第2章 8
公爵邸の重々しい扉を叩いたのは、不気味な魔力を纏った男、ジャッカルだった。
「こ、これは支援者様! 今日はどのようなご用件で」
揉み手をして現れたアステリア公爵に、ジャッカルは冷淡に問う。
「アニエスはいるか」
「は、アニエスですか? さきほどルミナリア帝国の人間が、案内役の侍女にと言って連れて行きましたよ」
「なんだと!」
ジャッカルの瞳に険しい色が浮かび、周囲の空気が凍り付くような殺気が放たれる。
「ひぃっ!? な、なにか不都合なことでもございましたでしょうか……!?」
公爵は情けなく腰を抜かし、ガタガタと震えながらジャッカルを見上げた。ジャッカルはそんな公爵を蔑むように見下ろすと、鼻で笑った。
「チッ……気づくのが早かったな、あの忌々しい馬め。……まあいい。あの『指輪』がある」
ジャッカルは口角を歪めた。
街へ出ると、アニエスは目まぐるしい時間に放り込まれた。
次から次へと運び込まれるドレス、煌びやかなアクセサリー、羽のついた可愛らしい帽子。
「これ……まさか、全部……フルール様のもあったりするのでしょうか?」
「え? 全部君のだけど」
ルーカスは当然のように言い切った。
「たくさん食べてサイズが合わなくなったら、また新しく買うから安心していいよ!」
アニエスの顔がサーっと青くなる。
「い、頂けません! 私はただの侍女として、報酬を頂ければ……!」
「僕がしてあげたいんだ。……ダメかな?」
少し困ったように眉を下げるルーカスに、アニエスは言葉を詰まらせる。
(うっ……この方はきっと、私に同情してくださっているだけ。勘違いしてはダメよ……!)
買った大量の荷物を馬車に預け、ルーカスは御者に「別棟までよろしく」と行き先を告げた。身軽になった二人は、賑やかな街道を歩き出す。
「あ、アニエス様は……」
「アニエス、で大丈夫です。公爵令嬢といっても、名前だけの存在ですから……」
「そう? じゃあアニエス。君は甘いものは好きかい?」
(甘いもの……。お母様がまだ生きていた頃、一度だけ食べたことがあった気がする……)
アニエスは遠い記憶を辿るように、視線を落とした。
「好き……かどうかは分かりません。あまり食べたことがないので。ただ、教育で習った特産品としての名前なら分かりますが……」
「よし、ならそれを食べに行こう!」
迷いのない力強さで手を引かれ、連れて行かれたのは花々に囲まれた可愛らしいカフェだった。
店内に足を踏み入れた瞬間、女性客たちの視線がルーカスに釘付けになる。
ギディオンが放つ、野性味溢れる男らしい威圧感とはまた違う――彫刻のように繊細で、都会的な気品を纏った彼の美しさは、この華やかなカフェの空気に見事なまでに溶け込んでいた。
だが、ルーカスは向けられる羨望の眼差しには微塵も興味がない様子で、慣れた手つきで次々と注文を済ませていく。
そんな彼の完璧なエスコートを受ければ受けるほど、アニエスは自分が酷く場違いな存在のように思えてならなかった。手入れもされていない短い髪に、付け焼き刃のドレス。隣に並んでいることへの申し訳なさに、彼女はただ俯くことしかできなかった。
やがて運ばれてきたのは、見たこともない宝石のようなケーキ。そして、海のような深い青色をした水に、色とりどりのフルーツが添えられた不思議な飲み物。
(……綺麗。書物で読んだだけでは、これほどまでに鮮やかなものだとは想像もできなかった。実際に見るのとでは、これほどまでに違うのね……)
王妃教育として知識だけは詰め込まれてきたアニエスだったが、それはすべて「義務」であり、心躍る「体験」ではなかった。
「ほらほら、食べてみて!」
促されるままに一口、ケーキを口に運ぶ。
