第2章 10
市場での夜を境に、魔物の出現頻度は跳ね上がった。
発生源の特定が進まぬまま、フルールたちは昼夜を問わず戦いの中にいた。
「はぁ……っ、はぁ……っ! ステータス……オープン……」
フルールは肩で息をつき、空中に浮かぶウィンドウを見つめた。そこには、連戦の果てに跳ね上がった数字が刻まれている。
【Lv:75】
(レベルアップの頻度が早すぎて怖いくらいね)
一方で、アステリア王家の権威は失墜の一途を辿っていた。
隣国へ支援を請うも、かつての悪評が災いし、協力する国はどこにもない。窮した王家は解体寸前の騎士団を再編成して体裁を整えようとするが、国民の不信感は限界に達していた。
「精霊の乙女を疎かにしたから、精霊様が怒っておられるのだ!」
人々の批判に晒された王太子は、保身のために卑劣な噂を流し始めた。
「魔物を呼んでいるのはアニエスだ! あの女が不吉な呪いを持ち込んだのだ!」
公爵家もそれに同調し、「あれはもう娘でも何でもない、縁は切った」とすべての責任を彼女に擦り付けようと躍起になっていた。
宿の一室で、ルーカスが険しい表情で報告を終える。
「……アニエスは、しばらく宿から出ない方が良さそうだね。王家が何を仕掛けてくるか分からない。
あのクソ王子…」
その言葉に、アニエスは小さく肩を震わせた。
震える彼女を庇うように、ギディオンが静かに、だが冷徹な声で告げる。
「公爵家の悪事、虐待。そして王家による国庫の横領……証拠はすべて揃った。……そろそろ、『廃位』といこうか。連中には、積み上げた罪の重さをその身で知ってもらう」
その日、ギディオンの合図と共に事態は急変した。
王族や王子、そしてアニエスの罪を捏造した伯爵令嬢。彼らに加担していた者たちは、ルミナリア帝国の圧倒的な力と、使い捨てにされることを悟った自国騎士たちの協力によって、次々と牢獄へ繋がれた。
「これで、少しは動きやすくなるな」
本来なら、自分を苦しめた者たちが裁かれる喜ばしい場面。
だが、報告を聞いたアニエスの顔からは、血の気が引いていた。
「アニエス!? どうしたの、顔が真っ青だよ!」
「い、いえ……気にしないで、ください……」
「気にしないわけないでしょ!」
ルーカスは迷わず彼女を抱き上げ、寝室のベッドへと運んだ。
「アニエス、何がそんなに不安なんだい? 僕には話せない?」
優しく問いかけるルーカスに、アニエスは震える声でこぼした。
「……居場所が、なくなってしまったわ」
「え?」
「私には、あの場所しかなかったの。屋根裏でも、冷たくされても……あそこだけが、私の世界だったから……」
一雫の涙が、彼女の白い頬を濡らす。
「小さい頃から、私には価値がないと言われ続けて……。だから、せめて皆さんに望まれる私でいなければと……。でも、もう、帰る場所も、期待に応える術もないの……」
「アニエス!」
溢れ出した涙を止めるように、ルーカスが彼女を強く抱きしめた。
「大丈夫だ! 君の居場所は、ここにある! 僕が君の居場所を作る!!」
「……同情、なら……」
「同情なんかじゃない! 君は、僕の『番』なんだ!」
「つ……がい……?」
アニエスの脳裏に、王子妃教育で学んだ知識が蘇る。ルミナリア帝国に伝わる、魂で結ばれた唯一のパートナー。
「私が、ルーカス様の番……?」
「そう。だから、ルミナリア帝国に一緒に来てくれるかい?」
ルーカスの真っ直ぐな瞳。
だが、アニエスは視線を落とし、静かに首を振った。
魔物の発生、精霊が見えなくなってしまったこと……解決していないことがまだある。私を心配してくれた街の人たちがいる。この国はまだ、完全に腐りきってはいない。
「私は……できることなら、アステリアに、かつての平和を取り戻したいんです」
――その、アニエスの健気な「善意」を、呪いの熱がドロリと飲み込んだ。
首元の指輪が、彼女の心臓に直接語りかけるように拍動する。
『そうだ、お前はまだやらなければならないことがある』
(……そうだわ。まだ、やらなければいけないことがある)
それは、彼女自身の意志ではない。
指輪に宿る「何か」が、絶望の縁にいる彼女の意識を操り、破滅へと誘う甘い囁き。
虚ろな瞳のまま、アニエスは服の上からそっと指輪を撫でた。
「……アニエス?」
不意に名を呼ばれ、アニエスは心臓が跳ね上がるのを感じてハッとした。
いつの間にか彼女の手を握っていたルーカスが、心配そうに顔を覗き込んでいる。
「ルーカス、様……」
「……分かったよ。君の気持ちは、僕が一番よく分かっているつもりだ。僕も、君のその真っ直ぐな願いを支えたい。……一緒に、この国にかつての平和を取り戻そう」
ルーカスは彼女の手を優しく包み込み、温かな微笑みを向けた。
牢獄へ繋がれた者たちの報告が終わり、宿の一角でギディオンはフルールを呼び止めた。その瞳には、かつてないほど濃い懸念が宿っている。
「ルル、君はこれ以上戦闘に参加するな」
「え!? なんで!? 今も街の外には魔物が溢れているのよ!」
フルールは驚き、詰め寄った。だが、ギディオンは彼女の肩を強く掴み、その視線を逃さない。
「……嫌な予感がしてるんだ。ずっと、だ」
「嫌な予感……?」
「そのレベルアップとやらは、本当に体に影響はないものなのか? 目に見える異変はないが……あまりに急激すぎる」
「だ、大丈夫よ! ほら、この通りなんともないし、召喚獣が強くなってるだけで私自身はたいして強くなってないわ! それに、魔物は増えて大型も多くなった。ゼファーたちの助けがなければ、今のアステリアの騎士団だけじゃ無理よ!」
フルールは力強く答えた。自分自身にはまだ余裕があるし、戦える。むしろ、みんなを守るために自分が頑張らなければという使命感に燃えていた。
「くそっ……。分かってはいるんだが、心配なんだ……」
ギディオンは苦渋に満ちた表情で、フルールを力強く抱き寄せた。そのまま、彼女の唇に熱いキスを落とす。それは、愛おしさと、自分でも正体の掴めない不安を押し込めるような口づけだった。
「ギディ……何か異変がありそうなら、すぐに言うから。約束するわ。だから、お願い」
「……わかった」
ギディオンはフルールの額に自分の額を預け、震える声で答えた。
その二人のやり取りを、アニエスは寝室の影から虚ろな瞳で見つめていた。
(……フルール様は、あんなに命を懸けて戦ってくださっている。それに比べて、私は……。ただ守られているだけで、何もできていない)
不甲斐なさと、自分を救ってくれた人たちへの歪んだ献身。
その心の隙間に、指輪から発せられるドロリとした意識が入り込む。
『お前は無価値なガラクタではない。その石には力が宿っている……。これこそが、彼女を救い、国を救う唯一の手段なのだ』
(そうだわ……私にしかできないことが、まだある。この『精霊の守り』があれば、私が皆さんの代わりに……)
アニエスの意識は、もはや指輪がささやく「偽りの救済」に支配されていた。
彼女はそっと指輪を握りしめ、闇に溶けるように寝室へと戻っていった。




