第2章 16
「……ルル……!」
漆黒の業火がギディオンの頬をかすめる。巨大な黒いフェニックスと化したフルールの眼光は鋭く、その殺意は一点の曇りもなくギディオンへと向けられていた。
ギディオンは、彼女が自分だけを執拗に狙っていることに気づく。
「ルーカス! アニエスはお前が救え!」
叫びながら、ギディオンは崩落した天井の隙間から地上へと跳んだ。黒いフェニックスが咆哮を上げ、黒い炎を撒き散らしながらその後を追う。
「ですが、ギディオン様! フルール様が……!」
「ジャッカルに馬鹿にされたまま、終わらせてたまるか! ルルは……フルールは、俺が必ず連れ戻す!!」
空へと消えていく二つの影を見送り、ルーカスは倒れ伏したアニエスのもとへ駆け寄った。その脈は弱く、今にも消えてしまいそうなほど細い。
『この指輪はこの娘の命と魂が完全に溶け合っているもの。この子が死なない限りね』
かつて絶望に染まった精霊がアニエスの体を乗っ取って発した、不吉な言葉。それが呪いのように耳の奥で鳴り響き、ルーカスの心を締め付ける。
「アニエス! 目を覚ましてくれ、アニエス!!」
ルーカスは彼女の体を抱きかかえ、祈るように何度も、何度もその名を呼び続けた。
――声が……聞こえる。
悲しい声が。
アニエスは、深い意識の底でその声を聞いていた。
思い出せるのは、耳を刺すような精霊たちの悲鳴ばかり。
いつもそうしていたように、誰かのために祈った。誰かを救いたいと思った。けれど、私には何も救えなかった。
そう……私は弱かったから。
『君は弱くなんかない!』
違う。私は、弱い。
『僕は、あの時……君が、誰よりも強くあろうとしていた姿を知っている!』
それは、断罪の場。周囲の好奇の目に晒されながらも、必死に自分を保とうとしていたあの姿。
『信じて』
あの時言われた言葉と同じ言葉。
アニエスは震える手でピアスにそっと触れた。
私が番だから。私自身は選ばれない。
ずっと信じるのが怖かった。
この人を信じて裏切られたら、
もう立ち上がれない気がした。
『僕は、君の少し困ったように眉を下げる癖も、誰かのために真っ直ぐ祈るその指先も、不器用だけど温かい言葉も……そのすべてが愛おしいんだ!』
意識の深淵に、ルーカスの言葉が沁み込んでいく。
公爵家で虐げられ、王家からも蔑まれ続けた、出口のない絶望の毎日。どこにも居場所なんてなかった。
そんな光のない日々から、私を連れ出してくれた人。彼が差し出してくれた、驚くほど温かな手のひら。
ほんの少しの期間だったけれど、共に過ごした日々の中で、私は、もっとあなたのことが知りたいと思った。
『君が"番"だからじゃない。アニエス。君という一人の女性を、僕は好きになったんだ!』
ルーカスの瞳から零れた涙が、アニエスの頬を濡らす。
同時に、アニエスの閉じた目からも、一筋の涙が零れ落ちた。それはルーカスの温かな涙と混ざり合い、血の気の失せた彼女の白い頬を静かに濡らしていった。
「……っ!」
その雫を見た瞬間、ルーカスは息を呑み、ハッとして顔を上げた。
「お願いだ。戻ってきて」
祈るような呟きと共に、ルーカスはアニエスの唇に自分のそれを重ねた。
(……私も。私も、あなたを愛していたのね)
(私は生きたい……あなたをもっと知りたい。あなたと、もっと一緒にいたい……!)
魂が叫びを上げたその時。
どこからか、柔らかな、懐かしい女性の声が響いた。
『あぁ、アニエス。やっと運命を見つけたのね』
(おかあさ……?)
アニエスがそう思った瞬間、ルーカスが彼女に贈ったピアスが、夜明けの太陽のように強く、眩しく輝き始めた。
「……っ、ルー……カスさま……?」
長く、絶望的な眠りから、アニエスが真実の目を開けた。




