。
ロックは剣を構えた。10層の蜥蜴。9層より一回り大きく、鱗が厚い。配信では何百回と見たが、自分の剣で切るのは初めてだった。
一撃目。鱗に弾かれた。手が痺れる。
二撃目。関節の隙間を狙った。D級の砥石で研いだ刃が、かろうじて鱗の継ぎ目に食い込んだ。蜥蜴が怯む。
三撃目。突き。喉元に入った。
倒れた。
手が震えていた。3年間、9層の雑魚を二連斬りで倒し続けた剣が、10層の蜥蜴に三撃かかった。だが——倒せた。
「おおー! やるじゃん!」
天井からリセが手を振っていた。もこもこが尻尾をぶんぶん振っている。
ロックは剣についた血を袖で拭い、コメント欄をちらりと見た。
『D級つえー!』
『いや三撃かかってるけど笑』
『このD級誰?』
『知らん。でもいいぞ』
ロックは息を整えた。次の部屋に向かった。
10層のボス部屋の前に差しかかったところで、異変が起きた。
足元の土が震えた。ゴンザが足を止め、盾を地面に叩きつけた。振動を感知する古い技だ。
「……多い」
地面が割れた。
アント型モンスターが噴き出した。壁から。天井から。床から。10体、20体、30体——数え切れない。10層の中でも最悪の遭遇パターン。巣の直上を踏んだ。
前衛が迎撃に入る。ゴンザの盾が壁になり、カイトが連撃で群れを薙ぎ払い、ヴァルトの大剣が地面ごと叩き割る。だが数が多すぎた。三人の間を縫うようにアントが後衛に殺到する。
5体。いや、8体。次から次へと湧いてくる。
ロックは剣を構えた。1体目を斬った。2体目を弾いた。3体目が横から飛びかかってきて、肩を噛まれた。痛い。振り払って突き刺した。だが4体目が来る。5体目が来る。D級の剣は2体同時が限界だった。
「メイさん——!」
「回復します!」
メイの治癒光がロックの肩を包んだ。傷が塞がる。だが回復している間にも新しいアントが押し寄せてくる。
そのとき、ロックの背後から光が走った。
「ファイアサークル」
マギステルの手の中でカードが燃え上がった。足元を中心に炎の円が広がり、後衛を囲むアントの群れを一斉に焼き払った。焦げた外骨格が砕け、灰になり、通路に焼けた甲殻の臭いが充満した。
コメント欄が爆発した。
『マギステル火力やば』
『え、このE級つよくね???』
『範囲魔法持ってたの!?』
マギステルはカードを一枚引き抜き、くるりと回した。
「なーにやってるですかもうー! こっちまで来ちゃってるじゃないですか!」
ロックは息を切らしながら振り返った。マギステルの手元にあるのは、いつものネタデッキではなかった。カードの背面の色が違う。デッキケースも違う。
「マギステルさん、それ——」
「ん? ああ、これですか。テンプレデッキです」
「テンプレ……」
「大会のときに使うやつです。つまんないんですよこれ、引いて出して殴るだけ。頭使わないんですもん」
マギステルは肩をすくめ、次のカードを引いた。「フレイムランス」。炎の槍が通路の奥で群がるアントの塊を貫通し、壁に焦げ跡を刻んだ。
そう、彼の配信を見てきたロックには分かっていた。
マギステルは1日100回以上ネタデッキを回す。あの複雑なOTKコンボを95回試行するだけの魔力量がある。その魔力で大会用のテンプレデッキを回したら——普通に強い。
E級なのは中層に行く理由がないからだ。三層のリザードマンが検証相手として最適だから三層にいるだけで、火力そのものはA級前衛と同等かそれ以上だった。
つまり、この中で一番弱いのは、D級の自分なのだ。
「あんた、ガチデッキ持ってたのか……!」カイトが驚いていた。
マギステルが振り返った。目が据わっていた。
「ガチデッキ!? 違います、これはただのテンプレデッキ! 普段のネタデッキがガチデッキなんでございますよ!」
巨大な火球がマギステルの頭上に浮かんだ。通路の先に10層のエリアボス——巨大甲虫が姿を現した。前衛三人が身構える前に、火球が落ちた。
轟音。熱波。通路が揺れた。
巨大甲虫が——一撃で沈んだ。
コメント欄が文字で埋まった。何が書いてあるかも読めないほどの速度で流れている。同接が跳ね上がっている。
マギステルは髪についた灰を払い、溜息をついた。
「はぁー、おもんないですよねー、このデッキ」
ことね妖精がペンライトを狂ったように振っていた。
マギステルが中衛に出たことで、後衛の安全は確保された。前衛はもう後ろを気にする必要がなくなった。パーティの進行速度が一気に上がった。
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12層に入った。
ここまで来ると、モンスターの質が変わる。10層の蜥蜴や11層のアントとは格が違う。装甲蟲、石化蛇、影狼——いずれもC級以上の冒険者が相手にする敵だった。
前衛は問題なく処理していた。ゴンザの盾は12層の攻撃でも微動だにしない。カイトの双短剣は弱点を正確に突き、ヴァルトの大剣は装甲ごと叩き斬る。マギステルの火力支援も加わり、進軍速度は落ちていない。
ロックは後衛で剣を構えたまま、戦場を見ていた。
自分が斬れる敵はもうほとんどいない。11層の後半から、ロックの剣は敵の装甲に弾かれることが増えていた。それでも隊列にいる意味はあった——声を出すこと、コメント欄を読むこと、6人が見落としているものを拾うこと。
そして、ロックは見つけた。
カイトの左目。
戦闘中、カイトが一瞬だけ顔を歪めた。左目に力を込めるように、まぶたを押さえるように。すぐに表情を戻して斬り込んだが、ロックは見逃さなかった。
双短剣の軌道が微かにぶれている。右からの斬り込みは正確なのに、左からの返しが僅かに浅い。コンマ数秒の遅延。カイトほどの技量の持ち主が、あんなぶれ方をするのは——
「メイさん!」
ロックが叫んだ。メイが振り向く。
「カイトにキュアを! 左目にブラインドを食らってる!」
メイの目が鋭くなった。カイトの背中を見た。戦闘中のカイトの動きを、メイの目が追う。
「——見えました。左目、視野欠損。完全ではありませんが、処置します」
メイの手から翡翠色の光が伸びた。光がカイトの左目を包み込む。カイトが一瞬動きを止め——左目を開いた。視界が戻った。
次の瞬間、カイトの動きが数倍鋭くなった。左右の斬撃が完全に対称になり、影狼の群れを紙のように切り裂いていく。
「よく見えましたね」
メイが静かに言った。
カイトが戦闘を終えて振り返った。
「え、俺ブラインド食らってたの? いつから?」
「12層の途中から。蛇の毒霧をかすってただろ」
「マジで? 全然気づかなかった。道理でちょっと調子悪いと思った」
カイトは左目をぱちぱちと瞬きさせ、それからロックを見た。
「おいおい、なんだこのチーム、いいコマンダーいるじゃないか!」
阿修羅妖精が六本腕でサムズアップしていた。
ロックは何も言わず、コメント欄に目を戻した。
『今のロックって人よく気づいたな』
『D級なのに目だけS級じゃん』
『このパーティのMVP実はこいつでは?』
ロックはコメントを読んでいなかった。次の敵の気配を探っていた。




