第2章 1
血の匂いが、部屋に満ちていた。
か細い産声だけが、その静寂を切り裂く。
「……生きている。娘は、生きているぞ」
震える手で抱き上げた小さな命は、確かに温かかった。
だが、その隣で横たわる女の身体は、もう二度と動かない。
「……なぜだ」
ジャッカルは、ゆっくりと彼女の頬に触れた。
まだ温もりが残っているのに、魂だけが抜け落ちている。
「番は……魂で結ばれ、必ず共に生きるのではなかったのか……」
神木が定めた運命。
番は奇跡。
番は祝福。
帝国はそう教えてきた。
――なのに。
「なぜお前だけが奪われる……!」
喉が裂けるほど叫んでも、答えはない。
響くのは赤子の泣き声だけだった。
その日から、ジャッカルの世界は変わった。
街では番を見つけた恋人たちが祝福され、
神木の加護を受けた夫婦は豊かに暮らしている。
誰もが幸せそうに笑っていた。
まるで――
失われた者など、最初から存在しなかったかのように。
夜。
神木を遠くに望む丘で、ジャッカルは一人立っていた。
腕の中には眠る娘。
「……俺の番は死んだのに」
風が枝を揺らし、桜の神木が淡く光る。
世界が正しく動いている証のように。
その光が、ひどく憎らしかった。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
それから彼は、帝国のすべてを調べ上げた。
番とは何か。
魂とは何か。
転生とは何か。
帝国に生まれた者は皆、幼い頃から同じ物語を聞いて育つ。
神木は命の源。
魂は神木へ還り、やがて新たな命としてこの世に巡る。
出会いも、別れも、愛も死も
――すべては神木の導き。
番とは、その中でもっとも尊い奇跡。
前世から結ばれた魂が再び巡り会う、神木からの祝福。
だから人々は神木を疑わない。
祈り、感謝し、運命を受け入れる。
それがどれほど残酷な管理であっても、
誰一人として疑問を持つことはなかった。
そして知った。
この世界は、神木によって管理されていることを。
人の出会いも、別れも、
愛も、死も、再生さえも――
すべては神木が決めている。
『番』ですらも。
「……はは……そうか」
乾いた笑いが漏れた。
「俺の『番』だった人間も、また生まれ変わるのか」
死は終わりではない。
魂は巡り、再びこの世界へ戻る。
それを祝福だと、帝国は言う。
だが、ジャッカルには残酷でしかなかった。
「愛していた」
拳を握りしめる。
「だが俺を置いて逝った」
胸の奥が焼けるように痛む。
「……苦しいんだ」
それでも世界は続く。
何事もなかったかのように番は結ばれ、祝福される。
「番で成り立つ帝国なぞ――滅んでしまえ」
その瞬間、胸の奥で何かが音を立てて壊れた。
愛していた世界が、憎しみに塗り替わる音だった。
歪んだ声が闇に溶けた。
┈┈┈┈┈┈┈┈┈┈
夜の神木は、昼とはまるで別の顔をしていた。
満開の桜が淡く発光し、風に揺れるたび光の粒子が舞い上がる。
世界は救われた――
誰もがそう信じている。
だが、その結界の外に立つ男だけは違った。
ジャッカル。
神木を包む強固な光の壁に指先を伸ばすが、触れることすら叶わない。
「……完全に戻ったか」
その瞬間、胸の奥がぞわりと震えた。
魔力ではない。
もっと深く、もっと重い――魂の波動。
結界の向こう、桜の幹の中心から、
“何か”が確かに息づいている。
生きてもいない。
だが、死んでもいない。
「……封じられているな」
歪んだ笑みが浮かぶ。
弱っていた頃には感じ取れなかった気配。
完全に蘇った今だからこそ暴かれた真実。
「はは……そういうことか」
脳裏に浮かぶ王太子ギディオン。
その隣に立つフルール。
「この中に眠っているのが……本来の番か」
結界に阻まれ、桜に触れることはできない。
「転生も許さず、生かしもせず……
ただ正しい魂だけを保存するとはな」
乾いた笑いが漏れた。
「じゃあフルールは何だ?」
世界の歪みを埋めるために作られた存在。
調整のための代替品。
この世界に存在してはならなかった魂。
「愛を奪い、自由を奪い、魂まで管理する世界か」
神木は祝福などではない。
ただの檻だ。
ただの支配装置だ。
「ならば壊してやろう」
神木を。
番という制度を。
魂を縛るこの世界そのものを。
唇が歪む。
「――全部、終わらせてやる」
狂気と絶望が混じった瞳が、桜の神木を睨みつける。
淡く舞う光は、もはや祝福ではなかった。
それは――崩壊の前兆だった。




