エピローグ
満開の桜が淡く発光し、風に揺れるたび光の粒子が舞い上がる――。
神木のふもとを歩きながら、ギディオン――音也はふと足を止めた。
かつての激闘が嘘のように、風は優しく、若葉の香りを運んでくる。
(……そういえば)
一瞬、自分の中に眠っていた「もうひとつの魂」の存在を思った。
この世界にもともと存在していた「元のギディオン」の魂。彼が自分を導き、指輪を託し、最後には音也の魂と完全に溶け合ったような、あの不思議な感覚。だが今は、その気配が自分の中から消えていることに気づく。
役割を終え、彼は新しい場所へ還っていったのだと感じた、その時だった。
隣で神木を見上げていたフルールの体温が、掌を通じて伝わってくる。いつもよりわずかに高い。そして、彼女の奥底から、トク、トクと確かな「別の拍動」が響いてくるのに気づく。
「……!」
ギディオンは吸い寄せられるように、愛おしげに彼女のお腹へ掌を滑らせた。
『……いずれ分かる日が来るよ』
あの時、少年が別れ際に告げた言葉が、すとんと胸に落ちた。
「あぁ……“そこ”に、いるのか」
(俺の中に宿っていたあいつは、ここに繋がっていたのか……)
その言葉が
二人の脳裏に、今はもう遠い記憶となった「孫」の声を鮮やかに蘇らせる。
『じいちゃん! ばあちゃん! 見て! このゲーム、召喚獣が超かっこいいんだ!』
眩しいリビング。隣で笑っていた夫と、夢中でテレビ画面を見つめる孫の姿。
『レベルがなかなか上がらないよー! 助けてじいちゃん!』
『いい、ばあちゃん? このゲームさ、主人公がレベル100になって裏ボスになると、聖獣化して暴走しちゃうんだ。勇者を殺すとバッドエンド。ハッピーエンドにするには、指輪を抜いて、勇者の指にはめなきゃダメなんだからね!』
(……ああ、そうだった。今思い出した……)
――場面は、静かな現実の葬儀場へ。
棺の中で、私は穏やかな眠りについていた。そこへ、一人の青年になった孫がそっと歩み寄り、一冊の本を私の手の中に差し入れる。
「ばぁちゃん。ばぁちゃんと一緒にやってたあのゲームさ、小説化されたんだ。天国でじぃちゃんと一緒に読んでくれな」
その本が手の中に置かれた感触を、魂のどこかで受け取った気がした。
私たちの歩んできた時間が、ひとつの物語として現実の世界にも刻まれた証。
(届いたわよ。……じいちゃんと一緒に、ゆっくり読ませてもらうわね)
意識が、黄金色に輝くルミナリアの空へと戻っていく。
目の前には、愛おしそうに私を見つめる、若き日の夫と同じ魂を持つギディオン。
「えっ……? ギディ、どうしたの? 泣いてるの?」
私が顔を覗き込むと、彼は穏やかな笑みを浮かべて、私の手を強く握りしめた。
「いや……懐かしい声を聞いた気がしてな。……愛している、フルール」
「ええ……私もよ。愛しているわ」
(神木の桜を見上げながら、ギディオンは静かに目を伏せる)
「……ジャッカル。一歩間違えたら、俺もあいつのようになっていたかもしれないな」
ふと漏れた呟きは、風にさらわれて消えていく。
愛する人を突然失う苦しみ。その絶望がどれほど人を狂わせるか、今のギディオンには痛いほど理解できた。もしフルールが自分の前から消えていたら。もし彼女を救えなかったら。
誰にだって、道を踏み外してしまう可能性はある。
闇は常に、愛のすぐ隣に潜んでいるのだ。
「それでも……踏み外してはいけない。人であるかぎり、俺たちはこの光の中で生きていかねばならないんだ」
それが、遺された者の責任であり、彼女に愛された「人」としての誇りだから。
神木の桜がさらさらと祝福の音を鳴らす。
前世で「桜」と呼ばれた彼女が、今、桜の神木に見守られながら新しい命を育んでいる。
孫が届けてくれた小説と、私たちがこの世界で刻んでいく真実。二つの世界が重なり、物語は永遠の幸福へと続いていく。
金色の粒子が降り注ぐ中、私たちは新しい命と共に、輝く未来へ歩き出した。
それは、誰かに与えられた運命ではなく、
私たちが何度も選び続けた、たったひとつの物語だった。