口いっぱいに広がる優しい甘さと香りに、アニエスの瞳が大きく見開かれた。
「お……いしいです……!」
母が亡くなってから、厳しい教育と虐げられる毎日。いつしか感情を出すことを忘れていたアニエスだったが、ルーカスと一緒にいると、自分が自分でなくなっていくような感覚に陥る。
いや、これが本当の自分だったのかと、初めて知る自分の心に驚いていた。
「よかった!」
そう言って、太陽のように眩しく笑うルーカス。
(……胸が痛い。ずっと、この時間―夢―が続けばいいのに…でもきっとすぐに冷める。……だって私は、誰からも愛されない。愛し方さえ、知らないのだから……)
その時、握りしめた指輪から、ドロリとした不気味な声が頭の中に直接流れ込んできた。
『――そうだ。お前は愛されない』
「……っ!?」
心臓が跳ねた。自分の思考なのか、それとも外からの声なのか判別がつかないほど、その声はアニエスの心の隙間に深く入り込んできた。
『よく見るがいい。目の前の男が向けているのは、ただの「同情」だ。お前という「無価値な小鳥」を憐れんでいるに過ぎない』
(そうよ……私は……)
アニエスの瞳から一瞬光が消えた。
その瞬間――。
平和な街の空気を切り裂くような、獣の咆哮が響き渡った。
「……っ! アニエス、離れないで!」
ルーカスの表情が、一瞬にして騎士のそれに変わる。
逃げ惑う人々。その向こうから、どす黒い霧を纏った魔物が、アニエスを目指すように姿を現した。
路地の向こうからギディオンとフルールが駆けつける。
「ルーカス! また魔物だ!」
「ギディオン様、フルール様も!」
ギディオンは大剣を、ルーカスは細剣を抜く。フルールはと言えば、魔物の姿を見るなり「あら、いい経験値が来たわね!」と目を輝かせていた。
「くっ、なぜまたこんな街中に魔物が現れる!
何かきっかけがあるのか?」
ギディオンの問いに、ルーカスはアニエスを背に庇いながら答える。
「さっぱり分かりませんね。出現に規則性が見当たらない……」
「これから探っていくしかないか。フルール、やるぞ!」
ギディオンの一撃が魔物を引き裂き、フルールの召喚獣がトドメを刺した。魔物がまた霧となって消えていく中、フルールは小さく「ステータス・オープン」と呟く。
目の前に現れた半透明の画面。
【Lv 57】
「ふぅ、ごちそうさま。順調ね」
満足げなフルールに対し、ギディオンの表情は険しい。周囲を見渡しても、アステリアの騎士団が駆けつける気配が微塵もなかったからだ。
「……王家は何をしている? まさか我々に丸投げするつもりか。ルーカス、城へ向かうぞ。王に直接話を聞く」
アステリア城、謁見の間。
ギディオンたちが足を踏み入れると、そこには狼狽した様子の王と貴族たちが集まっていた。
「あなたたちは、魔物を放置して何をやっている?」
ギディオンの低い声が広間に響く。
「い、いや! 今まさに対策を立てているところだ! この国のことに口を出すな!」
「その他国に助けてもらっておいて、お礼も言えないとは。アステリアの礼節はその程度ですか」
「ぐっ……た、助かった。それは認める」
王は苦々しく顔を歪めたが、ギディオンは追及を止めない。
「そもそも魔物が現れた原因は、貴国が精霊を疎かにし、加護を失ったことにあるのではないか?」
「ち、ちがう! 精霊なんてもう神話だ! 物語の中の話だろう!」
王は顔を真っ赤にして否定し、あろうことかギディオンを指差した。
「貴国が来てからだ! 魔物を持ちこ……」
その瞬間、ギディオンの鋭い眼光が射殺さんばかりに王を捉えた。空気が凍りつき、あまりの圧に王の言葉が喉に張り付く。
「……っ、い、いや。失言であった。我々も対策を考える故、しばし協力を願いたい」
王は力なく椅子に沈み込んだ。




