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ルミナリア王国 王城。
白亜の回廊に、ため息が落ちた。
「ギディオン殿下ぁ……♡」
甘ったるい声が背後から迫る。
振り返るまでもなく分かる。
まただ。
「殿下、わたくし黒髪に染めましたの。運命の番は黒髪黒目だと噂で――」
「……下がれ」
低く告げるだけで、空気が凍る。
女はびくりと震えながらも、必死に笑顔を貼りつけた。
「で、でも殿下、わたくしの髪をご覧になって――」
「染めた髪などには興味が無い。瞳も青だろう」
一言で切り捨てる。
女の顔が引きつった。
「私と同じ、"天然の"黒髪黒目だと言ったはずだ」
王城ではすでに広まっていた。
王太子ギディオンは
黒髪黒目の女性にしか興味を示さないと。
その噂を信じ、染めて現れる貴族令嬢たち。
だが、瞳の色までは変えられない。
「偽物の番候補」と陰で呼ばれる理由だった。
回廊の影で、兵士たちがひそひそと囁く。
「また撃退されたぞ……」
「近寄っただけで凍る目だったな」
「笑わないし、女を寄せ付けないし……」
「漆黒の闇王子、だな」
いつの間にかそんな異名まで付けられていた。
ギディオン自身は知る由もない。
「……くだらん」
呟きながら歩く。
胸の奥に、言葉にできない違和感があった。
なぜ黒髪黒目に惹かれるのか。
なぜそれが「正しい」と感じるのか。
理由は分からない。
ただ、そうでなければならない気がしてならなかった。
夜。
夜の静寂に、微かな温もりが滲む。
闇の中に、ふわりと光が差した。
それは夕暮れ色の台所だった。
窓から差し込む柔らかな光に、湯気がゆらゆらと揺れている。
鉄鍋の中で、何かが優しく音を立てて煮えていた。
香草と肉の香りが、胸いっぱいに広がる。
懐かしくて、切なくて――
なぜか涙が出そうになる匂い。
「お腹、空いたでしょう?」
振り向く。
そこに立っているのは、黒髪黒目の女性。
腰まで伸びた髪が光を受けて揺れ、穏やかな笑みが向けられている。
湯気越しに見るその姿は、現実よりも柔らかく、どこか儚い。
「もうすぐできるわ」
包丁がまな板に触れる音。
鍋をかき混ぜる音。
それらすべてが、心を満たしていく。
ギディオンは理由もなく、その場に立ち尽くしていた。
胸が、苦しいほど温かい。
抱きしめたい。
守りたい。
二度と離したくない。
言葉にできない想いが溢れる。
だが――
名前を呼ぼうとした瞬間、
景色が霧のように崩れていく。
「待ってくれ……!」
声は届かない。
光が消え、香りだけが残り――
目を開けると、冷たい夜だった。
心臓が早鐘を打っている。
胸の奥に、失った何かの痛みだけが残っていた。
「……またか」
誰だったのか。
なぜあれほど愛おしかったのか。
思い出せない。
ただ一つだけ確かなのは――
あの温もりを、失いたくないという想いだった。
翌日。
騎士団副団長が並んで歩く。
銀髪を揺らし、爽やかな笑みを浮かべた男。
「団長、また番候補に囲まれてましたねぇ」
「……忘れろ」
「無理ですよ。今日だけで三人ですよ?」
軽快に笑う。
「そろそろ王城の名物になりますって。“漆黒の闇王子”」
「ふざけるな、ルーカス」
副団長――
ルーカス・グレイウルフ。
ホワイトウルフ(狼)の末裔で、ギディオンに次ぐ実力者。性格はさっぱりしていて遠慮がない。
「今日は魔の森の見回りでしたよね」
「ああ。週に一度のな」
「最近魔物の数も増えてますしねぇ」
ギディオンの視線が鋭くなる。
「国が弱っている証拠だ」
「……だからこそ、殿下の番探しが急がれてる、と」
沈黙が落ちた。
「団長」
ルーカスがふっと笑う。
「そのうち、本物が現れますよ」
「……そうだといいがな」
こうして二人は、静まり返った魔の森へと向かっていった。
その森の奥で、
ひとりの少女が結界の中で焚き火を囲んでいることも知らずに――。




