番外編 1
神木が本来の色を取り戻し、帝国の魔物が消え去ってから数日が経った。
魔力の汚染が引いた大地には、絶滅していたはずの動物や、瑞々しい野菜、果実が芽吹き始め、帝国にはかつての活気が戻りつつある。
「魔物食も工夫次第で美味しかったけれど……やっぱり、真っ当な食材は扱いやすくていいわね」
フルールは今、王太子妃の私室となる専用キッチンに立っていた。
まだ十六歳。王からは「婚礼は十八になってからだ」と厳命され、二年間は婚約者として過ごすことになったが、生活は実質的に妃そのものである。
今日の献立は、荷物の中に眠っていた「例のブツ」だ。
「よし、炊けたわ」
土鍋の蓋を開けると、ツヤツヤと輝く白い米が顔を出す。隣では、大豆を使った味噌汁が、懐かしくも香ばしい湯気を立てていた。
「ルル、いい匂いだ。……あの日、神木の中で感じた安らぎが、この香りには詰まっている気がする」
背後から伸びてきた逞しい腕が、フルールの腰をがっしりと抱き寄せた。黄金の髪を取り戻したギディオンだ。彼はフルールの首筋に顔を埋め、ふんふんと鼻を鳴らして、甘えるように何度も顔を擦りつけてくる。ユニコーンの末裔である彼にとって、これは最大級の親愛の情なのだろう。
(……くすぐったいけど、不思議と嫌じゃないわね)
あの日以来、前世の記憶は霧の向こうへ消え、自分を「おばあちゃん」だと強く意識することはなくなった。フルールとしての意志が確立されるにつれ、ギディオンからの重めのスキンシップにも、自然と身体が馴染んできている。
「ギディ、くすぐったいわ。あと、火を使ってるから危ないってば。ストップ!」
「……ストップと言われて止まれるほど、俺の自制心は強くない。ようやく手に入れたお前を、一刻も離したくないんだ」
ギディオンはフルールの肩を抱き寄せ、強引に自分の方を向かせる。
「ちょっと、聞いてる……!?」
言いかけた唇が、熱い吐息と共に塞がれた。
「んんっ……」
深く、独占欲を隠そうともしないキス。
かつての自分なら恥じらって逃げ出していただろうが、今のフルールは、彼の心音を感じながらその熱を穏やかに受け入れていた。
ようやく唇が離れると、フルールは少し上気した顔で、調理台に並ぶお米やお味噌を見つめた。
「……不思議ね。前世の記憶はあの日からほとんどなくなっちゃったのに、お米を研ぐリズムも、お味噌の加減も、体が勝手に動くのよ。体が覚えているのかしら」
「ああ、俺もだ。お前の作るこの香りと、お前の存在だけが、何よりも俺を安心させる」
ギディオンの瞳に熱が宿る。火を止め、そのままフルールの肩を掴み、抗えない力で調理台へと押し倒そうとした、その時――。
キッチンの扉が静かに開いた。
「……兄上。はしたないですよ。フルールお姉様が困惑しています」
冷静沈着な声で場を凍らせたのは、双子のリリアだった。隣ではレオンが「お姉様、お腹すいたー!」とはしゃいでいる。
「リリア、レオン……」
「お姉様、本当の家族になっていただけて光栄です。ですが、この兄は少々、番への執着が強すぎるようですね。再教育が必要かもしれません」
「……邪魔が入ったか」
リリアの冷徹な視線を受け、不機嫌そうに唇を離すギディオンを尻目に、皇帝夫妻も姿を現した。
「ほう、これが東の国の……『米』か」
「まあ、なんて芳醇な香りかしら」
その後
食卓に並んだのは、炊き立てのご飯、具沢山の味噌汁、そして復活した川魚の塩焼き。
一口食べたギディオンは、どこか遠い目をして呟いた。
「……もう、神木の中で見た光景も、あの時の名前も、ほとんど思い出せない。だが、この味だけは魂が覚えている」
「ええ……本当に。初めて食べるはずなのに、涙が出そうに懐かしいわ」
二人は微笑み合い、家族で囲む食卓の温かさを噛み締めた。
食後、満足げに茶を啜る皇帝が、少し真面目な顔をしてギディオンを睨んだ。
「いいか、ギディオン。フルールはまだ十六だ。番を見つけた喜びはわかるが……子供については、十八の婚礼までしっかり気を付けるのだぞ。わかったな?」
「……っ。善処します」
「善処ではなく、絶対だと言っている!」
「そうよ、ギディオン。番の本能が暴走して、フルールの体を損なうようなことがあれば……お母様、あなたを一生許しませんからね?」
父と母に釘を刺され、ギディオンは気まずそうに顔を背ける。
すると、それまで静かに食べていたレオンとリリアが、不思議そうに首を傾げた。
「こども……?」
「兄様とお姉様、もう赤ちゃんができるの?」
「でも、どうやって?」
双子の純粋ゆえに鋭い質問が飛び、食卓に一瞬の静寂が流れる。
「それは……その、コウノトリがだな……」
「父上、その説明は苦しいです」
皇帝が珍しく狼狽し、ギディオンは冷静を装いながらも耳を赤くして黙り込む。
今のフルールなら、そんな光景すら微笑ましく、余裕を持ってクスクスと笑い声を上げた。
(ふふ、いつか本当にそんな日が来たら素敵ね)
そんな風に、遠い未来の幸せを夢想していたフルールだったが――。
まさかこのわずか数日後、本当に「神木からの授かりもの」という形で、切実な子育てをスタートさせることになろうとは、この時の彼女は微塵も思いもしなかったのである。




