淡い13歳の一目惚れ
何十年経っても思い出す。
三十五歳になった今でも、ふとした瞬間に思い出すことがある。
特別な記念日でも、何か大きな出来事があった日でもない。
ただ、日曜の午前のやわらかな光や、静かな住宅街を歩くとき、理由もなく胸の奥がざわつくときに、あの十三歳の記憶が、ゆっくりと浮かび上がってくる。
もう二十年以上も前のことなのに、不思議なほど色あせない。
中学に入学してすぐ、僕は一目惚れをした。
隣の小学校から来た、平川ゆみという子だった。
少し茶色がかった髪は、当時の中学生の中では目立っていて、「染めてるんじゃないか」なんて噂されていた。
テニス部で、いつも友達に囲まれていて、笑い声の中心にいるような存在。
いわゆる一軍女子だった。
僕とは、最初から住む世界が違うように見えた。
それでも同じクラスになり、席が近くなり、係の仕事やグループ活動で言葉を交わすうちに、少しずつ距離は縮まっていった。
彼女は誰に対しても自然で、特別扱いをしなかった。
そのことが、余計に僕を勘違いさせたのだと思う。
あの頃の僕は、感情を抑えるということができなかった。
好きになったら、それだけで世界が傾いてしまう。
頭で考えるより先に、気持ちが前に出てしまう少年だった。
携帯電話は持っていなかった。
連絡先も知らない。
それでも、家は知っていた。
同じ学区で、わりと近所だったからだ。
だから僕は、よく遠回りをした。
買い物の帰り道に、わざと彼女の家の前を通る。
用事がなくても理由を作り、そこを通った。
今なら、軽いストーカーだったなと思う。
けれど当時は、そんな言葉も意識もなかった。
少しでも姿が見られたらいい。
ただ、それだけの淡い期待だった。
その延長線上に、あの日曜日の午前があった。
日曜の午前なら、きっと家にいる。
そう思って、早めに家を出た。
今日でなければならない理由なんて、どこにもなかったのに。
彼女の家の前で、何度も行ったり来たりした。
呼び鈴の位置を確かめては歩き出し、また戻る。
そして、ついに呼び鈴を押した。
玄関から、彼女が出てきた。
二人で、玄関の前に向かい合う。
沈黙。
日曜の午前の静けさが、心臓の音をやけに大きくした。
「……どうしたの?」
彼女はそう言った。
けれど、その声の時点で、もう分かっていたのだと思う。
言葉より先に、空気が答えを持っていた。
僕は、何も前置きができなかった。
「……好きです。
付き合ってください」
短くて、逃げ場のない言葉だった。
彼女は少し目を伏せ、ほんの間を置いて言った。
「……ごめんなさい」
十秒も、経っていなかったと思う。
胸が痛んだというより、急に現実に引き戻された感覚だった。
「ごめんね。急に。
……またね」
そう言って、僕はその場を離れた。
振り返らず、逃げるように帰った。
帰り道の記憶は、ほとんど残っていない。
気づいたら、自分の部屋のベッドに寝転がって、天井を見つめていた。
なぜ今日だったのか。
なぜ家まで行ったのか。
なぜ、あんな言い方しかできなかったのか。
後悔だけが、静かに積もっていった。
告白のあとも、彼女は変わらなかった。
学校では、これまで通りに優しかった。
何もなかったかのように、普通に接してくれた。
同じ班になったこともある。
恋愛の話題になり、告白は自分からする派か、しない派か、そんな話になった。
そのとき、彼女は僕を見て言った。
「○○なら、自分から告白できるよね」
からかう調子ではなかった。
本心で言っているように聞こえた。
それがまた、僕を勘違いさせた。
振ったくせに、そんなこと言ってくるなよ。
心の中で、そう呟いた。
よく、そこまで覚えているものだと思う。
声の調子も、教室の空気も、今でも思い出せる。
三十五歳になった今でも、気持ちを抑えられない瞬間がある。
形は変わったけれど、本質はあまり変わっていない。
理屈より先に、心が動いてしまう。
止めたほうがいいと分かっていても、止まれない。
そんなとき、二十年以上も前の告白を思い出す。
日曜の午前の静けさ。
玄関前の沈黙。
「ごめんなさい」という一言。
あれは、恋が終わった記憶ではない。
自分の弱さを、初めて知った記憶なのだと思う。
今でも、胸の奥で、十三歳の僕は静かに立ち尽くしている。
そしてたぶん、この先も、完全に消えることはない。
きっとこれからも忘れないだろう。




