8 できること
ひとしきり泣いた僕は、不思議なほどすっきりとしていた。
ついさっきまで感じていた不安や怒り、寂しさや悲しさが全て消えて無くなっている。
「やあ、浄化できたみたいだね。良かったよ」
三沢さんが明るい声でそう言った。
「相談なんだけどね、聡志君さあ、もう少しこの世界に残る気は無い?」
「え? でも僕はばあちゃんと……」
「うん、それが君の希望だというのも分かった上での相談だ。君が連れてきてくれた子がいただろう? あの子は見事に旅立った。全部君のお陰だよ」
「僕は迷子だと思って話しかけただけですよ? 何もしてはいない」
「でも切っ掛けにはなっただろう? ああいった子は、大人の私や古村では逃げてしまうんだ。君は十分に辛い思いをしてきた。その上、あの子の不安を見事に受け止めてみせた。これはなかなか凄いことなんだ。だから少しの間だけでも手伝ってくれると助かるんだよね」
「僕も狐になるってことですか?」
「いや、君は人のままさ。誰にも見えないし、誰からも話しかけてはもらえない。君にとっては辛い日々の繰り返しになるだろう。でもね、あの子と同じような子がもうすぐ増えてしまうんだ」
「どういうことですか?」
「途轍もない天災が襲ってくる」
「え……そんな……早く知らせて避難させないと」
「どうやって?」
「どうやってって……それは……」
「人というのはね、信じたいものしか信じないし、見たいものしか見ない。聞きたいことだけを聞いて、覚えたくないことはすぐに忘れる身勝手な生きものさ」
僕は黙るしかなかった。
斎藤さんがゆっくりと口を開く。
「私は君の頑張りをずっと見ていたよ。君はとても勇敢だった。最後の瞬間まで生き抜こうとしていたよね。そして今日も事実を事実として淡々と受け入れる度量を示した。きっと立派な大人になっただろうに実に惜しいことだ」
僕の頭をばあちゃんが嬉しそうに撫でた。
斉藤さんが続ける。
「誰にでもできる事じゃない。私は仕事柄いろいろな大人を見てきたけれど、君は誰にも負けていないと思うよ」
三沢さんが真剣な顔を僕に向けた。
「聡志君、無理はするなよ? これは私たちの希望ってだけで、強制ではないんだ。そこは誤解しないで欲しい。君がおばあさんと一緒に行きたいなら止めない。なあ、ちょっと座らないか? 少しだけ話を聞いてほしいんだ」
古村さんが僕とばあちゃんを大きなソファーに案内してくれた。
さっきまでは無かったのにとは思ったけれど、もう何が起きても驚かないみたいだ。
「私と古村は同じ母狐から生まれた異父兄弟なんだ。海の見える丘があるだろう? あそこが俺たちの棲み処だった」
そして三沢さんは、時々ずれ落ちる眼鏡を人差し指で戻しながら、ゆっくり話し続けた。
子狐だったころの楽しい話や、母狐から教わった狩りのやり方など、聞いているだけで笑顔になれるような話だ。
「ある日ここでたくさん人が死んだ。私達は巣穴からそれをずっと見ていたよ」
愛する者たちを守るために戦場に赴いた男たち。
子供を育てるために、危険を冒して食料を探し求める女たち。
じっと息をひそめて親の帰りを待ち続ける子供たち。
そこには僕の知る平和な日常はひとかけらも無かった。
「ある日ね、耳を劈くような爆音が響いて、飛行機が何機もあざ笑うように空を切り裂いたんだ。たくさんの爆弾を、その冷たい腹から撒き散らしながらね。町は一瞬で火の海さ。そして逃げ惑う人達が最後に辿り着いたのがあの丘だった」
三沢さんの声に古村さんが頷く。
「うん、あの音は凄かったよね。飛行機が引いた真っ白な雲の帯は、今でも鮮明に覚えているよ」
ひとつ頷いてから三沢さんが続けた。
「生き残った人たちを助けに来る者はいなかった。私たちの兄弟は、飢えた人間たちに捕えられて食料にされてしまったよ。母は懸命に子供を守ろうとしたけれど、多勢に無勢だ。母も食われてしまった。私たちの目の前でね。丸焼きさ」
僕は吐き気を覚えながらも聞かずにはいられなかった。
「お二人も捕まったんですか」
「うん、捕まった。明日は腹を割かれるのだろうというその夜中に、ひとりの小さな男の子が闇に隠れてやってきて、僕たちが繋がれていた縄を切ってくれたんだよ。逃げろって言って、炒った豆の入った小さな布袋をくれた。独りぼっちで丘に来た子でね、あれはあの子の持っている最後の食料だったんだ」
僕は胸が苦しくなった。
「逃げることができたのは私たちだけさ。生き物はみんな殺されてしまった。そして助けてくれたその子も殺された」
「殺された? そんな……」
「そうだよ。食料を逃がしたと怒り狂った女に、崖から海に突き落とされた。その瞬間を見ていた私と古村は、必死で泳いでその子の体を岩陰に引き上げたんだ。ほんの数分だったけれど、その子はまだ生きていたよ。家族の名前を順番に言って、それぞれに言葉を残したんだ。私達はその言葉を全て心に刻んだ。絶対に伝えなくちゃって思ってね」
古村さんが遠い目をした。
「その子の死を見届けた俺たちは、杉の林に入って人に化けたんだ。その言葉を忘れないように書き残す必要があったからね。でも俺たちはまだ子供だったから、それほど長い時間人型を保つことはできなかった」
三沢さんがぷっと吹き出した。
「杉林で狐の姿に戻るのを見られちゃってね。狐を食べた大人たちが慌てて祠を建てたんだ。殺してすみません、食べちゃってごめんなさいってさ。今更だよね」
三沢さんが続ける。
「一度でも人に化けたことがある狐は、生まれ変わることはできなくなるんだ。どんなに修行を積んで霊格を上げたとしても、絶対に生まれ変われない。そういう決まりだ。それでも私たちは化けることを選んだ。その子の魂はこの世界に留まり続けて、私たちとずっと一緒にいたんだ。親の帰りを待っていたんだろうね。そしてその子の父親が戦地から戻ってきた」
「その子のお父さん?」