第2章 13
宿の廊下に、ミーナの悲鳴が響き渡った。
「あ、あああ……! ルーカス様、その脚! 血が……!」
床を赤く染める凄惨な傷跡を見て、ミーナは腰を抜かしながらも叫ぶ。
「すぐに手当てを! 医者を呼びます!」
「時間が無い……!」
「そんな状態で戦えるわけありません! 応急処置だけでも、せめて止血だけでもさせてください!!」
ミーナの必死の形相に押され、ルーカスは苦渋の表情で足を止める。数分、布をきつく巻き付けるだけの最低限の処置を終えると、彼は一度も振り返らずに夜の闇へと飛び出していった。
その背に、震える声がかけられる。
「どうか……どうか神木の御加護がありますように……」
乳母が祈るように胸の前で手を握る。その腕の中では、何も知らない赤子のフィオリーナが、静かに安らかな寝息を立てていた。
一方、市街地は地獄と化していた。
「倒しても倒しても出てくる! 傷は治せても、疲労までは消せないわ……どうしたら!」
フルールの肩が激しく上下する。召喚獣の酷使で、彼女の精神は削り取られようとしていた。そこへ、魔物の返り血を浴びたギディオンが駆け寄る。
「ルル! アニエスが……アニエスがジャッカルの手に堕ちた!」
「なんですって!? ……っ、詳しく聞く暇もなさそうね!」
「ルーカスがいる……あいつを信じるしかない。俺たちはここを食い止めるぞ!」
その戦場を、街の時計塔の上から見下ろす影があった。
「ふふ、そろそろ『大物』を投入しましょうか」
アニエスを乗っ取った精霊が、愉悦に満ちた声で呟く。
直後、地響きと共にフルールたちの目の前に巨大な異形の魔物が姿を現した。
「アニエス!!! 目を覚ませ!」
血を流しながら追いついたルーカスが、風魔法を展開する。不可視の鎖が「アニエス」の手足を地面に縛り付けた。
「ぐっ……お前、私の眠りの術を解いたのか……!」
「アニエス……今、指輪を抜いてやる!」
ルーカスは彼女の細い指に光る、忌々しい銀の指輪を掴み、力任せに引き抜こうとした。だが。
「ふふふ……無駄よ。この指輪は抜けない。この娘の命と魂が完全に溶け合っているもの。……この子が死なない限り、ね」
「……っ!」
衝撃の事実にルーカスの手に迷いが生じた。その隙を逃さず、禍々しいオーラが風の拘束を爆砕する。
「まて!」
ルーカスは再び手を伸ばすが、彼女は嘲笑うように魔物の群れの中へと飛び込んだ。怪我を負った脚では、瞬く間に彼女の姿を見失ってしまう。
その頃、フルールは限界を超えていた。
「はあぁぁぁっ!!」
光の奔流が『大物』を内側から焼き尽くす。
崩れ落ちる巨体と同時に、フルールの頭の中でシステム音が冷酷に鳴り響いた。
『レベルがアップしました:86、87、88、89……90』
『新しい召喚獣が呼べるようになりました』
あと、10。
目標まで、あとわずか。
だが、疲労が蓄積しすぎた。ギディオンは中型の魔物三匹に囲まれ、孤立している。小物の群れは数え切れず、騎士団の防衛線も崩壊寸前。フルールもまた、蓄積した疲労で視界が激しく霞んでいた。
「フルール様……!」
遠くでギディオンが叫ぶ声が聞こえる。膝をつき、意識が遠のきかけたその時。
「ア、アニエス……?」
フルールの目の前に、一人の少女が立っていた。
「助けに来ました!」
「助け……? だって、あなた、ジャッカルの……」
「ルーカス様が、私を元に戻してくれたんです。さあ、フルール様、こちらへ!」
差し伸べられた手。正常な判断力を失っていたフルールは、その手を強く握り返した。
「そう……なの。良かった……。」
安心感から、フルールの意識は途絶えた。
もし、彼女にまだ思考する余裕があれば、気づけたはずだ。
アニエスが通ってきた道には、一匹の魔物も襲いかかってこなかったことに。
「ルル!!!!!!!!!」
ギディオンの絶叫が夜空に虚しく響く。
アニエスに抱えられたフルールの姿は、霧が巻くように、その場からかき消えてしまった。




